15. 隅王
クラスの大半と、オレは未だ一言も話したことが無い。名前も不確かだ。
四ヶ月も一緒に授業を受けたにしては、不自然ではないだろうか。
三時間目の社会の最中に、山田が隣の女子に消しゴムを借りた。
山丸とかいう名前だったと思う。“マル”とあだ名で呼ぶ山田は、かなり親しそうに見えて意外だった。
帰りの会も終わり、皆がいそいそと下校しようとする中、山田へ山丸さんについて聞いてみる。
「なあ、山丸さんと仲がいいのか?」
「どうしてそうなるんだよ」
「だって、マルって呼んでたから。あだ名で呼び合うくらいなんだろ?」
無言で見つめ返す山田は、あまり見たことがない緊張した目つきをしていた。
どう言葉を返すべきか、迷っているようだ。
オレの質問に答える代わりに、波崎の後ろに座る女子を山田は指で差した。
「アイツは、なんていう名前だ?」
「山……えっと、ど忘れしたな。山がつく名字が多いんだよ、このクラス」
「そうだ。山丸に山兼に山田。だから、わかりやすく呼ぼうって、お前があだ名をつけた」
「オレが?」
「山丸はマル、山兼はカネ。俺はダって言い出した」
「オマエ……“ダ”だったのか」
「んなわけねえだろ、断固拒否したよ!」
オレは友達の名前も、自分が作ったあだ名も覚えていない。山田が出した結論は、少しは予期していたと言えショックだった。
虫が食い散らかしたように、オレの記憶は穴だらけだ。
「手島くん、明日のことで話しがしたいんだけど……」
「
喋りかけてきた波崎の顔も見ずに、ランドセルを背負って教室を飛び出す。
脇目もふらずに通学路を急ぎ、家に帰ると、待ち受けていた母さんに朝食を抜いたことを
時間変更を忘れてしまったから、なんて言い訳が通じるとも思えず、友達と約束があったのだと嘘をつく。
先に言っておきなさい、ごはんが無駄になるでしょうと責められても、「ゴメン」と謝るしかなかった。
昼飯を食べ、部屋に上がってベッドの端に腰掛ける。床に放り出したままの攻略本へ目を向け、こめかみに手を当てた。
記憶を失った原因は、ラルサとしか考えられない。
ゲームの思い出を消したのと同様に、オレの頭の中を食べやがった。
その上で改めて振り返ると、ラルサの行動で引っ掛かる点がある。
出現した夜からずっと、羊は何かというと頭を震わせ、口を動かしていた。
原稿を食べるとき以外でも、あの独特な食事動作を目にしてたじゃないか。
自家製攻略本にケチをつけまくった土曜日の夜なんか、帰る間際までずっと揺れていなかったか?
“――
ラルサはそう言った。
食事がまずいのも、量が少ないのも、どうやらデメリットどころじゃない
“そんなこと言うなら、つまみ食いしちゃうよ”
腹を空かせたラルサは、ずっとオレを
ノートや教科書を消されるより、よっぽどタチが悪い。
「どうすりゃいい……」
独り言をつぶやいてはみたが、今できることはわかっている。
羊が満腹する質と量の晩ご飯を、書くしかないんだ。書かなきゃ、山田や波崎の顔も忘れてちまう。
蓮のことも、下手すりゃ母さんや父さんも記憶から消え、白紙の人生にリセットされる。
十二年の思い出全部を失うなんて、絶対にダメだ。
ベッドから立ち上がったオレは、学習机に向かって座り、力を込めて鉛筆を握った。
『百呪物語』、今夜はこれでしのぐ。
“魔女に
最初の一行の時点で早速、消しゴムに持ち替え、“百”の字を“千”に書き直した。
いくら気合いを入れても、長いストーリーを展開させるのは難しい。
なら、呪いを順番に書き連ねて、延々と千まで続けてやる。
“1 無痛の呪い”
呪いの名前を書いたら、次はその内容の説明だ。
名前だけ並べても、ラルサはまずいと言いそうだし、効率が悪い。
具体例なんかを挙げつつ、どんな呪いか詳しく書けば、少しは味も改善するだろうと期待した。
無痛の呪いは、痛みを感じなくなるもので、主人公は足を踏まれても、
剣で刺されても痛くなく、戦闘では敵の方が怖じけづいてしまう。
適当に書いた一つ目の呪いだったけど、主人公らしい特徴かも。
右手の指が痛かったので、治らないかなあという願望もこもっている。
中指は切り傷のせいだろうけど、親指の付け根が痛むのは、連日の書き物が原因だと思う。慣れない執筆作業が引き起こした、指の筋肉痛だ。
算数のドリルならこんなことにはならないのに、原稿作成だと余計な力が入ってしまうみたいだった。
二百文字を“無痛”で稼ぎ、二つ目の呪いを考えだした時のことだ。
階段の下から、母さんがオレを呼んだ。
「電話よ、修一!」
また波崎か。
放課後、話すのを断って帰ったから、ひょっとしたら電話があるかもとは思っていた。
母さんの薄ら笑いに対抗するべく、できるだけ真面目な顔で一階へ下りる。
予想に反し、受話器を渡す母さんは、何もコメントしなかった。
通話口を手で押さえ、自室に戻ってから電話に出る。
「もしもし?」
『ああ、手島。剣沢だ』
「げえっ!?」
『失礼なヤツだな。そんな返事があっかよ』
そりゃ驚くって。うちに一番電話してきそうにない人物だ。
学校で話したことも、挨拶くらいしかねえよ。剣沢がオレに何の用があるってんだ。
カツアゲ? タイマン? オレオレ
あまり得意でない不良用語が、頭の中を飛び回る。
しかし、ビビってちゃいけない。
勇気を振り絞り、彼の意図をズハリと問い詰めてやった。
「すみません。どのようなご用件でしょうか」
『敬語はやめろ。なんで緊張してんだよ。ちょっと頼みごとがあるだけだ』
「ケンカはからきしだし、腕力には自信がないです」
『だから普通に喋れって言ってんだろ』
呆れたため息が、電話越しに聞こえる。
別に普段は、ここまで剣沢を警戒したりはしていないし、敬語で挨拶したりはしない。
だけど、わざわざ自宅に電話されたら、何事かと構えて当然だろう。
『まあいいよ。明日、お前の家に波崎とかが集まるんだろ?』
「……よくご存じで」
『オレも参加する』
「げえっ!」
『“げえっ”ってイエスって意味だったのか。この辺りの方言にうとくて、スマン』
一体、どこがどうなったら、剣沢が参加しようと思ったんだ。
そう簡単に認めるわけにはいかず、明日は遊びじゃないんだと、懸命に訴えた。
「具体的には話しにくいんだけど、大事な用件なんだよ。オレ個人のピンチでさ。ゲームとか宿題とか、そんなのよりずっと大変なんだ」
『知ってるよ、羊だろ? 黒いヤツ』
「げげえっ! な、なんでそんなことまで知ってんだ……」
『思いっ切り、オレの目の前で話してたじゃないか』
授業の合間の休憩時間にも、オレと波崎は羊について話してはいた。
教室の片隅、小さな声なら他人に聞かれまいと考えたものの、剣沢には通用しなかったらしい。
真・教室の
今日の放課後、オレが帰ってから、剣沢は波崎に“お泊り会”のことを教えてもらったそうだ。
この二人が会話していたのも驚きだけど、羊対策と知ってなお、メンバーに入れろという剣沢に、頭の中は疑問だらけだった。
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