彼女はパエリアを作りながら彼を待っている
彼女はレシピの写真と目の前のパエリア鍋を見比べて、ため息をついた。いったい何が違うのかしら。それから、例のクリシェ。料理は見た目より味よね。
鍋をテーブルの真ん中に置いたところで、ふぅっと一息ついた。だいぶクリスマスっぽくなったわね。サラダにブルスケッタ、ローストチキンにパエリア、あとは……白ワインか。
ふと目を窓際に向ける。どうにも物寂しい。やっぱりクリスマスツリーを買っておけばよかった。オーナメントはあるのだが、肝心のツリーが去年のクリスマスに壊れてしまい、クローゼットの隅に眠ったままになっていた。来年こそは買おう。
「あなたは何か欲しい物ある?」とベーコンを頬張る若い男に彼女は訊いた。まだ汚れを知らない朝の陽光が食卓を包んでいた。
「僕? そうだな……ケーキを嫌というほど食べたい」
彼女はくすっと笑った。
「あなたって、ほんと子どもみたいね」
「クリスマスツリーが欲しいって言うのと、大した変わらないじゃないか」と彼は頬を膨らませた。
「あ!」と彼女は声を上げる。しまった、ケーキを取りに行ってない。壁の時計は六時少し前を示していた。もうすぐ彼が来る。
彼女は慌てて赤いコートを羽織ると、鍵と財布だけを手に部屋を飛び出した。と、開けたドアが鼻先を掠める距離に人がいて悲鳴を上げる。
「び、びっくりしたー」
ドアが当たらなくてよかったと胸を撫でおろす。目の前にいたのは、コックコートにタブリエを巻いた背の高い女性だった。
「驚かせてごめんなさい。ケーキをお届けに来ました」
「え、ケーキ?」
「はい。一番大きいサイズのホールケーキ、ご注文でしたよね?」
「あ、はい。でも取りに行くことになってたんですけど。というか、ケーキ屋さんって配達してくれるんですか?」
「五時って聞いてたんですけどなかなか来られないんで、忘れてるのかなと思って」
「まさにその通りです。料理に夢中になっちゃって、うっかり。助かります」
「よかった」
パティシエ姿の女性は陽だまりのような笑顔を浮かべた。「それでは、良いクリスマスを」
ケーキの箱をパエリアの横に置き、中を開けて確かめる。今までに見たことがないくらい大きなケーキだった。「Happy Xmas!」と書かれたプレートを、色取り取りのフルーツが取り囲んでいた。完璧。クリスマスツリーが無いことと、料理の見た目がレシピの写真どおりでないことを除けば。
彼女は再びふぅっと息をついた。時計の針は六時を少し回ったところだった。そこで彼女はふと思い当たる。私、ケーキ屋さんに住所言ってあったっけ?
その時、ドアのチャイムが鳴った。あ、来た。彼女は玄関に行き、覗き窓を覗く。赤く上気した彼の顔があった。ドアを開ける。さっきのことがあったので、心持ちゆっくりと。
「いらっしゃい」という彼女の言葉に、「ハッピークリスマス!」という彼の声が重なった。彼の隣には、彼より少し背の低いクリスマスツリーが置かれている。
「これ、本物!?」
「やっぱりそこなんだね。本物だよ。本物のモミの木」
「やったー! すごい!」と彼女は雀躍する。ほんとに本物だ。
「あれ?」
彼が不思議そうな声を上げる。「なんでコート着てるの?」
「それが、不思議なことがあったのよ」
部屋に入ると、彼は何も言われなくとも、先ほど彼女が見つめていた場所にモミの木を置く。それからテーブルの上を見て、歓声を上げた。
「すごい、クリスマスっぽい! ケーキ、大きい!」
「お店で一番大きいのだからね」と彼女は得意げに言う。「そのケーキを五時に取りに行くことになってたんだけど、料理に手間取っちゃって忘れてたの」
「あぁ、それで」
「でも、そうじゃないのよ。取りに行こうと思って家を出たら、そこにいたのよ。ケーキ屋さんが」
「ケーキ屋さんがいた? ケーキを届けてくれたってこと?」
「そうなの。でも、私、住所教えてないと思うの。ケーキを注文する時に、住所って言う?」
「うーん、普通は言わないよね。だって取りに行くことになってたんでしょ?」
「そうよね……」
少しの間が空き、部屋に静寂が訪れた。その静寂に彼女はどちらかと言うと気味の悪さを感じたが、彼も同じだったのか、重くなりかけた空気を振り払うようにひと際明るい声で言った。
「それにしても、大きいね。高かったんじゃない?」
「あ!」
「え!?」
突然の大声に、彼が飛び上がった。やはり怖かったらしい。
「お金、払ってない!」
「え?」
「お姉さんにお金渡してない」
「お姉さんって、ケーキ屋さん?」
「そう。しまった。ちょっと行ってくる」
「え? ご飯食べた後でもよくない? パエリア冷めちゃうよ?」
「お店が閉まっちゃうかもしれないし、何となく落ち着かないじゃない? すぐそこだから」
そう言って彼女は再び赤いコートを着込む。
「じゃあ、ツリーの飾りつけ始めてていい?」
「いいけど、一番上の星は取っておいてね」
「えー、まずそれから付けようと思ってたのに」
彼女は部屋を出ると、勢いよく階段を降りていった。アパートから飛び出す彼女を、黒猫があくび交じりに見送った。
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4つの話はこうしてつながっていたのです。
でも、この間に起こっていた本当の奇跡をあなたはまだ知りません。
それは最後の話で。
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