反転

 もはやキティのいない時間は耐えられない。

 イライアスはあらゆる手を使ってキティを引きとどめようとする。


「これは命令だ、ここにいろ!」


 以前の主人だったときのように命じてみたり。


「キティ、一緒に遊ぼう。お前の好きだった……ほら、追いかけっこをしよう」


 誘惑で釣ろうとしてみたり。


「いいか、私を置いていったら後でお仕置きをするぞ!」


 拳を振り上げて脅してみたり。



 しかしイライアスはそのどれにも、以前ほどの効力はないのだと思い知らされた。


 キティはイライアスが自分の手で捨てた奴隷である。

 相変わらずイライアスに好意を示し続けてはいるが、彼女の主は今のイライアスではない。主導権はいつだって彼女にあり、イライアスはこの部屋から出ることはできないが、彼女はいつだって好きなときに出て行ける。結局の所イライアスは気まぐれな彼女にすがり、媚び、慈悲を乞うしかないのだ。



 キティは上機嫌で帰っていくと、次にやってくるときイライアスの望みを少し叶えてくれたりする。


 たとえば最初の食事でイライアスに手ずから料理を与えることができたのが嬉しかったのだろう。退屈だとわめく彼のために、彼女はいくつかの本を持ってきた。彼がよく読んでいた弁論術についての本や、礼節について綴った物、さらにはどこから見つけ出してきたのだろう、帝王学の分厚い本まで仕入れてくる。


「お前、まさか盗んできたんじゃないだろうな?」


 イライアスが思わず言うと、キティはうみゃーんと鳴いてつんと顔をそらせた。相変わらず肯定とも否定とも受け取れない。


 他にも、運動ができない身体がなまるとぼやく彼のために弓を持ってきたり(当然矢はないので弦を張ってどうにかしろと言うことなのだろう)、彩りが足りないと言うと花を花瓶に活けてやってきたりする。キティは不満過多な囚人のために、できるだけ努力をしようという気概はあるようだった。



 その一方で、この愛らしい看守の機嫌を損ねると、どんなに恐ろしいことが起こるか。


 イライアスは一度出て行く彼女の後を付いて外の景色を覗こうとし、その際にどうやら深入りし過ぎて大層怒りを買った。

 うなり声を上げ、危うくひっかく所まで飛びかかってきたキティは、その勢いのままいなくなってしまう。置いてきぼりにされたイライアスが水差しの水を飲みきり、腹を空かせ、喉を渇かせる時間になっても一向に戻ってこない。部屋の中を腕を組んで歩き回り、ふてくされてベッドの上に陣取り、いつの間にか寝て、目覚めてもまだ彼女の気配が見当たらない。


 時の刻まれない部屋でイライアスはふと恐怖に駆られる。このままずっと、彼女が来なかったら? ぞっとすることだ。水ならまだ、風呂場等で調達できるかもしれない。だが食べ物はキティが用意してくれなければどうにもならない。


 彼にはそれまで、漠然とキティは何をしても自分を見放さない、キティは何をしても許してくれるのだという甘えがあった。しかしこれが現実であり、正しい現状である。

 キティが来ないと言うことは、単に暇で死にそうなどという生やさしいことではない。イライアスの世話係を務める彼女が職務放棄するとは文字通り、ライフラインが断たれることをも意味する。キティはほんのわずかな悪意でイライアスを殺すことができる。あるいは、彼女自身がここに来たかったのだとしても、何らかの都合――主に別の指令を仰せつかっただとか、彼女自身が体調不良で倒れているだとか――それだけで、イライアスはわけもわからないままここで果てることになる。閉じ込められているイライアスには知るすべがない。何も。


 恐慌に陥った彼は扉に爪を立て、ひっかきながらひたすらに彼女の名前を呼んだ。

 キティ、キティ、戻ってきておくれ。お前の言うことを聞くから。お前のためになんだってしてやるから。

 やがて爪が割れ、赤い線が幾重も扉につく。声がかすれ、ほとんど諦めかけたそのとき、彼は重たい壁の向こうでわずかに響く音を耳にした。


 濡れた頬もそのままに、顔を上げる彼の前でゆっくりと閉ざされたそれが開く。ぴょこりと顔を覗かせたキティはイライアスのぐしゃぐしゃの顔を見て微笑んだ。

 彼は罵倒するでもなく許しを請うのでもなく、ただ言葉にすらできず彼女に抱きついた。まるで迷子になり、ようやく再会できた幼子のように。


 キティは心得た顔でイライアスの背をさすり、あやすように撫でている。

 幸か不幸か、そのときのイライアスからは仔猫の瞳がぎらぎらと剣呑に輝いている様は見られなかったのだろう。




 その日からイライアスがキティに尊大な態度を取ることは――なくなったとまでは行かないが、頻度が減った。彼は常に彼女の顔色を窺い、彼女が少しでも不機嫌そうな様子を見せたら慌てて取り繕わなければならなかった。


 獣人女のご機嫌取りをしなければいけないことは、大いに王子や人間の男としての自尊心を傷つけたが、ここで一人虚勢を張っていた所で何になろう? どれほどイライアスが自分を演じて偉そうにしようが、この部屋では事実上キティが彼の主である。彼はそれを思い知らされた。




 わからないことだらけ、理不尽だらけの新しい生活だが、等式ははっきりとしている。

 キティを喜ばせること。すなわちイライアスの生活の改善。

 キティを不満にさせること。すなわちイライアスの死と破滅。


 だがしかし、これほど決定的に関係の上下が明らかになろうと、イライアスが真に心まで屈することはなかった。彼は卑屈にも自分を保ち続ける。どれほど見かけ上情けない立場になろうとも、心の奥底で相変わらずこの美しい獣人よりも自分は上だと信じて疑わなかったし、いつかここを出てそれを思い知らせてやるのだという希望も捨てていなかった。




 キティはイライアスの疑問に答えられないし、答えようともしない。イライアスも無駄なことは諦めた。彼は少し予定を変え、時を待つことにする。


 キティは当然のように毎日(と言っても時間感覚がわからないので推測でしかないわけだが)イライアスの世話にやってきて、甲斐甲斐しくイライアスの世話と相手をし、やがて帰っていく。去り際に彼女を引き留めることは機嫌を上向かせるが、深追いして外を意識する仕草や行動を取ることは命取りだと何度かのやりとりでイライアスは知っている。もう加減は間違えない。


 イライアスのためにキティが持ち込んだ物の一つに砂時計がある。時間のわからないイライアスにとっては貴重な道具だ。次にキティがいつやってくるかの目安になる。キティは大体平均すると四回ひっくり返した辺りでやってくることが多い。少ないと二回程度。長いときは十回。彼は外で彼女が何をしているのか全く知らない。聞こうにもキティは言葉を話さない。どんなにじれったく思っても、彼女はみゃあみゃあ鳴くのみだ。


 時間は無為に過ぎていく。何日? 何週間? ……月もまたいでしまったのか、それすらもイライアスにはわからない。どこかに印をつけて日にちをカウントしようにも、一日がいつ過ぎたのか知りようがないのだから。砂時計をヒントにすることも考えられるが、そればかりに気が行きすぎると滅入ってくる。



 徐々に、徐々に、むしばまれる。イライアスは弱っていた。キティは彼の拠り所だった。




 ある日、帰っていこうとするキティを後ろから抱きかかえるようにして、イライアスはとどめた。いつにない大胆な行動に、キティはぴんと尻尾を張る。


「慰めてくれ、キティ。私にはお前しかいないんだ」


 彼女の胸の前で交差させた腕に力を込め、彼は耳元でささやく。奇しくもあのときとほとんど同じ言葉だったが、気がついていただろうか?


 美しい獣人は金と銀の目をつと細め、イライアスに導かれるがまま部屋の奥へとやってくる。あのとき同様彼女は無抵抗で、どこか好奇心に、期待に満ちたまなざしでイライアスを見上げている。

 ベッドに下ろし、優しく唇を重ね、衣服をほどいたイライアスの手が止まった。キティがじっと見つめていると、彼はすぐに何でもないとでも言うように首を振って再び動き出す。しかしその視線はたびたび彼女の胸元に降りていく。


 そこには、ぼろぼろの赤い首輪だけでなく、紐で通された鍵が三つほど。一つはこの部屋の物だ。何度も彼女が手にしたのを横で見ている。


 イライアスの喉が鳴った。獣人は組み敷かれたまま見上げている。彼はゆっくりと彼女に向かって手を伸ばし――次の瞬間、世界が反転した。


 驚愕するイライアスの上で、キティが首を振り、背をしならせる。一瞬の間に主をベッドに引き倒し、自らは馬乗りになった獣人が髪を手で梳くと、ちりんと鍵が揺れて音を立てる。とっさに目で追ったイライアスは、すぐに真上から射るような視線を感じる。


 見上げたキティの視線は冷たい。彼女ははだけられた胸にぶら下がっている鍵を片手で持ってぷらぷらと揺らすと、うっすら唇を開いた。


「やはり我が君は大層薄情でいらっしゃる。このわたくしよりも、外の世界とはそんなに魅力的ですか」


 本当に驚くと、声も出ない。赤くなったり青くなったり、表情をゆがめ固まってしまっているイライアスの腹の上に陣取ったまま、キティは身体を倒して顔の両脇に手をつく。近くで見ても女は美しい。彼女がまともに言葉をって初めて、イライアスはヴェールの向こうの人物とキティのシルエット、仕草、見た目――それらが全く同じであったことに思い至る。


 どうして、こんな近くにいながら。


 自らの愚鈍をいっそ笑いたくなってくるのと同時に、せり上がってくるのは驚きと恐怖。


 結びつかなくて当然だ。あの特徴的な声の女とまったく喋らないキティが、まさか同一人物だったなんて――。


 ショックで目を回しそうにすらなっている主の腹にまたがったまま、女は妖しく笑った。その声はまさしく、イライアスをここに連れてきたあの女のものであり、かつて扉の向こうで壊れかけのイライアスを笑った魔性のものでもある。耳の奥、身体の芯にまで入り込んでくるほどの響き、しかしけして不快な物ではなく、むしろいつまでも聞き入っていたい、恐ろしいほどの美声。


「驚いていただけましたか、結構! 我が君があまりにも愛らしいのでついつい種明かしを先延ばしにしてしまいました。いつ気がついてくださるのか、いつその顔をゆがめてくださるのかと! ですがこうなった以上、もうお遊びはおしまいですね」


 これほど邪悪に醜悪に笑ってなお、品と美しさを保てる生き物が存在するのか。イライアスは呆然と、彼女から目を離すことができない。

 ぴょこりぴょこりと彼女の頭の上では耳が揺れ、腰の辺りでゆるゆると真白い尻尾が揺れている。


「改めて名乗りましょう。あなたの前ではただのキティ。けれどわたくし、実はそれだけの女ではないのです。我が名は、バスティトー=プトラ=イリディス=アレサンドロ=マリウス。バスティトー二世と呼ぶ者もおりますね。つまりわたくし、とある獣人国家のしがない女王でございますの、我が君」


 イライアスは自らの最初の過ちを悟る。おそらく彼女が秘匿していたせいもあろうが、それにしても人間達はこぞって節穴だったということか。


 縞模様の意味をもっと深く考えるべきだった。

 虎の子を、仔猫のように飼い慣らせるはずがないのに。


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