虜囚

 飛び起きたイライアスの横で獣人がぴんと耳を立てた。彼はまじまじと美しい彼女の顔を見つめ、思わずその名を口にする。


「キティ……」


 特徴的な見た目は、時が経っていようとすぐに相手が誰であるか思い起こさせる。金と銀の瞳がきらりと光り、縞柄の入った白い尻尾が揺れた。そうだよ、とでも言うように彼女はにゃあんと鳴き、イライアスに甘えかかる。昔と少しも変わらない仕草で、胸の辺りに頭をこすりつけてくる。

 だが全く変化が見られないわけではなかった。最後に見たときはまだ凹凸の少ない幼い容姿だったのが、今はぐっと大人びてなまめかしい。美貌にはますます磨きがかかっているようで、彼は一瞬すべて忘れて硬直してしまった。


 呆然とされるがままになっていたイライアスだが、キティが自分の指を取って甘噛みするいたずらを始める頃には我に返り、獣人の肩をつかんで押しのける。


「一体何が……私、は……」


 そこで、彼は意識を失う直前を思い出す。

 突然止められた馬車。周囲の喧噪の音。開いた扉。ヴェールの女――。


「そうだ、私は!」


 立ち上がろうと足を動かした瞬間、じゃらりと金属がこすれ合う音が鳴って彼は一時停止する。慌ててキティをどかし、自分にかけられていたシーツをはねのけた。すぐに自分の足に黒い足かせが嵌められていることを発見する。革製のそれにいかにも頑丈そうな鎖が絡みつき、ベッド下へと続いている。確認してみると、ベッドは床に固定されていてとても人の力では動かすことが難しそうだ。


 あんぐりと口を開け、イライアスは震える手で軽く鎖を引っ張ってみる。じゃら、と無慈悲な音が鳴った。


「これは、どういうことだ」


 唸るような低い声を上げれば、視界の端で何か動くものがある。反射的に目で追って顔を向けると、地面に美しい獣人が座り込んでイライアスを見上げている。白い両耳が彼女の何かの感情でも反映しているのか、時折ぴりりと震えていた。彼は拳を握りしめて打ち付け、彼女に向かって怒りのまま言葉をかけた。


「なぜお前がここにいる。どうして私はこんなことになっている!」


 威圧するはずが、ベッドは思いの外柔らかくてイライアスの手をぽふんと優しく受け止める。

 キティはイライアスの顔を見つめ、みい、と答える。王子は血走った目で獣人をにらみつけていたが、あくまで獣人が尻尾を振りつつ定期的にぴょこぴょこ耳を動かしているのを見ていると、やがて毒気を抜かれてため息を吐き、頭を抱えた。


「もういい。お前に聞いても無駄だったな。言葉を喋らないんだから」


 みゃーん。返事のように鳴かれてイライアスはますますぐったりとうなだれた。こちらの喋っていることを理解しているのかしていないのか、わからない奴である。


 大きく息を吐いてから、気を取り直して顔を上げ、そろりそろりとベッドの中から足を下ろして歩こうとしてみる。

 ついでに革製の足かせを探ってみれば、意外と簡単に取り外すことができた。ほっと一息ついて汗をぬぐう。家畜でもあるまいに縛り付けられているなんてごめんだ。


 改めて見下ろしてみると、服は変えられていて、ゆったりとしたナイトウェアのようなものになっていた。袖を通し、前を重ねて腰の辺りで紐を縛るような構造だ。下着は特にない。生地は肌に快く、それなりに上質なものかもしれないとぼんやりイライアスは思った。よく見れば袖や裾に金糸で刺繍が施されている。

 首の辺りに何か当たってちくちくする感覚がある。探ってみて、イライアスは自分の顔からさっと血の気が引いていったのを感じる。


 鏡。鏡を、見なければ。自分の悪い予感が外れていますように。


 イライアスがふらふらと歩き出そうとしたのを感じ取ってか、キティは裸足の彼にサンダルのような履き物を用意する。こちらもまた、妙に足に合う履き心地だ。イライアスのために仕立てられた特注品であるかのように。


 くだらん妄想だ、と彼は断ち切り、立ち上がってぐるりと室内を見渡す。


 眠り心地の良さそうなベッド。座り心地の良さそうなソファ。ぴかぴかに磨かれたテーブル。色鮮やかな絨毯。……おおむね、貴人の寝室に近いものを感じる。色はどうやら赤系統で統一されている。テーブルはソファ用のくつろぐためのものと、それから壁際のもう少し機能的なように見えるもの。壁際の方のテーブルには小棚もついていたが、たいしたものは見つからなかった。ほぼ空っぽなのだ。


 イライアスはふと部屋の端に近づいていき、閉じたままの重たいカーテンを開ける。その瞬間、再び自分の顔がこわばったのを感じた。


 この部屋には窓がない。いや、引いたカーテンの先に窓のような形のものはある。しかし、そこに映し出されているのは明らかに人工の壁紙であり、外の風景どころか今が昼か夜かすらわからない。室内を照らす照明は全体的に薄暗かった。

 カーテンの側に、重たそうな紐が垂れ下がっている。イライアスが何の気なしに引いてみると、音を立てて人工の壁が昼の青空の風景から夜の星空の風景に変わった。彼は肩を怒らせたまま振り返り、側に控えている獣人に言い捨てる。


「お前の今の主人はどうやらよっぽど悪趣味か、ユーモアのセンスが著しく欠けているらしい」


 キティはニコニコしていた。


 イライアスは蹴り飛ばすように彼女をどかして反対側へと歩いていく。

 人工窓のついていない壁にある扉は三つほど。

 一つはガチャガチャと回しても鍵がかかっているようで開かず、これが外部通路につながる扉だとイライアスは確信した。重たい扉は頑丈そうで、ふと彼が見上げると視線の高さになにやら書いてある。


 ……おそらく獣人の世界の言葉なのではなかろうか。博識なイライアスもさすがに読めなかった。にらみつけてから、ふいと目をそらす。


 木製の横開きの扉はクローゼットに続いていたらしい。どうやらイライアスのために用意された、様々な衣服がつり下がっている。黒系統のものが目立ち、外出用のものまで揃えられているのを見て彼ははっと鼻を鳴らした。


「こんなものを吊しておいて、果たして出す気があるのか?」


 みゃーん。後ろでキティが鳴いた。じろりと視線を流すと、彼女は素知らぬ顔で毛繕いをしていた。


 最後の一つは浴室やトイレへと続いていた。トイレは綺麗だという以外特に言うべき所がない。浴室の方を開けた瞬間、イライアスは表情をなくすことになった。彼の好みである花の香りがふわりと漂ってきたからだ。状況が状況なだけに閉口する。絶えず湯が供給されているいかにもな風呂場の手前、脱衣室とおぼしき場所にはご丁寧に身体を拭くためのタオルが何枚も折り重なっている。


 視界の端に、映るものがある。

 彼は一度深呼吸して覚悟を決めてから、大きな鏡を覗き込んだ。


 やはりというか悪い予感は当たるものというか、首のちくちくした感触は正しくそこに拘束具の存在を主張している。イライアスは黒い革の首輪を確認して悪態をついた。先ほどの足かせは留め具を弄ってしまえば誰でも容易に解ける構造をしていたが、首の拘束具には南京錠がついている。これではさすがに鍵がないと外せそうにない。舌打ちしながらイライアスは不愉快な光景から目をそらそうとして、ふと気がついた。


 思えば先ほどの足かせでも感じたことなのだ。

 この首輪には、穴が一つしかない。

 まるでイライアスのためにこしらえたとでも言うように、一つしか穴が開いていないのだ。


 ぞわ、と背筋が逆立つ。鏡の中で何かが動いた。肩が跳ね、ひゅっと息を吸ったときに喉が鳴る。

 しかしおそるおそる、それからぱっと勢いよく振り返ってみれば、そこにいたのは先ほどから探索するイライアスの後をちょこちょこと追い続けていたキティで、彼は安堵して息を吐いた。


「キティ、お前の今の主はあの女だろう。一体何が目的なんだ」


 おそらく外へとつながる扉をガチャガチャと弄って諦めが付いてから、彼は唯一の話し相手に言葉をかける。キティは首をかしげている。


「ひょっとしてあれは貴様の親族か?」


 彼女は彼が何を言っても、ニコニコしたまま尻尾を揺らしていた。

 何度か質問をしてから、かっとなったイライアスは獣人の元に勢いよく歩み寄り、首をつかみ上げる。


「どうしてお前がここにいるのかは知らないが、私はお前を別の主に売り払ったはず。そいつがこんな笑えない冗談の仕掛け人か? ここはどこだ。私はなぜここにいる。他の者達はどうした。今はいつだ――」


 は、とイライアスは何かに気がついた。

 自分の指元に目を下ろし、それから声を上げて獣人を突き飛ばす。


 金と銀の目を輝かせる白猫の首には、薄汚れ色あせた首輪がついている。金具があって、そこにネームプレートがある。K・I・T・T・Y――キティ、と彫られているそれは、間違いなく昔イライアスが彼女に贈ったものだ。


 だが、首輪は彼が彼女の主をやめたときに処分させたはず。なぜ彼女はそれを今でも身につけているのか?


 何か、とてつもなく悪い予感に苛まれ、後ずさるイライアスに向かって、顔を澄ませたキティがすいと立ち上がり歩いてくる。とっさに避けた彼をそれ以上追わず、キティはてくてくと進んでいく。

 イライアスは混乱していて反応が遅れた。やがて彼女がガチャガチャと音をさせ、扉を開けて出て行こうとする段になってようやく動き出す。


「待て、待つんだ、キティ!」


 美しい獣人は、去り際に一際妖艶な微笑みをイライアスに向けた。どこか思わせぶりに。

 直後、重たい扉の閉まる音と、がちゃりと錠の回る音が無情に響く。


 イライアスはすがりついて彼女の名前を呼びながらどんどんと叩いた。反応はなく、やがて疲れきった彼は力なくその場に崩れ落ちることになった。


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