前を向く その二
その後ヤニ汚れを落とすためかつてアルバイトをしていた清掃業者に依頼し、予想以上にきれいになったので名義を彼自身に切り替えてから凪咲に連絡を入れた。
「前使ってたハイツ、俺の名義に切り替えたからそこに住めよ」
『あそこでしょ? 一人じゃ広いよ。どうせなら一緒に暮らさない? つばさと三人でさ』
「えっ?」
事実上の共同生活経験もつばさとの面識もまだ無い状態だが、何となく前の夫婦生活よりは楽しく暮らせそうな予感がした。小野坂は義妹のアイデアに乗り、再び『離れ』を出てハイツに舞い戻ることを決める。
「凪咲さん、『リーテンスコーグ』に入られるんですか?」
「あぁ、一人独立が決まって空きができたらしいんだ。その人のタイミングに合わせて来月半ばこっちに来ることになってさ」
「念願叶って良かったですね、彼女明るい方ですから楽しくなりそうな気がします」
根田は知った顔の仲間が増えると楽しそうにしている。
「そうなるといいけどな、この街との相性も悪くなさそうだし」
「智君にとってもつばさちゃんにとってもええんちゃう?」
堀江も凪咲との共同生活であれば上手くいくような気がしたため、同居人の人数が減る寂しさはあったが小野坂を送り出すことにした。現在国忠は家賃を支払うことを条件にそのまま『DAIGO』上階の独身寮にいるのだが、通勤時間零分、家賃無料に惹かれて引っ越しを検討し始めている。
「良い機会したからわちもそっちに入らさろうかいな?」
「うん、いつでもおいて。ここ光熱費の割り算分だけやから」
「したら荷物まとめ次第自分でやっつけるべ」
国忠は空室になった小野坂の部屋を見回していた。
一年前、市内東部にある温泉街の旅館に就職を決めて箱館に移住した佐孝幸だったが、上司からのセクハラに耐えきれず秋には退職していた。ほんのわずかな就職期間だったものの仲間に恵まれていた彼女は、彼らの協力のお陰で会社から損害賠償金を勝ち取っていた。そのお金で多少ゆっくりできるのだが、じっとしていても気が滅入るので年明けから土産物店でアルバイトを始めている。
その傍らでOホテルが大量の中途採用枠を設けて即戦力重視の求人を出していた。彼女は社員経験こそ短いが、実家近くの親戚宅が温泉旅館ということもあって高校時代から休みごとにアルバイトに入っていた経験がある。その経験が買われたのか書類審査と面接審査を通過し、一週間後に控えた最終技能試験の結果次第で一流ホテルの従業員になれるチャンスを掴んでいる。
「幸、辞令が出た」
そんな矢先、この街のデパートで働いている姉が二年連続の転勤を告げる。そうなると法人契約であるこの家からは出て行かねばならなくなった。
「へっ? また急だね」
「そうだね。ただ家のことは心配しなくていいよ、仲良くなった直営の子が見つけてくれてるで明日一緒に見に行かざぁ」
「うん、ありがとう。ところでどこに決まったの?」
「東京。雪の呪いから解放されるのはいいんだけえが、思ったよりやりやすかったでちょっと寂しいわね」
姉は化粧品メーカーのビューティーアドバイザーで、総合職社員のため何度か転勤を経験している。当初北海道への転勤を嫌がっていたため、妹の移住を何気に歓迎して両親の説得にも協力的であった。
「職場の付き合い結構多かったでね」
「うん。来てみたら皆良い人ばっかでさ、あんたも上司は最悪だったけど同僚には恵まれてたもんね」
姉は職場の友人が探してくれたという物件情報を佐孝に見せる。それに目を通したところでまだ土地勘は掴めていないが、JR線沿いということだけは理解できた。
「ちょっと北の方になるけど不便じゃにゃーて思うよ、メインストリートに出るにはちょっと遠いけど家賃は安いよ」
「今の
彼女が物件情報からの視線を外したのを見てから、姉はところでさと話題を変える。
「あれだけの一流ホテルの面接よく通ったよね」
「うん、正直びっくりしてる」
「ただそのバストが気に入りましたとかじゃヤダよね」
姉は嫌なところを突いてくるが、せっかく再就職したのにセクハラに悩まされる状況になっても困ると彼女なりに気に掛けているつもりであった。
「うぅっ……」
「そうじゃなけりゃいいなって話、悔いなくやりなせゃー」
「うん……」
佐孝は身長百四十七センチと小柄ながらもバストは九十センチ以上あり、身長に合った洋服がほとんど着られない。下着もスポーツブラにしたりさらしを巻いてみたりと少しでも注目を避ける工夫はしてきたつもりであった。しかし前職の上司のようにバスト狙いで近付く輩もおり、かつての恋人もバスト狙いだったのではないかとちょっとした猜疑心に苛まれている。
結局そのささくれが治りきらぬまま当日を迎え、最終技能試験のに臨むためOホテルにいた佐孝は完全に浮いていた。即戦力を求めているだけあって他の通過者は三十代以上と見え、中には親世代に見えなくもない者もいる。その中に社会人経験わずか半年である二十三歳の自身が混じっていることに否が応にも緊張が走る。
「こんにちは、あなたも試験を受けられるのね?」
一人ガチガチに固まっている彼女に、ピシッとスーツを着た中年女性が声を掛けてきた。
「はい、佐孝と申します」
「
コンシェルジュか……大手ホテルでは花形とも言える部署を狙っている手塚を羨望の眼差して見る。
「レストランホール希望です」
「そう、お若いのにね」
彼女は意味深なひと言を残してから、訊ねてもいないのに自身の経歴を語り始めた。子供の頃から海外生活が長く、五カ国語話せると言った。ホテルコンシェルジュとしての職務経験もあり、以前勤めていたところでは不当な扱いを受けたそうだ。
「日本はまだまだ性差別の根強い国です。男はどんなに無能でも四十年勤務さえすれば課長にまでは昇格できるのだけれどね、あなたもそうお感じにならない?」
手塚の話が耳に入っていたらしき男性が嫌そうな表情でちらとこちらを見やる。佐孝にとっても返答に困る内容であったため、まだ分かりませんとお茶を濁した。
「そう、因みにおいくつかしら?」
「二十三です」
「まだまだこれからお勉強が必要ね」
「はい」
確かに自身には社会勉強というやつが必要だとは感じるのでそれに対しては素直に頷いた。
「あなたはお見掛けも可愛らしいし、胸元の厭らしい視線にご苦労なさってるんじゃないかしら? 日本の男性はハラスメントがお得意だから、外国人社員の多い企業の方が向いてらっしゃると思うの」
手塚の言ったとおりの面もあるのだが、どことなく自身の能力の高さを鼻にかけているような嫌味も同時に感じていた。その後も英語力は身につけておけ、世界情勢は常に把握しておけなどお小言に近いことにまで言及し、いい加減うんざりしてきたところで試験官数名が部屋に入ってきた。
「これより名前を呼ばれた方から試験会場へご案内します」
彼らは部門別に分かれて受験者の名を読み上げ、佐孝は更に上階のレストランホールへと案内される。メンバーは彼女を含めて四人いたが、いずれも三十代以上の男性ばかりであった。
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