裏切り その一
雨水も過ぎて暦の上では春となったある深夜帯、静かに降り積もる雪の中一組の男女が大きめの荷物を抱えて真っ白な路面を走る。女は雪道に慣れていないのにピンヒールのブーツを履き、時折足を滑らせていた。男は毛布にくるまれた物体を片腕で抱えながら女を支え、何かから逃げるように坂道を下っていく。
幹線道路に出た二人は、運良く通りかかったタクシーを拾い、二十四時間スーパーへ向かうよう告げた。タクシードライバーは五十代くらいのふくよかな女性で、はいと返事だけして静かに車を走らせる。
「グー、グー」
男が抱える毛布の中からうめき声が聞こえ、ドライバーは不審そうにバックミラーで客の様子を窺う。それに気付いた男が毛布を一部をめくると、赤子の顔がちらと見えた。
「ギャーッ!」
赤子は耳に突き刺さるほども大声で泣き始め、男が必死にあやしている。女はのけぞるようにしながら嫌そうに眺めており、とても育児をきちんとしているようには見えなかった。
「お子さんかい?」
彼女は後ろを見ずそう訊ねた。
「えっ、えぇ」
「こったら時間に子連れ外出しささるんはゆるくないべさ」
「まぁ……でも一人にしておけなくて」
「そうかい」
それから二十分ほど車を走らせると市内唯一の二十四時間スーパーに到着し、ドライバーは一旦メーターを止める。
「他に向かわさる所はあらさるんかい?」
「空港へ行って頂けますか?」
「まだ開かさっとらんけどええんかい?」
「始発の飛行機に乗りたいんです」
「したら七時頃なんでないかい?」
ドライバーの言葉を受けた男が腕時計で時間を確認する。まだ四時間ある……彼は失望感あふれる声で呟き、女の方を見た。
「すぐ近くのコンビニしたら二十四時間営業だべ、そこまででいけりゃ乗っけるべ」
「何とかなりませんの?」
「ならね」
彼女は女の言葉をはねつける。
「買い物してきますので子供見ててもらえます?」
「アンタらの子でないかい、自分らで責任持たらさってけれ」
「まぁケチくさい」
女は責任放棄を棚上げしてドライバーをなじる。
「わちはシッターでねしたからさ、何かあらさっても責任は取れね。アンタさっきから旦那に全部押し付けてんでないかい」
二人は赤子を抱えた状態のまま追い立てられるようにタクシーを降り、スーパーに入ってベビー用品をいくつか購入してから再びタクシーに乗り込んだ。
「空港近くのコンビニまで」
「はい」
車は不自然な家族を乗せて空港方向へと走り、途中経路に含まれる温泉街を通過していく。時間的に灯りはまばらだったが、日常とは違った空間に女は嬉しそうに窓から外を覗いていた。
「まぁ、こんな所に温泉があるのね」
それに対した返事は誰もしない。ドライバーは男との対話だと思っており、男は今尚ぐずり続ける赤子相手に悪戦苦闘していてそれどころではない様子であった。赤子はタクシーに乗っている間中ほぼ落ち着くことなく、それでも赤子に見向きもしない女の素行にドライバーはミラー越しから不信感たっぷりの視線を向ける。
車は温泉街を通り抜けて空港が見える場所まで来た。暗い夜道の中で煌々と輝くコンビニが前方に二軒見え、ドライバーは奥のコンビニを選んで停車させた。
「現状行けるんはここまでだべ」
タクシー後部座席のドアが自動で開くと、女は自身のバッグだけ持ってさっさと車を降りる。支払いくらい手空きのお前がしろよとは思ったが、結局大人しくならずじまいの赤子を抱えている男がもたつきながらも財布を出しているのを静かに待つ。
「カードの方が早いべよ」
「いえ現金で」
男は細かいお金を探るのを諦めたように一万円札をドライバーに渡す。釣りを受け取った後もまごついていたが、どうにか財布をバッグに仕舞って荷物を赤子を抱えると女の待つコンビニに入っていった。
ドライバーは二人が合流したのをバックミラーで確認してから車を走らせ、やり過ごした方のコンビニに入る。見せ前の駐車場に目立つようにパトカーが停車しており、タクシーは一台開けた隣に車を停める。彼女が降車するのを見計らったようにパトカーから二名の警察官が姿を見せ、三人は示し合わせたかのように寄り合って言葉を交わしていた。その後ドライバーは店内に入り、警察官はパトカーに乗り込んで発車させ、もう一つのコンビニへと移動していった。
コンビニに入って時間つぶしを始めた不自然な家族だったが、相変わらず赤子がぐずったり泣いたりを繰り返して静かにならない。他に客もおらず、こんな深夜に連れ出されりゃぐずりもするかと店番中の店員も何も言わなかった。
「ひょっとしておむつかな?」
男は赤子を連れて店員にトイレを借りたいと告げ、ベビー対応にしてある女性用トイレに入る。男はそれなりに慣れた手付きで赤子の服を脱がせるが、赤子の方が嫌がって個室内に響き渡るほどの大声でわめき出した。男がいくらあやしてもすかしても一向に治まらず、大人の力で取り押さえようにも火事場の馬鹿力を見せつける赤子は思い通りにならない。
予想以上に作業が難航する中女性用トイレのドアがノックされてしまい、いくら赤ちゃんに対応するためだったとは言え男が出てきたら騒ぎになるのではと内心かなり慌てていた。
『大丈夫、私よ』
無駄に艶のある女の声に安堵した男は解錠して迎え入れる。その間も赤子は泣き続け、下半身はむき出しになったままであった。
「おむつは替えられて?」
「まだなんだ、この子全然言うこと聞いてくれなくて」
男はそう言ってため息を漏らした。
「でしょう? 悪いのは私じゃないわよね?」
「もちろん。こんな子珍しいよ」
「放っておきましょう、言うことを聞かないのがいけないんだから」
「でもこのままじゃ……」
「嫌なら自分でしなさいって話でしょ?」
男はせめておむつの付け替えを終わらせようと赤子に向き直るが、女は自身に背を向けたことが気に入らなくて男の背中に擦り寄った。
「ねぇ、もう待ちきれないの」
女は赤子に気が行っている男を強引に振り向かせて唇を奪う。ねっとりとしたキスに絆された男は簡単に欲情していた。
「優先順位、間違えないで」
彼女は美しい微笑みを携えて男を誘惑し、穿いていたデニムパンツを下着ごと一気にずらして便器に座らせる。女は嬉しそうに自身のスカートに手を入れ、レース製の下着を脱ぎ捨てて男の股間にまたがった。
「ギャーッ!」
赤子のわめき声は更に大きくなり、他の客か店員か不明だがトイレのドアをノックしてくる。しかし欲情した男女はそれを無視して体を重ね、体を揺らして髪を振り乱す女を抱く男の顔はだらしなく緩みきっていた。
赤子のわめき声にかき消されてなのか情事に耽ってなのか、ミシミシと不自然な音を立て始めるドアの音に二人は気付かない。赤子は助けを求めるように持てる力を全て出してわめき続けていると、ドアはバリバリと音を立てて普段の開閉とは逆向きに傾いていた。
ガーン!
ドアは見事に破壊され、開放された向こう側には五人前後の警察官が立ちふさがっていた。二人は爆音に驚いて身動きが取れず、下半身を繋ぎ合わせたままの状態で呆けた顔をしている。その止まった空気をかき乱すようにスーツ姿の男性が中に入り、おむつの取り替えを放置されたままの赤子を抱き上げた。
「えらい醜態晒してるねぇ、お二人さん」
彼は別の女性警察官に赤子を預け、便器に座っている二人に声をかける。その声に男の表情は豹変し、女を突き飛ばして着衣の乱れを直し始めた。
「今更遅いよ川瀬義、誘拐の容疑で礼状出てるから。そこにいるの調布夢子だよね? あんたも同罪だよ」
刑事である男性は控えている警官たちに視線のみの指示を飛ばす。彼らは待ってましたとばかり中に突入し、あっさり二人を現行犯逮捕した。
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