最高に最悪な日 その五

 日付が変わった四時間後、前日休んでいた川瀬が何も知らずに出勤した。

「おはようさん」

「おはようございます」

「おはようございます」

 今やすっかり仲のこじれている『アウローラ』組ではあるが、基本的な挨拶はこれまでと変わらない。

「おはようございます忠さん・・・

 川瀬は唯一それほどでもない嶺山にのみ挨拶を返し、何食わぬ顔で緑色の調理服を着て厨房に立つ。この日は夕食のみ食事付きの宿泊客がいるため、早くも下ごしらえを始めていた。

 最近は幹線道路沿いのレストラン『リップ・オフ』のアルバイトのお陰で調理業務が増えており、一時期よりは幾らか機嫌も良くなっている。しかし未だ一つのシフトに拘って悌のサポートを頑なに拒否し、ここではほとんど調理に関われていないのが現状であった。

 この日夜勤に入っている根田と石牟礼は、朝市へ出かける宿泊客を見送るため正面入口を解錠する。一時間後には営業を開始するので、早くも支度を済ませて階下へ降りてくる客が出始めた。

「おはようございます」

「おはようございます、朝市へ行ってきます」

「お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 二人はフロントに立って部屋の鍵を預かり、出掛ける客の見送りをする。川瀬は後半の勤務時間に始めれば済む作業を優先し、フロントの様子には一切気に留めなかった。

「おはよーございまぁす」

 とまだ勤務時間ではないはずの義藤がペンションに入ってくる。あぁ煩いと内心イライラさせられていたが、所々聞こえてくる会話に耳をそばだてていた。

「おはよーございまぁす」

「「「おはようさん」」」

 それが終わると今度は厨房にいる四人に向けて元気良く挨拶をする。川瀬は無視を決め込んだが、義藤も毎日のことなので今更返事など期待していない。

「智っちの奥さん、無事出産したってさ。二千七百四十六グラムだって言ってた」

「そうか、何かお祝いでもしたろか、俺らにとっても従業員やし」

 嶺山は『アウローラ』の立て直しが完了すれば小野坂を呼び戻す算用でいた。

「多分産休取ると思いますぜ旦那」

「ほな考える時間できるやん、言うても手前味噌の料理作って飲み食いするだけになる思うけど」

「下手にプレゼントこいてもかさばるもんだと置き場に困らさるしたからさ。商品券って手もあるしたって」

「満っち頭良い〜、それで要るもの買う方が良いじゃんか。美味い飯と商品券、オレは良いと思うぞぉ」

「ほなそうしよか。日高、任せた」

「へい、旦那」

 家族にデパート従業員のいる日高がその役を引き受ける。それを聞いた義藤は再度フロントへ出て行き、今度は小野坂の送迎役でまだ戻ってきていない悌をどう迎えに行くかという話し合いを始めた。

「信っち今日休み取れるからボスの迎えに付き合えるって」

スナオさん、いい練習になるのでは?」

 根田は最近運転免許を取得し、嬉々として里見の送迎役を買って出ている。

「今日は里見さんの送迎があるんです」

「なら私が行きますよ」

「おっけー、それで信っちに話してくる」

 義藤は『離れ』に戻り、根田と石牟礼は通常業務に戻る。その内容を盗み聞いた川瀬は予定に無い調理を始め、匂いに気付いた二人は厨房を覗いで首を傾げていた。

「何故調理なさってるんですか?」

「さぁ」


 緊急搬送されて約十六時間後の午前四時五十八分、紆余曲折ありながらも夢子は無事女の子を出産した。それに対する喜びはあるが、医師一人看護師二人に怪我を負わせる暴挙を振るい、口を開けば文句ばかりで出産に向かわない娘に実母美乃は心身とも疲弊しきっていた。

 初孫の誕生がここまで後味の悪いものになろうとは……今は眠っている夢子を見ながら大きなため息を吐く。自身の醜態が原因とは言え、手足を拘束されている状態の娘の姿は親として見ていられないものであった。

 こんなじゃ先が思いやられる……美乃は娘の態度に不安を覚え、今後婿に掛かる負担の増大を懸念していた。元々誰かに上手に甘えて生きてきた夢子は、二度の結婚を経て母になっところで何一つ成長していない。その性分を小野坂がヘタに理解しているだけに、二度手間よりもいいと全てのことを一人でこなしてしまうのが何よりも気掛かりであった。

 帰る前に何とかしないと……娘の改心を待っている場合ではないと母として何か残せる助けをとあれこれ思案していたところに、コンコンとノック音が聞こえてきた。

『失礼します』

 誰? 美乃は聞き覚えのない男の声にびくりとする。唯一の男手である小野坂は悌と朝食を食べに出ており、江里子は外で連絡係に徹していた。

 いないという体にしてしまえば諦めるかも……そう思って敢えて声を潜め、念の為ナースコールブザーに手を伸ばす。ところが遠慮という言葉を知らないドア越しの男は、鍵が装備されていないのをいいことに断りもなくドアを開けて中に入ってきた。

「どちら様ですか?」

 美乃は最悪の事態を想定して椅子の脚を掴み、わずかに腰を浮かせる。しかし男は攻撃的な態度を見せず、風呂敷包みの箱を持ってにこやかに立っていた。

「『DAIGO』で一緒に働いておりますカワセと申します。この度はご出産おめでとうございます」

 一方的に話を進めるカワセと名乗った男を怪訝な表情で見る。『DAIGO』の名を聞いて多少安心したものの、オーナーである相原母子とチーフスタッフである北見と野上の顔しか憶えていなかった。

「ありがとうございます……」

 どうにか無理矢理声を絞り出して礼は言ったが、面会時間大丈夫なの? とやはり不安は拭えずナースコールブザーを押した。

『はい、どうされました?』

 看護師の声に美乃はどう応対しようか思考を働かせる。

「あのっ! 怪しい者ではありませんよっ!」

 カワセは警戒されたかと右往左往するが、それでも病室を出ようとはしない。意外と図々しいなと思いつつ、危害は加えてこないだろうとわざと彼を視界から外した。

「すみません、毛布を一枚お借りできますか?」

『かしこまりました、すぐお持ちしますね』

 通信はすぐに切れたが、そのやり取りだけで幾分落ち着きを取り戻した美乃は、まだ退室していないカワセに話し掛けた。

「北海道は九月でも冷えるんですね」

 看護師が来るまでの時間稼ぎになればいい、彼女は世間話で男の様子を窺う。

「えぇ、まぁ……」

 カワセは美乃とドアを交互にチラチラと見ている。今になってこの場から出た方がいいと思い立ったように見受けられた。

「娘は冷え性でしてね、足元に毛布を一枚余分にかけておこうと思いまして」

 美乃はそうはさせるかと更に対話を続ける。

「そうですか……」

「ところでどのようなご用向きで?」

 彼女はカワセの手元を見ながら訊ねた。

『小野坂さぁん、毛布お持ちしました』

 ほんのわずかな時間稼ぎが功を奏し、ナースコールを受けた看護師が中に入ってきた。

「今日はしばれるしたからさ……ん? こん方は?」

 看護師は入口を塞ぐように立っている男をすり抜けながら不審感たっぷりの視線を向けている。

「娘の職場の方、だそうです」

 美乃は看護師から毛布を受け取り、夢子の下半身部分に掛けてやった。

「そうですかい。したらまず一階ん受付通ってけれ」

「えっ? 通りましたが」

「嘘こけ、こっちには何の報せも来てないべ」

「入れ違いでは?」

「いんやっ、逐一メールが届くしたからそれはね……ってコラッ!」

 看護師から注意を受けたカワセは、風呂敷包みの箱を置いてその場から走り去る。追いかけたところで追い付かないと判断した彼女は、ポケットに入れているPHSでルール違反の面会者がいたことを告げていた。

「恐い思いされんかったかい?」

「いえ大丈夫です。すみません色々ご迷惑お掛けしまして」

「なんもなんも、お母様は何も悪くないべ。したってたまにいるんですよ、ああいうんがさ」

 看護師はそう言いながら寂しく鎮座している風呂敷包みに近付く。

「参った、弁当だべこれ。まぁここで広げなきゃ問題無いけどささ」

「飲食スペースが別にあるんですね?」

「一階食堂と二階のフリースペースでなら飲食できますよ、召し上がる際はそこで広げてください」

「分かりました、娘が起きたらそうします」

「ん。したら私はこれで」

 看護師は病室を出て業務に戻っていった。美乃はそのまま置かれている箱に嫌なものを感じて近付こうとしない。今度こそ同じ轍を踏まないと信じたい……カワセの顔と箱から漂う邪念に、彼女の胸はざわついてなんてこったと呟いた。

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