危機 その二
『リーテンスコーグ』の研修を終えた凪咲は、兄から連絡を受けて滞在延期を考えていた。
「お兄ちゃん何日か帰れないからもう少しいようか? 番犬代わりにでもしてよ」
「お気遣いは無用ですわ、ご予定通りお戻りになられて」
夢子はそう言いながら口元が緩む。あぁそれが本音かと悟った凪咲は荷物をまとめて小野坂家をあとにするが、窓際に置かれている鉢植えが気になって足を止めた。
「これってオキナグサだよね?」
「えぇ、それが何か?」
「誰にもらったの?」
「職場の方よ、懐妊祝として頂いたの」
「ふぅん」
彼女はもやもやしたものを抱えてそれをじっと見つめている。夢子はなかなか家を出ない義妹をぎっと睨みつけた。
「お兄ちゃんさ、この街に骨埋めるって言ってたよ」
「何が仰りたいの?」
義姉の憎悪の視線を感じながら窓の外の景色を見た凪咲は、今日は暑くなるねとだけ言った。彼女は荷物を持って玄関に向かい、靴を履いてから最後に夢子を見てにっと笑いかける。
「アデュー、ラ ティグヘス」
最後の最後に放った義妹の捨て台詞に夢子は逆上し、履いていたスリッパを玄関に投げつけた。しかし直後何事も無かったかのように、凪咲が小野坂のために作り置いた料理を片っ端から棄てていく。そのせいですぐに食べられるものが無くなったが、適当に見繕ったスナック菓子で空腹を満たした。その後悠然と支度を始めているとケータイが動きを見せる。
「はい」
『相原です、ちょべっといいかい?』
通話の相手は勤務先のオーナーである大悟であった。
「えぇ、いかがなさいました?」
『ん。当面酷暑日が続くしたからさ、今日から産休に入らさらんかい?』
「えっ? まだ大丈夫ですわよ」
『そうこく割に辛そうにしささってないかい? 只でさえゆるくない暑さしたからさ、身重だと堪えんべ』
「ですが……」
『こったら時は何が起こるか分からんしたからさ、まどかちゃんみたいなことにならさったら命に関わんべ』
「……」
出産直後に亡くなったまどかの名前を出された夢子は何も言い返せず、仕方無しだがオーナーの指示に従って少し早い産休に入った。
せっかく煩いハエを追い出せたのに……ようやく愛する夫と二人きりの生活が送れると思っていたところに、小野坂から緊急搬送された宿泊客に食中毒ウイルスが検出されたと連絡があった。もしものことがあるといけないので、検査結果が出るまでは自宅に戻れないと言われてしまった。
「一体何なのよこの仕打ちっ!」
夫から聞かされた事情に機嫌を損ねた夢子は、手にしていたケータイをソファーに叩きつけた。このまま家にいても発狂しそうだと気晴らしに外出することにし、念入りに日焼け対策をして外に出ても東京を凌ぐ暑さにイライラは更に増幅する。
「ったく北海道のくせに何て暑さなのっ!」
彼女は天気にまで八つ当たりをしながらも、迷わず幹線道路沿いの激不味レストランに向かった。軽く汗をにじませて店に入ると、薄暗くヤニ臭い店内でも冷房は効いていて清涼感を覚えた。
「いらっしゃいませ」
「ナポリタンを頂けますか?」
夢子はさっと表情を切り替えて輝かんばかりの笑顔を見せる。
「かしこまりました、お好きな席へどうぞ」
店員はたった一人の常連客を迎え入れ、この日もギトギトのナポリタンを提供していた。
予約客の後は里見のなり振りを考えねばならなかったのだが、食中毒患者の緊急搬送先がたまたま市立病院であったため、営業自粛期間中は検査入院という形に収まった。念の為事前に検便にも応じており、一定の回復は見せているがまだ全快というわけではない。
「すみません里見さん、こんな時期に慌ただしくしまして」
「まぁしゃあないべ、食中毒以上に一年以上居着いてる俺の方が迷惑掛けてんべ」
里見はけらけらと笑いながら荷物をまとめて病院へ移動した。その際治部も駆け付けており、いつまで居座るつもりなんだ? と笑っていた。
「とは言えまだ通院が必要なのでもうしばらく厄介になります」
「こちらとしては里見さんがいてくださった方が安心します」
治部はついでに三カ月分の延長手続きを済ませ、期間中は里見に付き添うことになった。そして巻き込まれる形で営業自粛を強いられた『アウローラ』の嶺山きょうだいと浜島も検便に応じ、共に結果待ち状態となっている。
「ご迷惑お掛けして申し訳ございません」
再建に向けて動き始めている『アウローラ』の足を引っ張っている現状がとにかく心苦しかった。
「そんなもんしゃあない、飲食扱ってる以上どうしたって付きもんや」
「まだ結果出てへんのに。他の店の可能性かてあるんやから」
「とにかく焦らん方がええですよって」
日高と北村も似たような反応で、堀江は周囲の人たちの温かさに感謝する。とにかく今できることをと清掃業者を入れてペンション全体の除菌に踏み切り、川瀬を除く五人で衛生管理の見直しについて話し合いの場を持った。
その期間中、『離れ』の黒電話に面接希望の電話があった。ペンションの固定電話に留守電メッセージを入れたが反応が無いため、やむなく自宅扱いにしている『離れ』の番号にかけてみたということであった。
「申し訳ございません。宿泊客様から食中毒ウイルスが検出されたため、検査結果が出るまでは営業を自粛させて頂いております」
『ご事情は分かりました。都合は合わせますので、面接をして頂けないでしょうか?』
「承りました。履歴書をお持ちの上直接お越し頂く形を取らせて頂いております、日程は追ってご連絡致しますので、お名前とお電話番号を教えて頂けますか?」
電話対応をしている根田は面接希望者の名前と連絡先を聞き、一度電話を置いてから堀江にその旨を伝えた。それから数日後に検便の結果報告書が郵送され、全員が陰性であることと『オクトゴーヌ』が提供した料理から食中毒ウイルスが検出されなかったことが判明した。
「よかったぁ」
その結果を受け、『離れ』に待機状態だった根田と小野坂は五日振りに我が家へ帰宅した。それを知った里見もペンションに舞い戻り、『アウローラ』は翌日からひと足先に移動パン屋の営業を再開した。そして先だって連絡のあった面接希望者にもその旨を伝え、営業を再開する前に面接を行うことにする。
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