火種 その二

「お世話になりました」

 朝食を完食した女性客は、二時間ほどしてからスーツケースを片手にチェックアウトを済ませて頭を下げた。

「この度は当ペンションをご利用頂きありがとうございました」

「実は少し心苦しかったんです。昨夜のお食事にケチを付けるようなことを申し上げてしまいましたので」

 彼女は申し訳無さげに俯き加減でそう言った。

「いえ。今後を考えればお客様の声は大変貴重なものですので、どうかご遠慮はなさらないでください」

「そう仰って頂けてホッとしております。えっと、カケハシさんに【今後のご活躍を期待致しております】と伝えて頂けますか?」

「承りました、必ず伝えます」

 女性客はようやっと顔を上げ、安心したように笑顔を見せた。

「いつか必ず伺います」

「それまで営業を続けられるよう精進致します。良い旅を」

 彼女はありがとうと言ってペンションを後にした。堀江は宿泊客の後ろ姿を見送ると、終わり良ければ全て良しと清々しい気持ちで体を伸ばした。

「さて掃除や。智君は礼君とカフェの準備頼むわ」

「分かった」

「吾は俺について来て」

「はい」

 この日は宿泊客のチェックアウトが早く終了したので、カフェ営業までにベッドメイキングだけでも済ませておこうと考えている。ついでに新人悌への指導も兼ね、ランチまでは慣れている小野坂に厨房を任せることにした。

「まずチェックアウトせんとなぁ」

「そうですね」

「したら今日はオレが手続きすっぺ」

 朝食ラッシュを終えている今も、村木は二連休を勝ち取ったからとそのまま手伝いを続けている。彼は好きでここの手伝いを買って出ているのだが、堀江としては一日も早く従業員を増やして自力で運営できるようにしたかった。

「助かるわ礼君」

 村木の場合に限れば、ここで詫びるような言葉をかける方が機嫌を損ねるので敢えて本音は出さないでおく。

「なんもなんも、好きでやってるしたからさ」

「うん、ありがとう」

 堀江は彼らしい言葉に安堵の表情を見せた。まずは【チューリップ】ルームに置いてある悌の荷物を出してからチェックアウト業務を済ませ、それを緊急置場として事務所ロッカーに入れておく。その後補充分のベッドリネンを担いで階段を登り、先に掃除をする二階の部屋をマスターキーで解錠した。

「客室清掃の基本は窓を開けて上から埃を落とす、テーブル、棚を拭いてからリネンを全部取り替えて掃除機。あとはアメニティグッズ、ポット洗浄の後水の補充、湯呑みとお茶パックの補充。定期的に増える工程もあるけど、それは都度教えていくわ」

「はい」

「あとこの時間帯だけ階段のカーテンは閉めといてな、どうしても埃立つから」

「はい」

 悌はこの時も業務内容をメモ帳に記している。

「ほな始めよか」

 二人は二階一番奥の【サルビア】ルームから掃除を始めていく。悌は料理のようにはいかず不器用丸出しであったが、二人でしているのでさほどの遅れは取っていない。ところが下から階段を駆け上がる音が聞こえてきて、何事かと一旦業務を止めてしまった。

「厨房がわやだべっ!」

 足音の主である村木が血相を変えて客室の飛び込んできた。

「どうわやなん?」

「とにかく来てけれっ! 義君が……」

「義君が?」

 堀江は川瀬の名を聞き眉をひそめる。今日は一日休むよう命令したのに何故?

「礼君、ここお願いしてええかな?」

 嫌な予感しかしない現状に、彼は掃除を中断させて下に降りていく。

「ん。吾、信来るまでオレが手伝うべ」

「あっありがとうございます」

「なんもなんも。初めてのことしたからさ、一人でするんは無理あるべ」

 村木は後を引き継いで掃除を続けることにする。


 村木の報せを受けて厨房に入った堀江の目の前では、これまで見たことの無い光景が広がっていた。先ほど休めと命じたばかりの部下がいつも通り緑色の調理服を身に着けて厨房に入っており、ミネストローネを調理した鍋を手に険しい表情を見せている日高と睨み合っていた。川瀬には小野坂が、日高には嶺山がこれ以上の争いにならぬよう制している。

「一体何事なんですか?」

 堀江は普段よりも低めのトーンでそう尋ねた。

「アンタそれでも料理人かい?」

 少し間があった後、日高が口を開く。厨房内にはミネストローネの匂いが充満し、流しには具材が散らばっていた。鍋を手にしている日高の右手は真っ赤に腫れ上がっており、白の調理服には薄茶色のシミが付いてしまっている。

「日高、他所さんの事情に口挟んだらあかん」

 上司の言葉に日高はぐっと耐えて唇を噛む。それでも向かいにいる料理人のことは許せないといった様子で、睨みつける目は更に険しくなっていった。

「そうですよ、余計なことしないで頂けません?」

「煽るなよ義」

 川瀬は身長をかさにして日高を見下すようにそう言った。これ以上の言い争いは止めてくれと小野坂が仲裁に入るが、日高の何かが切れてアンタ、と言い返した。

「悌さんの頑張りフイにしささって随分な物言いだべさな」

「やめい日高」

 普段の彼であれば上司の言葉にきちんと従うのだが、この時はその言葉自体が耳に届いていなかった。

「こったら狡い料理人初めて見ささったべ」

「日高っ!」

 厨房内に嶺山の恫喝が響き、その場の空気が更に凍る。彼は物をはっきりと言う性分であるが、ここまで声を荒げることは一度も無かった。

「済まんな仁、要らん騒ぎ起こしてしもて。日高、先に上着脱いで手ぇ冷やせ」

「えっ?」

「お前今気ぃ立っとるから分からんやろけど、このまま放っとったら痕残るで」

 嶺山はすぐさま冷静さを取り戻し、部下の怪我を気遣う。

「日高さん、鍋もらいます」

「あっすみません」

 日高はいつもの調子に戻って堀江に鍋を返し、調理服を脱いでから流しの水道から水を出した。流水に手を浸してようやく自身の手の火傷を実感し、今になってヒリヒリと痛みが伝わってきた。

 流水は彼の手を冷やすと同時に、一部棄てられたミネストローネの具材をも無情に流していく。それを静かに見つめている日高の背中が寂しさと悔しさを訴えかけていた。

「義君、智君、どっちでもええから説明してくれる?」

「……」

 川瀬は日高のせいだと言わんばかりに彼の背中を睨みつける。小野坂はその表情に異常なものを感じた。

「ごめん仁、余計なトラブル起こしちまって」

「謝るんは後、何でこうなったんか説明して」

「分かった」

 オーナーの言葉に頷いた小野坂が、事の顛末を話した。

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