ミサ

「ありがとうミサ」

 堀江は天を仰いで亡き恋人の名前を呟いた。空からはちらりと白いものが舞い降り、それを捕まえようと手のひらをかざすとぽとりと冷たい感触が伝わった。

「どおりで寒い思うたわ」

 この街で生まれ育ったミサは、寒さは苦手だが雪は大好きであった。京都は盆地なので冬の冷え込みが厳しく、積雪もままあったが彼自身お坊ちゃま育ちで雪かき等は使用人がやっていた。

『京都の雪は北海道と全然違う』

 彼女は降り積もった雪を触りながらそんなことを言っていた。どこも同じやろ? と当時は取り合わなかった言葉も今になってふと思い出すことがある。

 雪はそれ以上ちらつかず、雲の隙間から徐々に青空が見えてくる。いつの間にか涙は引き、気持ちはすっかり晴れて笑顔を見せていた。

「俺は皆の幸せを見届ける、そん時また一緒に立ち合うてくれへんか? さっきも側におってんやろ?」

 堀江はスーツの内ポケットに忍ばせていた黒のパスケースを取り出した。二人で撮った写真を眺めて当時の幸せに想いを馳せる。隣にミサはいない、しかしこの街に来て毎週ミサに参加するようになってから彼女を感じられる瞬間が少しずつ増えていった。

「仁君」

 恋人を成熟させたような女性の声に堀江の体は反応した。頬にわずかに残った涙の跡を拭ってから声のした方向に顔を向けると、ミサの母五十鈴が二つの皿を持って立っている。

「皆中で食事してる、冷めんうちに食べよ」

 彼女は右手に持っている皿を堀江に手渡した。少々お高めのハム、ポテトサラダ、パスタと共に大きなエビフライが二尾中央に鎮座している。

「仁君エビ好きでしょ? ホンマは一人一尾らしいけど黙っとったら分からへん」

 五十鈴は堀江が尻尾もきれいに食すことを覚えていた。堀江はそれを受け取ると、五十鈴は彼の隣に座る。

「ご一緒してもいい?」

「もちろんです」

 二人はほんのり寒さの残る屋外で仲良く食事を摂る。

「どうしてここやと思ったんですか?」

「ミサの気配に誘われたの。あの子今でもあなたのこと愛してるのよ」

「えっ?」

 堀江は食事の手を止めて五十鈴を見る。

「そうとしか考えられへんやないの。離れて暮らしてた私たちが今こうして再会できてるのはミサの仕業よきっと」

 五十鈴は堀江に笑顔を向けて頷いた。

「けどね仁君。いつまでもあの子にこだわるんは良くないと思うのよ」

「俺は彼女以上の女性には出逢えないと思っています」

「今はそうやと思う、私らも娘を大事にしてくれる仁君の気持ちはとても嬉しいわよ。けど私らは今を生きてるの、変化するんが当たり前やと思うの。だからね、時々ミサを思い出すくらいで丁度良いんよ」

 柔らかな表情で語る五十鈴の表情にミサの残像が重なる。二人は親子なので面影が似ているのは自然なことなのだが、日を追うごとに彼女を思う気持ちが増している堀江の胸は高鳴っていた。

「ミサはどんな形であれあなたが幸せになることを望んでる、仁君には罪の意識に苛まれて本当の気持ちを抑え込んでほしくないの。今ここで約束して、あなた自身も幸せを掴むって」

 五十鈴は右手小指を差し出して、多少強引に堀江の小指に絡める。指切りげんまん♪ と楽しげに歌う彼女は五十代後半にも関わらず十代にも満たない少女のように映っていた。

 ミサは歌が苦手やったな……ふとしたことで普段思い出すことの無い何気無い瞬間が脳裏によみがえる。代わりに絵の才能を授かったんかな? 恋人の母と指切りをしながらそんなことを考えていた。

「ふふふ、いまいちピンときてないみたいやね」

「えぇ、正直……」

「多分あの子もまだあなたと一緒におりたいんかも知れへんね。ついでやから昔話してもいい?」

 堀江ははいと頷いた。

「実はね、私達夫婦が出会った場所ってここなのよ。宿泊客同士として」

「えっ?」

「当時成義さんはアマチュアバンドで全国を旅して回ってたの。私は友人の失恋旅行に付き合ってて、その時は見かけただけで特に話もせんかったんよ」

 五十鈴は思い出をたぐり寄せるように遠くを見る。

「何年か経って大学を卒業してから箱館に戻ったんだけど、勤め先に取引先の営業マンとして彼が訪ねてきたの。バンド時代のいかつい風貌を知ってたからそのギャップにびっくりしたんは覚えてる」

 彼女は当時を思い出してふふふと笑う。堀江はスマートな振る舞いをする成義しか知らないので、バンドをしていた姿が想像できなかった。

「意外なことに彼も私のこと覚えてくれててね、いつ落としたかも忘れたハンカチ差し出して『これあなたのですよね?』って。その後交流ができて、自然の流れでお付き合いを始めたの。三年後に結婚して、ミサが生まれたの」

 堀江は五十鈴の横顔を見る。

「小さい頃はお転婆なくらいに活発で友達も多かったのよ。けど成義さんの転勤で京都に移住してから人が変わったみたいに大人しくなってね。私は大学時代関西に住んでたから知り合いもいて、彼も職場に馴染めてただけにあの子の心の変化にすぐ気付いてあげられんかったのよ」

 お転婆な部分は堀江も見憶えがあった。壁に絵を書き始めた当初は、不良たちに邪魔をされては筆を振り回したりペンキを投げ付けたりしていたのを目撃している。

「ひょっとして虐められてた……んですか?」

「そこまでではなかったみたいだけど馴染めなかったんやと思う。お小遣いを貯めては家出して保護されての繰り返しで、実際箱館の両親を訪ねたこともあったのよ」

 アクティブなことすんなぁ……笑いごとではないがその片鱗を垣間見ていたので吹き出しそうになる。

「そこで何日か泊まった後父に連れられて戻ってきたんだけど、それを最後に家出は治まってそこら中に絵を描き始めたのよ。子供というても小学校高学年くらいしたから最初は困ってね、でもちゃんと家に帰ってきてくれるようになったから『今度からこれに描きなさい』って、成義さんがミサに画材セットを買うたのよ」

「それで絵を……」

「本格的に勉強し始めたの、最初は独学で。中学に上がっても不登校だったけど、夢中になれるものを見つけてるから大丈夫だって彼はミサに絵をやめさせなかった」

 私は不安でしょうがなかった……当時を懐古していた五十鈴は不安混じりの笑みを見せる。

「夜中にふらっと家を出て、朝方ペンキまみれで帰ってくるんだから。女子中学生独りで夜中フラ付いて何かあったらどうしようって……危機的な事態にはほとんどならなかったのがせめてもの救いだったと今は思うわ。その時期よね? 仁君と出逢ったのって」

「えぇ」

「高校入試を控えた時期に『海外へ渡って絵を勉強したい』って言い出してね。成義さん初めて反対したの、『だったらちゃんと勉強しろ』って。それからよ、嫌々ながらも学校へ通い出したの。あなたが不良をやめて働き始めたのに触発されたみたいよ」

 あぁ……堀江は当時年齢を偽って居酒屋でアルバイトを始めており、ミサに惹かれ始めて彼女に見合う男になろうと不良たちとつるまなくなっていた。

「えっとそれは……」

「弾みでミサの日記見ちゃったの。年齢詐称は頂けないけど、あの子にとってあなたとの出逢いは確実にプラスになっていたのよ。彼最初はカンカンだったけど、三人で話し合ってあなたに会うことにした」

 事前に話し合いがなされていたとは言え、十代前半から非行に走るボンボンとの交際などよく認めてもらえたな……彼もまたミサが描く美しい絵に刺激を受けての変化だったので、苦渋だったであろう夫妻の決断には感謝しかない。

「俺はミサが描いた女性像に聖母マリアが重なったんです、あの絵に出逢わんかったら人を愛することも知らんままやったと思います。せやのに俺は……」

「それは違うよ仁君。犯人は以前から一人でいるのを狙って付け回してたし、警察へ行ってもなしのつぶてでまるであの子が殺されるのを待ってたみたいに感じたこともあったもの、私たちも」

「……」

「最初はあなたの行いに『なんてことを』と思ったわ。けどミサはそう思ってないのかもしれない……仁君が仇を討ったことであの子は成仏されたんじゃないかって」

 五十鈴は冷えてくる堀江の手を握る。その温もりにほとんど憶えていない母の優しさがよみがえる。

「倫理的には正しくないと思う、『犯人を殺してくれてありがとう』なんて。けどもし生きたまま逮捕されてる状態やったら法の裁きを受けるまで何年もかかって、裁判で戦った挙げ句精神疾患が認められて『無罪放免』の方がよっぽど地獄やわ……」

「五十鈴さん……」

「あなたは法で定められた分の罪を償ったから今ここにいるの。ミサはあなたを愛してるからこの街に呼び寄せたの。これはあの子が望んだこと、私たち親は子供の思いを尊重し応援する、それだけのこと」

 彼女はつかえていた思いを吐き出せたのかスッキリした表情を浮かべている。最後に一つ残っているカナッペを食べ切るとすっと立ち上がった。

「冷えてきたわね、そろそろ戻るわ」

「俺もう少しここにいます」

「そうかい、飲み物持ってこようか?」

「欲しくなったら戻ります」

 五十鈴は後でねと言ってからペンションに入っていった。一人になった堀江はほとんど手を付けていない食事を体に納めていく。すっかり冷めきってはいたがとても美味しく感じられ、今ここで生きていられる幸せを噛み締めていた。

「ありがとうミサ……」

 堀江は再び亡き恋人へ語りかけ、最後に残ったエビフライを尻尾ごと食べる。

「尻尾食べる派っすか?」

 と聞いたことの無い若い男性の声が彼の耳に届いた。何で? 予期せぬ状況に気持ち身構えると、二十歳前後の男の子が旅行バックと紙切れを持って嬉しそうに立っていた。

「ちぃーっす、面接して」

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