一周忌 その三
「ここをオープンさせてまだ一年も経ってなかった頃したから、三十そこらの年齢だったんでないかな」
旦子はそう前置いて衛の昔話を始める。
当時彼には恋人がいた。彼女の名は
半世紀前だと齢三十を過ぎれば晩婚扱いであり、当時の商店街自治会長のお節介で独身者を集めた食事会が催された。衛と静はそこで知り合い意気投合、程なくして交際が始まった。
「今で言う婚活パーティーみたいなもんだべ」
衛は早い段階で彼女をきょうだいたちに紹介を済ませ、結婚も視野に入れていたようだった。静には家族がいないと聞かされており、金碗家もきょうだいのみの家族編成であったためそこを気にする者は誰もいなかった。
交際そのものは順調であった。静本人は結婚が決まれば仕事を辞めて『オクトゴーヌ』を手伝う意欲を見せており、実際休日にはペンションを訪ねて雑用程度の仕事はこなせるようになっていた。当時のオーナー道夫も彼女を気に入り、今や遅しと婚約報告を待ちわびていた。
「誰も反対せんかったんかい?」
話の間を埋めるように村木が口を挟む。旦子はお茶で喉を潤してから頷いた。
「ごきょうだいが七人もいらしたら一人くらいは……」
発言こそネガティブなものであるが、一同は根田の言葉に同意する反応を見せる。かつて兄が交際相手を自宅に招待した際、両親が恋人に家庭事情を根掘り葉掘り聞きあさっていたのを目撃していた。彼の周囲では結婚相手を選ぶにも体裁が必要で、嫌気を感じつつもそれが普通のことだと思っていた。
「ん。気の利くええ子したからさ、反対する理由なんか無いべ」
「人間性そのものを重要視されるんですね、そういったおおらかさは北海道の良さだと思います」
「そもそも結婚は当人同士でするもんだべ、家柄がどうとかで人柄が決まる訳でね。それに道民の殆どは開拓移民の子孫だべ、私自身本家のことはよく知らね」
衛は静を生涯の伴侶と決め、半年もしないうちにプロポーズをした。静もそれを了承し、晴れて二人は婚約を決めたのだが……。
「あん子、一気に性格が暗くならさってさ」
その言葉と共に旦子の表情も翳りを見せる。
「えっ? 婚約時期って幸せ絶頂ってイメージだべ」
「一般的にはそうかも知んね。けどさ、でっかい隠し事がそれをも霞めてたんだべ」
静は箱館に降り立つ前は、とある地の繁華街でホステスをしていた。両親が作った多額の借金を返済するために水商売に身を置いていたのだが、それでも返済が追い付かず枕営業に手を染めていた時期かあった。
その時期に妊娠と中絶を繰り返した彼女は子供ができ難い体になっていた。真面目一辺倒な衛と違い、多くの男に裸を見せてきた自身は余りにも汚れ過ぎた。
数年掛けて借金は完済し、それを機に家族とは縁を切ってこの地で暮らし始めた。北海道の地はそんな彼女の過去など気にすること無く、ようやっと大きく呼吸して自分らしく生きられるようになった矢先に衛との出逢いがあった。
叶わないと思っていた普通の幸せが手に入る……その気持ちとは反比例するかのように、ふつふつと湧き出てくる大き過ぎる引け目が彼女の心を蝕んでいった。その重圧に耐えきれなくなった静は、結婚を目前にして忽然と姿を消した。
「ぷっつりと連絡が取れんくならさったからさ、衛が静ちゃんの部屋の鍵さ持たさって部屋を訪ねたんだべ。したらさ、どこへ行かさったかもぬけの殻になってたのさ」
衛んだけでも話してほしかったさ……旦子は下を向いてささやくように呟いた。隣に座っていた大悟が母を気遣い背中をさする。
一方厨房で里見のスープに手を加えていた嶺山は、内容が聞こえていた訳ではないが重苦しくなった空気に割って入るのを少しばかりためらっていた。しかしこのまま待っていればスープが冷め、更にはペンションの営業時間にかかると目敏い客に里見のことを知られてしまう……それは避けたいと考えた彼は意を決して厨房を出た。
「お待たせしました、熱いんでお気を付けください」
里見の前にはもうもうと湯気の立ったスープがコトリと置かれた。
「美味そうだべさ、頂きます」
彼は嬉しそうに手を合わせ、カゴに入っているバケットを一口大にちぎってスープに浸す。
「皆さん、お茶淹れ直しましょか?」
嶺山の言葉に一同が頷いた。
「コーヒーが飲みたくなってきたべ」
旦子はそう言って嶺山に湯呑み茶碗を手渡す。
「コーヒーなら僕が淹れます、忠さんは飲めない三人分をお願いします」
「おぅ、里見さんと智はラベンダーティー……であと一人誰や?」
「オレはホットココア、ホイップクリーム浮かべて」
村木はここぞとばかり挙手してこのところお気に入りのホットココアを要求する。
「面倒臭い、ホイップは我慢せぇ」
「え〜っ」
「大丈夫ですよ忠さん、市販のを一つ買ってありますんでそれ使ってください」
「あんのかいな、まぁホイップからするよかええけども」
嶺山は川瀬の準備の良さに苦笑いを浮かべていた。
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