奇跡 その一
その頃小野坂は里見を迎えに喫茶店へ車を走らせていた。ところが喫茶店のオーナー福島から連絡を受けて路線変更を余儀なくされている。
『里見が倒れた。市立病院に向かってるけどご家族の連絡先とか分かるかい?』
いくら長期滞在している顧客とはいえ、プライベートな内容に関してはノータッチだった。このまま病院に向かっても里見に関する情報はほとんど分からない。しかもペンションの責任者は自身ではなく堀江なので、里見の貴重品と共に堀江を連れて出る必要があった。小野坂はその旨をペンションにいる堀江に伝えてから一旦『オクトゴーヌ』に戻る。
ペンションで小野坂からの連絡を受けた堀江は、緊急事態ということでマスターキーを使い【シオン】ルームに入る。それでも他人様の私物に手を付けるのは気が引けた、ましてや家族の連絡先が入力されているケータイや身分証明にもなる保険証を預かるのだ。それでも患者となった里見の身分を証明するには必須アイテムであり、彼の現状を考えると由々しき事態であると十分に考えられた。
『仁! 準備できてるか!』
堀江は貴重品が入った里見のバックを手に下に降りる。二人の姿に異変を感じた川瀬がどうしたの? と声を掛けた。
「里見さんが倒れたんだ、今から市立病院に行ってくる」
堀江と小野坂は急ぎ足でペンションを後にする。川瀬は事態を考慮して根田のケータイに通話を試みたが、話し中で繋がらないまま店内は徐々に忙しくなっていった。
「信ーっ! ケータイ鳴ってんべよ!」
『クリーニングうかい』の店頭で受付業務をしていた鵜飼の母八重が息子の私用ケータイを持って自宅と店舗の裏手にある工場に入ってきた。
「誰からだべえ?」
「んなもん見てないしたから知らね」
「ん」
鵜飼は一旦手を置いて母からケータイを受け取った。彼は画面を割るのが嫌で手帳型のケースを愛用しており。スナップボタンをパンと外してから画面をチェックすると、横濱の実家にいるはずの根田からだった。
「なした?」
『信さん、『オクトゴーヌ』で何かあったんですか?』
「さぁ。なしてだ?」
鵜飼が『オクトゴーヌ』に寄った時は特に変わった様子が無かったので一人首を傾げる。
『実は今日のうちに帰ることにしたのでそれを伝えたかったんですけど、誰に通話しても出てくれないんです』
「どっかに留守番残ささったかい?」
『ハイ、ペンションの固定電話には残しておきました』
「そうかい、したらわちからも連絡してみっペ。何か分からさったら折り返すしたからそんまま帰らさってこい」
ハイと言う根田の返事を聞いてから通話を切り、その流れで『オクトゴーヌ』に通話を試みたがやはり誰も出なかった。
『久し振りだな根田、まだこっちにいるんだろ?』
根田の土産物色を邪魔したのは夜会う予定にしている高校時代の同級生だった。当時は比較的親しくしていた相手だが、彼の声を聞いた瞬間面倒臭いなぁと思ってしまう。
「うん。そのつもりだったんだけど今日中に帰らなきゃいけなくなって」
『は? 夜に会う約束してんじゃん』
「そうなんだけど、宿泊客さんに急患が出たってさっき電話があったんだ。昼ぐらいには発つ予定」
里見さんをダシにして帰っちゃおう、軽い気持ちで断る口実に利用する。
『何だそれ? ブラックじゃん』
「そんなこと無いよ、ブラックなら帰省すらできてないって」
根田は今の環境が恵まれていると感じているのでそんな言葉を掛けられたのは意外だった。
『他に社員いるんだろ? そいつらに任せりゃいいじゃんか』
「普段ならそうしてるよ、けどボクが『何かあったら連絡ください』って言ったから」
『そっか、他の奴らにもそう言っておくよ』
じゃあねとあっさりと通話を切ると、肩に乗っていた原因不明の重みが取れて体が軽くなった気がした。根田は箱館の仲間たちを思い浮かべながら上機嫌でお土産を買い漁り、言い訳した時刻よりも早く駅のホームに入る。いきなり戻ってきたら驚かれるかも知れないと考えて、ペンションにその旨を伝えようと通話を試みたが誰も出ない。ついでに『離れ』と各々のケータイにも掛けてみたが結果は同じだった。
「う〜ん、取り敢えず向かっちゃおう」
一度連絡を取るのを諦め、ほどなくやって来た新幹線に乗ってまずは乗換駅まで移動する。その後直通の新幹線が来るまでに再度同じことを繰り返し、巡り巡ってようやっと鵜飼のケータイに繋がった。取り敢えず事情を伝えて到着した新幹線に乗り込み、今や郷よりも恋しくなっている箱館に戻る。関東から東北に近づくにつれて景色が徐々に白くなるのを見つめながら、昨日の里見の姿に思いを馳せた。
一分一秒でも早く里見に会いたかった。と同時に言い訳のダシにしたことに対してちょっとした罪悪感を覚え、顔色も良いとは言えず夏に来た時よりも更に痩せ細った彼に一抹の不安が脳裏をかすめた。
まさか現実化してないよね? 考えるだけで恐ろしかったが、里見にはその覚悟ができていることも承知している。もしもの為に遺言をしたためていることも知っているし、防音対策をしながらキーボードを爪弾いていることにも気付いていた。
考えれば考えるほど不安は増幅していく。今は箱館に向けて新幹線の座席に座っていることしかできない現状ではただただ里見の無事を祈り続ける。悪い方向に考えるのはやめようと、浮かんでくるネガティブ思考を何度も何度も振り払うが繰り返し湧き出てきて泣きそうになった。
『離れ』も駄目、仁、義さん、智さんのケータイも駄目……。
「何が一体どうなってんだべ?」
鵜飼は一縷の望みを繋ぐ気持ちで嶺山きょうだいと村木のケータイにも通話を試みたが誰一人通話に出ない。何かあったんかい? 首を傾げる彼の元に新たな通話着信が届く。
「はい、信です」
『赤岩です。そっちに礼来ささってねえかい?』
「いえ、来てねえです」
『そっちでもないべか……ケータイも繋がんねえし『オクトゴーヌ』も誰も出ささらんのだ。昼まんまとっくに終わらさってるってのに戻ってこんべ』
「礼さんの場合角松家ってことないですかい?」
今や村木が姪の木の葉に夢中なのは近隣でも有名な話となってる。
『いんや。さっき聞かさったけど『今日は顔見せてない』ってさ』
「あんれ珍しい、ひょっとしたら『オクトゴーヌ』で何かあったんかも知んないべさね」
『ん。ウチ今カヨと二人だけしたから店離れらんねえべ』
「分かりました、ひと段落着いたらわちが見てきます」
『済まんけど頼むべ』
赤岩との通話はそれで切れ、鵜飼はどうしたものかと現場の状況を確認する。自身が抜けたところで仕事は滞りなく進むだろうが、今の時間帯は父泰介が外出していて責任者が不在となる。
「ん〜、母ちゃんに頼むべ」
鵜飼は店舗に移動して母に工場の番を頼んだ。
「悌が今日のうちに戻ってくるんだけどさ、『オクトゴーヌ』の電話が繋がらんらしいしたからちょべっと見てくっぺ」
「そうかい、さっきでめんちんさん来たしたからそんだけ待って」
と言ったそばから、エプロン姿の若い女の子がおはようございますと狭い店舗に入った。
「おはようございます、しばらくは一人でばんぺ頼むべ」
「分かりました」
彼女は定期的に入る学生アルバイトなので勤務システムには十分慣れており、この日も受付業務専用の椅子にちょんと座って臨戦態勢を整える。八重も工場用の白衣に袖を通し、こちらも準備万端だ。
「んじゃちょべっと出るべ」
「「行ってらっしゃい」」
二人の女性に見送られた鵜飼は自家用車で『オクトゴーヌ』へ向かうと、カフェ兼『アウローラ』臨時店舗は入り口からはみ出るほどの客でごった返していた。なしたんだコレ? 初めて目にする光景に思わず尻込みする彼に村木が気付く。
「見てねえで手伝えー」
「何ぬかしてんだ、自分とこさ放っぽらさって。遠さんから電話あったべ、『戻ってこん』ってさ」
「あっ……けどこったら状態を見過ごすワケにはいかねえべ」
「しゃあね、遠さんにはわちからくっちゃっとくべ」
鵜飼はケータイをいじって赤岩の番号を探して通話ボタンを押した。電話越しの『赤岩青果店』店主は案外あっさり了承し、ものの一分足らずで通話を終えた。自宅にいる母に『オクトゴーヌ』の事情をメールで伝えてから厨房搬入口から中に入ると、普段の落ち着き払った態度からは想像できないくらいに動き回っている川瀬と鉢合った。
「ゴメン、今手が離せない」
「ん。悌が今こっちに向かってるしたからそれを伝えに来たんだ」
「えっ? 明日じゃなかった?」
「気が変わらさったんでないかい? 電話鳴らさってるしたからばんペくらいすっぺ」
「ありがとう、助かるよ」
鵜飼は慣れた足取りでペンションのフロントに入って受話器を取る。隣では小野坂がチェックインの業務をしており、半袖姿にも関わらず額には軽く汗が滲んでいる。村木と川瀬がカフェの接客をしており、『アウローラ』の方は雪路と北村がパンの梱包と金銭授受に大わらわだった。小野坂がチェックインをした宿泊客を部屋に案内するためその場から一度離れ、代わりに通話の用事を終えた鵜飼がフロントに入る。その間は何事も無く過ぎ、数分後には小野坂が戻ってきた。
「智さん」
「ん? 何だ?」
「さっき義さんにはくっちゃたけどさ、悌今こっちに向かさってんだわ」
「へっ?」
小野坂は普段から大きな目を更に丸くしてから神妙な顔付きに変わる。
「信」
「はい?」
「悌の迎え頼む、市立病院に連れてってやってほしいんだ」
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