里帰り その五

 一方箱館ではこのところ静かだった里見が動きを見せていた。実は根田がペンションにいない時間帯を狙って創作活動に勤しんでおり、キーボードを使用する際はヘッドフォンを繋いで音漏れを防いでいた。オーナーの堀江と送迎担当の小野坂は周知していたが、キーボードよりもピアノの方が良いと観光名所の一つである山の麓の喫茶店に出入りしていた。

 そこは里見が幼少の頃からグランドピアノがある見晴らしの良いカフェとして名の知れた喫茶店だった。ところが不景気の煽りと後継者不在のため一度閉店され、永らく廃墟の状態で残ったままだった。後にそれを知った里見の同級生である福島フクシマという名の男性が脱サラして店舗を買い取り、再びグランドピアノを売りにして営業を再開させた。

 この出来事はローカルニュースながらもかなりの話題になった。再開してしばらくは装飾品以上の役割を果たしていなかったグランドピアノだが、ニュースを聞きつけた音楽好きのファンによって調律師とのパイプができた。オーナーである福島の尽力もあって大掛かりな修理にはなったものの、今では不定期の夜間営業で多くのピアニストに愛用されている。

 そして里見にとっては十代の頃から出入りしていた喫茶店で、当時からアマチュアピアニストとしてこのピアノで伴奏をしていた。それだけに思い入れは強かったが、永らく世界中を飛び回っていたせいで閉店したことも再開したことも彼の耳に届いていなかった。

 遅ればせながら病気療養を機にこのことを知った里見は、体調の良い日はこの喫茶店で過ごしていた。時折シークレットでピアノを爪弾いていたが、まさかこんな所に世界的ピアニストが出没するなど誰も思わないので周囲の反応は案外静かなものだった。


 最期に何かを遺したい……病が見つかって里帰りを決めた時点でずっと考えていることであった。体調の良い日にスコアを記し、キーボードで旋律を作っていた。夏頃から潜伏地としている『オクトゴーヌ』で生きていれば僅か五日で亡くなった息子と同い年の根田と出会い、見ることの無かった息子の姿と重ねている節があった。それを知ってか知らずか根田も里見に懐き、送迎の必要な外出以外はむしろ彼が伴うことの方が多い。

 両親はすぐ下の弟と同居しており、七人のきょうだいたちは全員自立してそれぞれ家庭を持っている。里見自身も結婚の経験はあるが、連れ添っていた妻には二十年以上前に先立たれて実質独り身の状態だ。これまでにリリースした音源も多数存在するので仮に死んだとしてもそれは残るのだが、いざその立場に直面すると特定の誰かに向けたものを遺したいという欲求が湧き上がっていた。

 その思いを強くする半面、体を蝕む病の元が彼を徐々に弱らせ始めた。年が明けて氷点下の日々が続くようになってから一日ベッドの中で過ごす日もあり、通院する日以外は【シオン】ルームからほとんど出なくなっている。今は投薬治療でギリギリ調子を保っているが、医師や治部を始めとしたスタッフからも入院を勧められている。

『もうちょべっと生きること考えませんか?』

 かつて大病を患った経験のある治部がことある毎にそう言った。しかしきちんと形になるまではと首を縦に振らなかった。そして根田が里帰りをしている今のうちにと例の喫茶店に立ち寄り、グランドピアノで新曲を弾きあげた姿を福島が撮影した。里見はできることはやったと満足感に満たされ、全面ガラス張りになっている店内から真っ白な郷の景色を眺めていた。


 根田が横濱に行って二日目、この日はランチタイムが近付くにつれ来店客が膨れ上がって『オクトゴーヌ』『アウローラ』双方の従業員は忙しなく動き回っている。久し振りの快晴というのも考えられたが、鵜飼がデザインしたチラシに付いているクーポンの最終日も集客の後押しをしていた。それを見越して『アウローラ』は従業員総出で業務にあたっていたが、『オクトゴーヌ』の方は川瀬しかいない。ほとんどは『アウローラ』の顧客だったが、カフェの顧客もいるので雪路が応対をする形で今のところ凌いでいる状態だ。

「あの二人なかなか戻ってこんな」

 嶺山はパン作りに勤しみながらも時計を気にしている。

「そうだね、これ以上お客様が増えたら僕も店に出ないと」

「そん時は代わる」

「うん」

 川瀬はいつも以上に店内に気を配り、いつでも出ていけるよう臨戦態勢を整えている。嶺山も現状を把握しながら日高に指示を飛ばしているところに、賄いランチを狙った村木が厨房に直接入れる搬入口から入ってきた。

「なした? 忙しねえけど」

「仁と智が帰ってこんのや」

「したらオレが入るべ」

 村木もここでの接客のノウハウは心得ているので、マグネットで貼り付けてあるオーダーを見ながらハンドソープで入念に手を洗う。オーダー貼り付けてるマグネットにはマジックで番号が書いてあり、こうしてたまに手伝いに来る村木にも順番が分かるようになっている。

「義君、カレーが抜けてるべ」

 村木はこういうことには誰よりも几帳面だった。

「うん」

 川瀬は手早くライスとルーを盛り付けてトレイに置くと、村木がカフェに入って接客を始めた。その間何度かペンションの固定電話が鳴り響いていたのだが、手空きの従業員がおらず放置されては切れを繰り返していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る