けじめ その三
「帰る前に『アウローラ』寄っていいかい?」
パンが大好きなまどかはあれ以来足しげく『アウローラ』に通い詰め、今や全種類網羅しているのではというほどのはまりようだ。
「あぁ、俺も何か買って帰るよ」
「彼女さんの土産かい?」
まどかにニマっとした顔を向けられた小野坂は顔を引き攣らせている。
「いや、パン食うほどの食欲は無いみたいで」
「したら自分用かい?」
そういうとこホントよく似てるよな……口にこそ出さないがこの似た者兄妹に若干呆れていた。
「クラムチャウダー買うんだよ、レトルトの」
「へぇ、あっこのレトルト食品は美味えしたからって智さん貝類苦手でなかったかい?」
「クラムチャウダーは彼女にだよ。俺と違って海老、蟹、貝類大好物だから」
「ほぅ~、愛妻家だべぇ」
まどかは嬉しそうに小野坂を見る。
「んじゃ、ぱぱっと済ませてさっさと帰ろう。馬鹿兄貴がうるせぇからな」
小野坂はこれ以上掘り下げられないよう話を元に戻す。
「え~っ、そこは十分吟味して選ぶのが礼儀だべ」
「まどかちゃんの場合は優柔不断、都合良く言葉を変えない」
「うへぇ~手厳しいっ!」
まどかはおどけて楽しそうにするが、頭の中では角松のことで一杯になっていた。
それから数日後の朝、開店したばかりの『赤岩青果店』に角松が姿を見せる。ここは朝七時から営業しており、この時間帯は夜勤明けの帰宅客で意外と賑わう。この日は香世子、まどか、男性社員の三人で切り盛りしており、村木と赤岩は配送で出払っている。香世子と男性社員が店頭を担当し、まどかがレジを担当していた。
まどかはいつに無く緊張していた。先日の話し合いのせいか何日か振りに現れた元カレの姿が気になって仕方が無い。
「まどかちゃん?」
「あっ、はいっ! いらっしゃいませ」
ほぼ毎日のようにやって来る常連客の老女に声に反応して慌てて接客を始める。
「体調悪いんかい? がおってる顔してるべ」
「だっ、大丈夫ですっ、ちょべっと寝不足で……」
「ゆっくりでいいべ、急がんしたから」
幸い優しい言葉だったおかげでまどかは何とか落ち着きを取り戻した。まるで退化でもしたかのように普段よりも拙い仕事をしたが、それでも彼女はいつものようにありがとうと笑顔で帰っていった。まどかはほぅと息を吐いてレジの合間に商品に値札シールを貼り付けていく。しばらくその作業を続けていると、次の客がレジに並んだのでそちらに体を向けた。
「いらっしゃいませ……正っ?」
「おはよう」
角松が日頃から朝食時に食しているバナナを持ってレジ前に立っている。
「お、おはよ……仕事は?」
「夜勤明けだべ、調子はどうだべ?」
「至って健康体だ、心配要らね」
まどかはぶっきらぼうな言い方をしながらバナナを袋に詰める。
「百四十円です」
「はい」
角松はにこやかに返事をして小銭入れをゴソゴソと漁る。
「……丁度ありました。お大事に」
角松はまどかの手の上に小銭をそっと置く。触れたのは一瞬だけだったが彼の手は温かくて、交際していた時は手足をよく温めてくれたことを思い出す。角松はいつものようにあっさりと店を後にする。気付けばその背中を追い掛けて店を飛び出していた。
「コラッ! 途中で出て行くんじゃないよ!」
香世子はそう言いながらもまどかを追い掛けるでもなく代わりにレジに入る。その声に反応した男性従業員は一瞬視線を外に向けたが、事情が分かるとそのまま仕事に戻った。
「待って!」
まどかは下腹部を抱えて角松の背中を追い掛けていた。元カノの声に反応して振り返った角松は思わずまどかを抱きとめた。
「無茶すんでね、身体に障るべ」
「平気だ、こんくれえ」
まどかは息を乱しながらも気丈に返事をする。
「今から仕事かい?」
「夜勤明けだべ、明後日まで休みだ」
「そうかい。したら二時にあっこの公園で待ち合わせすっペ、ちょべっと話があんだ」
分かったと角松は嬉しそうに頷いた。
「したっけ、店に戻るべ」
まどかは踵を返し、ぱたぱたと走り去った。
この日の勤務を終えたまどかは待ち合わせの約束をした公園へ向かうと、角松は既に公園のベンチに座っていた。彼が待ち合わせ時刻よりも早く到着するのは予測できていたものの、それを見越して時間を決めても必ず先に待っている。
「待ったかい?」
まどかも遅刻等で相手を待たせるようなことはしないタイプのため、指定した時刻よりも最低十五分は早く着くようにしていた。今回もそうした筈なのに、それでも角松は先に到着して自分を待っている……それがいつも申し訳無く思いながら嬉しく感じていたことを思い出す。
「いや、今着いたところだべ」
「嘘こけ」
「嘘でね」
こんなくだらない会話も半年振りかと妙に懐かしい気持ちになり、まどかは角松の隣にちょんと座る。それでも今はもう別れてる……まどかは角松の顔をまともに見ようとしなかった。
「あのさ、早く良い人見つけな。アンタいい男したからすぐに見つかんべ、元カノとしてそれは保証してやる」
まどかは袖口をいじりながら相変わらず元カレの顔を見ようとしない。角松はそれに対して何も答えず、ただじっとまどかの横顔を見つめていた。
「私はいつ死ぬか分かんねえ身だ。仮に無事だったとしてもこの先健康で暮らせるとも限らねえし、老い先長えアンタの足枷にはなりたくね。したから……私のことは忘れな」
したっけ。まどかは優しい視線を振り切るように立ち上がって来た道を戻ろうとしたが、角松はさっと回り込んでその道を塞ぐ。
「それができるならとおにやってるさ」
「……」
「ワチは『子供堕ろせ』ぬかした男だ、まどかを失いたくなかったからさ。したって別れてからもその言葉が正しかったんかずっと考えてた。今更かも知んね、時間は掛かっちまったけど……まどかと子供の傍にいてえんだ」
角松はまどかの冷たい手をそっと握る。これまで誰にも言わずにいたが、前回の妊娠検診での結果が芳しくなく、精神的に不安定な日々を過ごしてきたまどかの心に優しく染み渡った。
「子供、一緒に育てよう。よりを戻すとかは考えなくていいからさ」
その言葉は聞きたくなかったと思う気持ちと、何よりも欲していた気持ちとが交錯して気付けば涙を流していた。
「怖いよぉ……」
まどかは初めて本音を吐露し、元カレの身体に身を預ける。角松はまどかの体をそっとくるみ、落ち着くまでの間ずっと支えていた。
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