第12話
「――ワカ! オニワカ!!」
肩に置かれた小さな手に身体を揺さぶられる。その度に固い感触の上で頭が転がってごりごりと削られるようで、痛みと不快感に意識を呼び起こされた。
「……っ。ここは……?」
どこかまだ微睡んだ心地がして、まばらな感覚を繋ぎ合わせながら目を開く。瞼の隙間から染み込んできた陽光が眩しくて、初めは目の前が真っ白にしか見えなかった。
けれどもやがて、白い昼の光の中に長い髪を垂らした少女の影が浮かび上がる。
「セイカ……?」
オニワカは微睡んだまま、彼女の繊細な曲線を描く頬に手を伸ばした。大粒の瞳がじっと見返してきて、彼にこう語りかけてくる。
「オニワカ。……どこで、その名前を?」
やがて色彩を取り戻してきた双眸は目の覚める赤色で、オニワカは現実に引き戻された。
「ノゾミ?」
問いかけると彼女は白無垢の長髪を揺らして頷く。その毛先がオニワカの頬をくすぐって、微かに甘い匂いが広がった。
そこから徐々にいろいろが現実味を取り戻し、近くの民家の軒下に寝かされていた彼は呻きながら身体を起こす。少しずれて後ろの壁に寄りかかり、背を預けたら町の様子がよく見て取れた。
昼下がりの通りは石畳が日の光を弾き返して煌びやかに照り映えている。最後に目にしたときからほとんど変化はなく、気を失っている間に誰かが攻め込んできた様子もなかった。
オニワカはひとまず息をつき、それからふと思い至る。
「ノゾミ。フソウは……中年で僧服を着た人の良さそうな男性を、見かけませんでしたか?」
最初は誰のことを言われたか分からず、ノゾミは怪訝そうな目つきしたが一瞬のことだった。直後にその眉がぴくりと震えて、やり切れない表情になりながら目を伏せてしまう。
どういうことだ?
胸の内に浮かび上がったその問いを声にするよりも早く、ノゾミは暗い面もちのまま手を持ち上げた。その滑らかな指先が、民家の裏を指している。
「たぶん、あっちに」
いる人だと思う、と続きを述べるより早くオニワカは立ち上がっていた。立ち眩みが片時だけ彼を煩わせたが、オニワカは立ち止まらない。重たくなった心を引きずるように覚束ない足取りながらも、ノゾミが指さした民家の裏へと一歩ずつ歩いていった。
二棟の民家に挟まれたオニワカの肩幅しかない細い路地。日照りが届かずに湿った、淡い闇の中へと彼の歩みは続いていく。
その路地の中程まで進み膝を突いて、崩れ落ちた。
「フソウ……? 眠っているだけ、なんですよね?」
呼びかけられた壮年の行商人は頭を垂れたまま、じっと佇んでいる。その純白だった修道服は赤い色と鉄臭さに汚れていた。
そんな彼の瞼が、重たく閉じられたまま開こうとしないからオニワカは焦る。
「フソウ? ねぇ、しっかりしてくださいよ。なんで、どうして返事してくれないんですか!?」
思わず両肩を掴み、揺さぶってしまった。
そのとき足元の石畳が甲高くか細い音を鳴らして、オニワカは目を落ろす。
そこにはだらりと開かれたフソウの手から転がり出たらしい、血に刃先を濡らしたナイフが横たわっていた。それを掴み上げて、震える手で握ったそれを睨み付けて、どこかに信じられない現実を否定してくれる材料を探す。
でもやはりそれはどこから見ても、フソウの首もとを真っ赤に染め上げた刃でしかない。彼が自らの手で切り開いた喉元の裂傷の作り手でしかない。
「なんで、自ら命を絶ったんですか? どうして……!?」
分かり切っていたからこそ、オニワカは容易に受け入れられなかった。
「こんなことをされても俺は喜びませんよ。ねぇどうしてこんなことしたんですか!?」
彼の願いのためにはフソウが死するしかない状況であり、しかし間違ってもオニワカにはフソウが殺せない。そのことをフソウ本人が見かねた結果であることは自明なのだ。
だからこそ、オニワカは目を逸らしたくて仕方ない。自身のためにフソウが自刃したのだと理解できてしまっても受容できない。
「嫌だ……嫌ですよ、フソウ! 俺はあなたを殺したくなくて必死に自分に抗ったのに! その結末が、こんなだなんて……」
これでは却ってフソウを苦しめてしまっただけだった。
自ら命を絶つ恐怖に苛まれるのは、どんな心地だったろう? 望んでもいない死の痛みはどれだけ凄惨に彼を痛めつけたのだろう?
そんなことを考えるだけでオニワカの方まで気が狂いそうになる。自分が手を下していれば痛みも恐怖も感じさせずに終わらせられたのだと考えると頭痛がして脳をぐちゃぐちゃに攪拌され、込み上げる嫌悪に何度もえずいた。
「……どうすれば……良かったんだ? 俺は! 殺せば良かったのか!?」
極端な思考は、だけど否定材料も見つからなくてオニワカの心を黒く塗り潰す。他に方法があったのなら、フソウだって自らの命を断ち切る選択は取らなかった。今目の前にある亡骸が、全ての答えなのだから。
「フソウ……俺は、俺は……!!」
路地の入り口にノゾミが立っても、オニワカは嗚咽を止められなかった。こぼれた滴が、石畳を黒く濡らしていく。
やがて立ち上がったオニワカはノゾミを無言で押し退けて路地から出てきた。そのやつれ果てた雰囲気に気圧されて、ノゾミは何と声をかけたら良いのかも分からないまま脇に退く。
そして、とぼとぼと町の外に歩いていこうとするオニワカを追いかけた。
「待て! オニワカ、これからとこに向かうつもりだ? 一体、何があったんだ!?」
ノゾミは比較的直前まで、オニワカの言いつけを守り神殿に閉じこもっていた。それでも魔物から出てきた白い下垂体を調べ、その組成や仕組みを解き明かしていく内にそれがこの町を滅ぼしたそれそのものだと気づき飛び出してきたのだ。
「オニワカ……?」
幽鬼だと呼ばれていても納得できそうな頼りない背中。そこかしこの糸がほつれた解れた礼服は傷だらけの彼をよく象徴している。摩擦で生地が溶け、そのまま固まってしまった箇所や戦いの中で破けて補修されなかった傷が無数に散見された。強がろうとしても隠し切れなくなるくらいに損傷が重なり、限界が訪れようとしている。
今、彼を行かせるわけにはいかない。
「待って! だから、待ってってば!!」
ノゾミはオニワカの前に回り込んで、彼の進路に立ちはだかった。さすがにこうまですれば応じてくれると考えていた彼女は、けれども即座に自身の浅慮を嘆くことになる。
「ごめんなさい、ノゾミ」
それだけの無価値な謝罪がオニワカの口からこぼれ、次の瞬間に彼女の足は地面を見失っていた。景色が駆け巡って、加速についていけない四肢と頭が慣性に引きずられる。ノゾミは咄嗟に手短にあったものに手を伸ばし、握り締めて額を寄せ、縋りついた。
浮遊感は一時のこと。しかしそれが過ぎ去って足の裏に地面の感触を確かめても、彼女は腕を離す決心がつかない。やがてその腕を下ろしてもオニワカの胸に額を擦り付けたままでいた。
「……ノゾミ。俺はそろそろ行きますから」
離してください、と暗に意図を込められて彼は彼女を見下ろしてくる。精悍そうな目鼻立ちに幼さの欠片が見え隠れするオニワカの面差しはまた下手な作り笑いを浮かべようとしていた。
だけど、不意にその表情が脆く砕けて強がろうとしていた彼は力なく崩れ落ちそうになる。泣き腫らした痕を色濃く目元に残しながら虚勢など晴れるはずがないのだ。
「無理をするな、オニワカ。少しでも良いから休んで――」
「そんな時間はないんですッ! もう行きますから、離れてください!!」
怒鳴り散らす彼の顔を見てノゾミは力を失う。泣きながらせがんでくる彼に抗えず、両肩を掴まれて引き剥がされる。
「なんで……!?」
もう好い加減にその心がひび割れかけていたのは明らかで、少しでも何とか言って説得せずにはいられなかった。絶対に彼が聞いてくれないと知っていても、中にいれば良いと訴えたかった。神殿ならば早々容易に攻略されることはないのだ、と。
もちろん、全ては虚しい気休めである。ノゾミはデータベースを漁り、かつてここに流れ着いたものたちがどのようにして滅んでいったのか、その詳細までが書き記されている文書を見つけた。
そこに記されているのは、『神』と呼ばれる得体の知れない存在と町の住人との戦いの歴史だ。
絶大な力を持つ『神』は直に手を下すことはせず、数々の尖兵を操って繰り返し襲撃を行わせていた。町の住人たちも極めて強大な武力を持つ従者を従えていたものの、圧倒的な単騎たる従者らも彼らは防衛に向かず多勢に無勢で追い詰められていく。
住人たちだって全くの無力というわけではなく、『神』の意志を歪めて天を操る力を秘めていた。しかし、その力も振るわれる度に光を失った粒子が降り注いで無効化される。状況を打開できるほどの効力は持たず、従者が数を減らすと戦場で使う余裕さえなくなった。
やがてこの町から逃げようと言う提案がなされるようになる。実際に町の包囲網を突破できたものあって、しかし彼らの多くは厳しい現実に出迎えられた。
『魔王』とその一族にあたる魔族。
魔物を操っているとされた彼らは弁解する暇も与えられずに見つかった途端に虐殺される。魔物から人からも、この世界の憎悪を一身に受ける彼らに居場所などなかった。
結局、住人らはこの町に居残るが少しずつ人員が欠け落ち、町の領域も狭まっていった。その課程でどうにか『神』からの干渉を凌く風の障壁を形成したものの、もはや町には存続していけるだけの余力が残されてはいない。
そうして滅び去っていった彼らのただ一つの希望たる遺児がノゾミなのだった。
その滅びの過程で、魔物を相手取ってもなお無双とされた従者でさえ最後には尽く討ち滅ぼされたという。平時でも厳しい戦いの中で、不安定な精神状態のオニワカ一人に戦況を覆せるとは思えない。
このまま彼を行かせて、喪いたくはなかったから。
「お願いだから今は休ん――」
衝撃が首筋から広がっていって意識がまばらに滲む。ぼやけて拡散していくものを掻き集めようとはするけれども力が入らなくて、腕からも頭からも抜けていってしまう。
「なん……で……オ……」
朧気な視界の中で必死に手繰り寄せたのは、懸命に名を呼ぼうとするけれど叶わない少年の袖だった。
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