第36話 期待しているわ

 どこまでも濁った灰色の雲に覆われた空が眼前に広がっている。

 意識を取り戻したヒスイはしばらくの間、呆然と仰向けに倒れたままでいた。

 あれほど全身を襲っていた痛みはない。半分閉じられていた視界も開いており、どうやら『血印』で開いた傷跡は全て塞がっているようだった。

 ゆっくりと体を起こす。首を下に向けるもやはり傷はおろか血の痕すらもない。そのまま前方に視界を向けてヒスイは思わず後退った。


「ひっ」


 目の前に広がるのは極彩色。

 マーブル模様のように鮮やかな緑やオレンジや青やピンクが混ざり合い、サイケデリックな光景を生み出している。見るだけで吐き気を催すほどの強烈な刺激を与える大地。


「何なの……ここはどこなの!?」


「ここは、あなたの精神世界」


 カツン、と背後から足音があった。

 背筋に悪寒が走りヒスイは勢いよく振り返る。

 ピンク色の髪に金色の瞳のリクルートスーツを着た女、『堕落の魔女』のリリスが立っていた。


「簡単に言えばあなたの心の中です。ふふ、それにしても酷く穢れていますねぇ。ここまで不安定な心の持ち主は初めてです」


「待って! 言っている意味が……、私の心の中……!? なら、どうしてあんたが……!?」


 確かに非現実的な光景に立ち、傷が治っている現状を鑑みるに夢か幻覚でも見ていると認識するのがこの状況を説明する他にないだろう。その中には心の中を具現化した世界も存在するのかもしれない。

 だが仮にここがヒスイの心の中だとすると、この光景は何なのだ。精神世界というなら本人の深層心理を表現した世界と解釈するべきだろう。ならば、目の前に広がっているこの醜悪な光景は何だ?

 そしてリリスがこの場にいるということは、今、ヒスイの中にリリスが入り込んでいるということになってしまう。


「ふふ、私の魔術の一つですよ。心の中に入って過去も本音も全部覗けます。しかし、何とも救い難い程に歪んだ心を持っていますね。嫉妬と虚栄に塗れています」


「ッ、うるさい、あんたに何が分かるの!」


「分かりますとも。あなたがずっと我慢していたのも、自分の無力さに打ちひしがれていたのも、お友達の持っている力に嫉妬していたのも……ね」


「!」


 リリスの言葉にヒスイの目が見開かれる。

 頭を抱え、震える声で必死に彼女は否定しようとした。


「違う……。そんなことない、私は、私はっ……!」


「あなたが魔法少女に鳴った理由も正義のためなんかじゃない。ただ自分を見てもらうため。他人から認められたかっただけ。そうでしょう?」


「ちっ、違う……! 私は使命のため、そう、使命があるから戦ってるんだ!」


 取り繕うかのように言葉を濁しながらヒスイは答える。だが、その態度と言葉は暗にリリスの指摘が図星を突いていることを意味していた。

 頑なに認めようとしないヒスイにリリスはただ微笑み返し、指を鳴らす。


「……そうですか。そこまで言うのなら思い出させてあげましょう」


「な、なにっ……?」


 突然、それまでサイケデリックに混ざり合っていた極彩色が引いていき周囲が白く輝き出した。

 その光はヒスイの体を包み、視界がホワイトアウトしていく。あまりの眩しさに目を塞ぎ、光が引いて視界を取り戻した時にはヒスイはとある部屋に立っていた。

 埃っぽく薄暗い部屋。周囲には宇宙や空想科学をテーマにした本やおもちゃが溢れかえっている。

 

「……まさか」


 懐かしさすら覚える光景。幼い頃ヒスイが暮らしていた実家の自室だ。

 

「ええ、そうです。ここはあなたの記憶。その中でも遥か過去、あなたに家族がいた頃の記憶ですね」

 

 背後から声。もうこれで三度目の経験だが未だ慣れることなく、驚きと共にヒスイは振り返る。

 リリスが腕を組んでほくそ笑んでいた。


「昔からSFモノが好きで空想科学で戦うヒロインに憧れていたんでしょう。何とも微笑ましい記憶でしょうか」


「……うるさい。大体、こんな記憶を見せてきたってことは」


「ええ、お察しの通り。一階へ降りてみなさい」


 自分の好きなもので溢れかえった自室。さぞかし幼い頃は遊びに満足した日々だったのだろう。恐らく普通の人間がその光景を見ればそう思うかもしれない。

 しかし、ヒスイの内心は酷く曇っていた。埃だらけの床と千切れたカーテンがそれを物語っている。

恐る恐るヒスイは階段を一段一段と降りていく。一階に辿り着き、廊下を渡ってリビングのドアの前に辿り着いた。ゆっくりドアノブを掴み扉を開ける。


『お母さん見て! わたし百点取ったよ!』


 元気な幼い女の子の声が響き渡る。

 黒い髪に黒い瞳の少女────幼い頃のヒスイだ。

 両手で小学校のテストの解答用紙を持ち、満面の笑みで母親に見せている。

 その用紙を見た母は表情一つ変えずにヒスイから背を向けて呟く。


『……そう。次も


「っ!」


 ドクン、と一際強く鼓動が鳴る。

 目の前にいる幼いヒスイから笑顔が消える。

 それ以上は見ていられなかった。ヒスイは両手で口を押さえ、その場にしゃがみ込んでしまった。


「はぁっ、はぁっ…………!」


 期待。その言葉がヒスイの胸を深く抉る。

 ヒスイは母子家庭であった。母は結婚もしていない。詳しい経緯は不明だがどうやらヒスイの父に当たる男は母を騙し、多額の借金を残して逃げていったのだという。

 瑠璃垣家は元々裕福な家庭であり、その家系はみな都内一の大学を卒業し、政治家に進んだ者も多いという。

 母もその一人であったが、結婚もせず子供ができてしまったこと、そして多額の借金を抱えたことから親戚も含めた家族全員から見放され、ヒスイと二人暮らしをしていた。

 幼い頃は愛情を注いでくれたと思う。貧しい家ながらも母は懸命に働き、ご飯を作り、笑顔でヒスイに話しかけていた。欲しいものは買えてもらえなかったが、「ごめんなさい」と何度も謝りながら頭を撫でてくれた。自室にあったものは購入したものではない。全て母の趣味で持っていたものだ。ヒスイはそんな母が好きであったし、だからこそ母の趣味であるSFも夢中になったかもしれない。

 

 ────しかし、ヒスイが小学校に上がった時、母の態度は豹変した。


 突然、母はヒスイに笑顔を向けることがなくなった。学校から帰ってきてその日の出来事を話しても興味なさそうにし、「そんなことはどうでもいいから勉強を頑張りなさい」と冷たく返すようになった。

 まだ幼いヒスイにとってそれは酷であったが、それでも彼女は母を嫌いになれなかった。勉強すれば、良い成績を取れば母は認めてくれるかもしれない。そんな僅かな希望を抱いてヒスイは勉強に打ち込んだ。

 しかし、先程見た光景のようにヒスイがどれほど頑張っても、それこそ満点を取っても母の態度は変わらず「次に期待している」とだけ返し、一切褒めることはなかった。ヒスイもそれに応えるために勉強するしかなかった。繰り返されるたびにヒスイの心がどこか悲鳴を上げているような気もしていた。しかし、全成績で満点を取れれば今度こそ母は認めてくれるかもしれないと、ヒスイは希望を抱きとにかく勉強し続けた。


「そしてあなたはそんな日々を二年も繰り返しましたね」


 リリスの声が聞こえ、はっとヒスイは現実に回帰する。

 気が付いたら、リビングの部屋は血の海で溢れ、家具はめちゃくちゃに壊されていた。

 その中心には倒れたヒスイと母がいる。


「いくら勉強しても見てもらえず、それでもあなたは頑張り続け……。神はそれを嘲笑うかのようにある日突然日常を壊しました」


「あ…………」


 その日のことは鮮明に覚えている。

 いつものように会話一つ交わさない食卓で夕食を取っていた時だ。突然、部屋が停電した。そこからは一瞬だった。

 風切り音とともに家の中がめちゃくちゃに壊され引き裂かれ、ヒスイとその母は暴風に巻き込まれた。ヒスイは不幸中の幸いにも致命傷を免れたがそれでも重症を負い、母は既に助からない身であった。

 そこに、白く光り輝くイタチのような獣が現れた。魔獣。ヒスイもテレビでその存在は聞いたことある。どうしてこんな所に、そんな疑問を抱くまもなく記憶の中のヒスイは母に向かって手を伸ばしていた。


『お母さん……』


「あなたはこの時どんな思いで母に手を伸ばしたんですか? 死への恐怖? 生への執着? 助けを求めていたんですか?」


「やめて……」


 覚えている。

 痛くて、苦しくて、暗くて、何もかもが怖かった。ヒスイが母に助けを求めるのも当然のことであった。

 だが。

 ガシッとヒスイの両肩が強く掴まれる。鬼気迫った表情で睨みつけるような目をした母と視線が合う。


『あなたは、成功するべきなのよ』


『お母さん……?』


『私は失敗した。瑠璃垣家の恥をかいた。だから、あなたが代わりに成功するべきなの。誰よりも一番になって私の誇りになりなさい』


『お母さん、何を言ってるの!? いやだ、怖いよ!』


『だから、ここで死なないで。生き延びて。そして誰よりも立派になって、誰よりも強くなって誰よりも一番になりなさい』


『やめて! お母さん、助けてよ!』


『ねえ、翡翠』


 聞く耳も持たずに母は言う。


『私、あなたのこと期待しているわ』


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 記憶の中の親子の言葉をそこまで聞いて、ヒスイはとうとう耳を塞いで悲鳴を上げながらその場にしゃがみこんでしまう。


「ああ、可哀想に。認められるために、母に愛されるために努力したのに。母は初めからあなたを見ていなかったなんて。あまりにも酷い話です」


 後ろでおよよとわざとらしく涙を流すリリスだが、最早ヒスイの耳には入ってこない。

 ただ呆然と記憶の中の母が魔獣に食われている様子を眺めているだけだ。あの時、記憶の中にいる幼いヒスイもそうやって眺めることしかできなかった。母が死んだ悲しみよりも、自分の存在意義を失ったショックが大きかった。


「では、そろそろラストスパートと行きましょう」


「何するつもり……」


 リリスの言葉に力なくヒスイは答える。

 心の奥一番に深いトラウマを想起させられて、なおこれ以上の絶望があるというのか。もうヒスイは抵抗する気力も失っていた。

 リリスは楽しげに微笑む。


「あなたが本当に望むもの。あなたが本当に感じていたことをありのままお見せしましょう」


 パチン、とリリスの指が鳴った。


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