第35話 ああ、何て醜くて愚かで可哀想なのでしょう
「ま……じょ……?」
リリスと名乗ったピンク髪に金色の瞳の女。
直後に呟かれた『堕落の魔女』という名。おとぎ話でも散々聞いた『始まりの魔女』の一人だ。
普段のヒスイならばその名前を聞いた所で「馬鹿にしているのか」と一蹴する所だろう。だがヒスイは知ってしまっている。パンドラという本物の『魔女』の存在を。彼女が持つ圧倒的な力を。
「なん……で……。魔女、嘘、本物……?」
声を震わせながらヒスイは後退る。
カツ、とハイヒールがアスファルトの路面を打つ音を響かせながらリリスは一歩前へ足を出す。
「ええ、本物ですよ。紛うことなきね。ふふ、どうしてそんなに怯えた顔をするのですか? 数多くの魔法少女を生み出し『幸せ』にしてきた私ですよ?」
「嫌! 来ないで!」
咄嗟に二丁拳銃を取り出し、リリスに向けて発砲する。
放たれた弾丸は風を纏い、渦を巻いて高速でリリスの元へ飛んでいく。狙いは一直線。リリスも余裕を含んだ笑みを浮かべたまま微動だにしない。
弾丸は逸れること無く真っ直ぐリリスの脇腹へ向かって飛んでいった。そのはずだった。
────弾丸はリリスの側を通り抜け、背後の壁に激突した。
「……ぇ?」
目の前で起きた光景が信じられずヒスイは呆けた声を上げる。
狙いは正確だった。リリスに向かって飛んでいくのを確かにヒスイは見ていた。だが、彼女に当たる直前で不自然に弾道が曲がった。
カツ、と足音が響いてリリスが一歩前に出る。
「あらあら。いきなり撃ってくるだなんて酷いですねぇ。悲しくなっちゃいます」
「ひっ」
ぞわ、と背筋が凍り思考を恐怖に支配されたヒスイは無意識に引き金を引いていた。
パンパン、と続けて二発両手の銃から弾が放たれる。狙いは眉間。躊躇などしていられなかった。彼女は危険だと本能が警鐘を鳴らしていたのだ。
楕円を描くように進みながら両側から挟むように頭へ向かっていく。しかし、再び直撃する直前で弾丸が垂直落下してしまう。
再びカツ、とリリスが前へ進む。
「完全に警戒されてしまいましたかね? 嫌われちゃいましたかね? 残念です。寂しくなっちゃいます。胸が苦しくなっちゃいます」
「うるさいっ!」
攻撃が効かない。その予想外の事態にヒスイは焦燥が募り、声を荒げてしまっていた。
魔法を使った攻撃は無理だ。ならば奥の手を使うしかない。咲良から託された魔術を使うしかない……!
ヒスイは右腕の裾を捲くり上げた。剥き出しになった白い柔肌────はなく、包帯に覆われた痛々しい印象の腕が姿を表した。
一度の戦闘で使用できる回数は五回まで。それ以上の行使は命に関わる。
だから、この一回で決着を着けなければならない。はっきり言って成功した試しはないが四の五の言っていられる場合ではない。このままでは殺されてしまう。
覚悟を決め、ヒスイは親指を口元に持っていき、力の限り噛み締めた。プチ、とほんの少しだけ指先が噛み千切られ、痛みと共に流血する。
そのまま前方に腕を突き出し、ぬるりと掌に血が塗られる感触を覚えながら拳を握り締めて叫んだ。
「血印!」
一回。
直後、リリスの周囲の空間がたわんだ。
「あら?」
気が付いたリリスが疑問の声を上げる。
直後、リリスの周囲で爆発が起きた。
赤い閃光が迸り、爆炎が巻き上がり、真空の刃を纏った暴風が吹き荒れる。あれをまともに食らって無事でいられるはずがないだろう。
────そして無事でなかったのはリリスだけではない。
ぶち、と体内から何かが千切れる感触を覚えた。直後にヒスイの腕を激痛が襲う。
「いっ……、があああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!????」
包帯の一部が赤く染まる。
負った傷はかなり深かった。皮膚の表面が裂け、血管のみならず神経にまで届いてしまったらしい。腕の力が抜けだらりと垂れ下がる。腫れ上がったかのようにじんじんと熱を持って引くことはなかった。
一回で、これだ。
血印とは名にある通り自身の血を使う魔術だ。何らかの自傷を負い、腕を突き出し拳を握って術名を叫ぶ。それが基本の術式である。発動すれば自身の望んだどおりの現象を引き起こす。ヒスイにはまだ扱いきれていないため、せいぜい広範囲の攻撃として使用するのが精一杯だ。
しかし、僅かな流血と魔力だけで先程のような強力な効果を発揮できる。一見ローリスクで利用できる使い勝手の良い魔術に思えるが、一つだけ致命的とも言えるほどのデメリットがある。
それは『使用するたびに代償として傷を負う』というものだ。魔術とは元々低コストで強力な効果を発揮する力を使うために魔女が開発したものだ。それでもなお、等価交換は果たされなければならない。故に代償を支払う必要がある。代償を支払うために魔女たちは生贄を用意するなどのあらゆる非人道的行為を行ってきた。これが『黒魔術』と呼ばれる所以だ。
しかし、ヒスイには当然生贄を用意することなどできないし、あってはならない。必然的に代償は己の体で支払うことになる。どうやら完全に扱えるようになれば、自傷のダメージも掠り傷程度で済むそうなのだが、今のヒスイには到底その領域にまで辿り着けない。
「……ふふっ」
しかし、手応えはあった。
ここまでの力は今までに出せなかった。間違いなく、ユウを圧倒的に超えることが出来るだろう。熟練していなくてこの威力だ。完全に制御できるようになれば、他の誰にも負けないぐらいの力を手にできるだろう。
「はははっ!」
笑みが溢れる。
まだ右腕の痛みは治まらない。神経が切れたせいでろくに動かすこともできない。しかし、今はそれよりも強大な力を手にできたことが喜ばしい。こんな機会を与えてくれた咲良に感謝する。力があるなら認めてもらえる。咲良の期待に答えられる。ユウでもセナでもヒメコでもなく、私を見てくれる────。
「なるほどなるほど。それが貴女の原動力ですか。なんと醜くて悲しくて苦しいのでしょう」
なのに。
前方から声があった。
「…………は」
呼吸が止まる。
目の前は煙幕に包まれていて人影は見当たらなかったのだが、カツカツと足音だけは耳に届いていた。
やがて煙が晴れる。
そこには、衣服にさえ傷一つないリリスの姿があった。
今度こそ、ヒスイは恐怖と絶望のどん底に叩き落された。
「うああああああああああああああああああああああああ!!!!」
果たして、その絶望はリリスが化け物じみた佇まいをしていたからなのか、それとも奥の手さえ効かない自分の無力から来ていたのか。
ぱきん、と頭の奥で何かが割れる音が響いた。
もはや限界に達しそうな表情でヒスイは再び腕を前に突き出し、拳を握り締めて叫ぶ。
「血印!」
二回。
どこからともなく、ギロチンが現れリリスの真上から落ちていく。同時に横からはショットガンが、前方からは竜巻が同時に襲いかかってきた。そこまでの力を発現させた所で、ヒスイの右手の指の関節が全て折れた。
「ぐぁっっっっっっっっっっっっっ!!!!!?????」
意識が明滅する。
見るだけで痛々しくなるほどにヒスイの指はグチャグチャに折れ曲がっていた。腕が完全に使い物にならなくなる。しかし、それほどの力を使ってもリリスに傷はない。
「可哀想に。ずっと、ずっとずっとずっとずっと自分を騙して不幸になってきたのですね」
憐れむような目でリリスは話しかけ、近付いてくる。
その同情するような視線を向けられるたびに、ヒスイは心に突き刺さる感覚を覚え、追い払おうと震える右腕を前に突き出す。折れ曲がって形にならない拳を握り締め、血反吐を吐きながら叫ぶ。
「けっ、血印!」
三回。
直後、ヒスイには何が起きたか分からなかった。
ただ、全身に打ち付けるような振動を感じたので巨大な爆発のようなものを起こせたことだけは把握する。
ぱちゅん、と耳奥で響く不快な水音。
気が付いたらヒスイの視界は空を向いていた。
「…………ぁ?」
絶え絶えながらもヒスイは呆けた声を出す。
背中に伝わる感触でヒスイは自分が倒れていることに気が付いた。左目に違和感がある。そういえば、視界がいつもより狭い気がする。
ぼーっとする頭で恐る恐るヒスイは自分の左目にそっと指を伸ばした。何故、恐る恐るなのか分からないまま。
ぬるりとした生暖かい感触が指を伝う。それで、ヒスイは何が起きたのか理解してしまった。
左目が潰れていた。
「あっ…………ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
自覚した途端、激しい痛みがヒスイを襲った。
まともな思考を保っていられなくなり、ひたすら叫んで目を押さえてその場を悶える。
だから、ヒスイは気が付くことができなかった。
優しい手付きでヒスイの体が押さえつけれられる。
ヒスイの視界いっぱいに、ピンクの髪に金色の瞳を持つ女が現れる。
「ああ、何て醜くて可哀想で愚かなのでしょう。本当に────愛おしい」
「あぇ…………?」
もう、ヒスイには目の前の人物が何者だったのかすら分からなくなっていた。
脅威を抱くこともできず彼女の言葉に困惑する。
ただ、いつの間にか甘い匂いが辺りを立ち込め、痛みもいつの間にか引いていて。
ぞっとするほどの妖艶な笑みを浮かべて、彼女はヒスイの耳元で囁いてきた。
「────愛してる」
直後、ヒスイの脳内が、思考が言葉で埋め尽くされた。
愛してる、好き、貴女だけを見てる、貴女を許す、貴女を認める、愛してる、貴女の側にいる、愛してる、貴女が欲しい、貴女をもっと見たい、貴女の全てを、愛してる愛してる愛してる…………
「う、ぁ」
膨大な情報にあっという間にヒスイの自我が押し流された。
辛うじて聞こえる耳元にリリスの言葉が入ってくる。
「さあ、貴女の全てを見せて頂戴。私が、『幸せ』にしてあげますから」
その言葉を最後に。
ぷつん、とヒスイの意識が途切れた。
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