第1章 Amnesia

第1話 ここは……どこ…………?

「……んっ、うぅ…………」


 呻き声をあげながら少女は目を覚ます。

 まず最初に感じたのは冷たくて硬い感触。どうやら自分はコンクリートに寝そべっているらしい。

 自覚した途端、意識が急速に澄み渡っていき目を覚ました少女が立ち上がる。水音が聞こえてそちらの方に目を向けると浅い川が流れていた。見渡すと、橋の下に立っていた。どうして自分がこんな所で眠っていたのか。困ったことに何も思い出せない。

 未だぼーっとする頭を抱えながら少女はぽつりと呟く。


「……かえろう」


 近くに落ちていた鞄を広い、橋の下から外へ出る。

 そして辺りの景色を見て、思わず少女の動きが固まった。


「……あ、れ?」


 どうやら日は沈んでいるようで、上には夜空が広がっている。

 左右には無数のビルが立ち並び、こんな時間帯にも関わらず街中を明るく照らしている。

 いくつもの車が通り過ぎる音や行き交う人々の喧騒が耳に入り、活気溢れる街であることが理解できる。

 だが、そこまで思考して少女は首を傾げた。


「ここは……どこ…………?」


 まったく身に覚えがない。

 目が覚める直前の記憶がないことが一層少女の不安を掻き立てる。

 そう、目が覚める直前までの記憶がない。

 意識が混乱しているのだろうか。頭を押さえながら少女は隣に建つビルに張られたガラスに目を向ける。

 

「…………?」


 直後、少女は困惑した表情を浮かべた。

 ガラスに映る『少女』も似たような表情を浮かべている。

 額のあたりで黒い前髪が切り揃えられ、後ろ髪はおさげにしてまとめていた。赤縁の丸眼鏡を掛けていて顔立ちは特別目立っていなかった。

 セーラー服を着ており、目の前にいるこの『少女』はどうやら学生のようであった。

 だが少女はその姿にまったく見覚えがない。困惑して思わず首を傾げると目の前の『少女』も同様に首を傾げる。まさかと思って手を振ってみると向こうの『少女』も手を振り返した。

 間違いない。このガラスに映る『少女』は自分の鏡像だ。


「わたしなの……?」


 思わず口に出して少女はぎょっとした。

 不意に、耳元から知らない声が響いてきたのだ。

 だが辺りを見渡しても喧騒こそ聞こえるものの、少女のそばに近付いている人はいない。


「……んんっ。あ、ああ~」


 口を開き再び声を出してみる。

 少し高い柔らかめな女の子の声が自分の喉から響いてくる。しかし、少女にはまったく聞き覚えのないもので自分の声に違和感しか抱かなかった。

 目覚める前も、場所も、自分の顔も、声も何もかも分からない。ようやく事態を把握した途端に不安と恐怖が少女を押し寄せてきた。


「はぁ……はぁ……っ!」


 息が荒くなり動悸が早まる。気持ち悪さすら覚え少女は腹を抱えてその場にうずくまってしまった。両の瞳から涙がポロポロと溢れる。

 そもそも、どうして目覚める前の記憶が何も思い出せないのか。どうやってここまで来たのか、どうして眠っていたのか、いやそれ以前に。

 自分はいったいどこに住んでいて、何をしていたのか。

 自分の他にどんな家族がいたのか。

 自分の名前は何だったのか。

 何も思い出せない。

 何も分からない。


「あ……あぁ」


 恐怖と絶望に押し潰され、少女は嗚咽をあげる。

 自分のことさえ何も分からず誰かに頼る手段も見つからない。

 これからどこへ向かえばいいのか、何をすればいいのか分からない。

 その足をどこに動かすべきなのかも分からないようでは、自分の存在意義を失ったのと同じ。自分が生きる術を全て持ち合わせていないということになるのだ。

 だから少女は縮こまり震えることしかできなかった。助けを求めることもできず、しかし誰かが手を差し伸べてくれるなどという甘い考えを仄かに抱く。

 

「────?」


 ふと、そこで少女は気が付いた。

 近くで気配を感じる。周囲が微かに暗くなり、地面に視線を向ければ影がこちらを覆うように伸びているのが分かる。

 まさか、本当に誰かが手を差し伸べてくれたのだろうか?

 ばっ、と少女は勢いよく顔を上げて。

 酷く後悔した。



「────ぁ」






 黒い何かが、口を開けて迫っていた。






 まるでそれはネコ科の獣のように見えた。

 だが、毛は一本も生えておらず真っ黒い地肌が全身を覆っている。

 唯一その首元には、まるでたてがみのように長くも太い針が数千本も生えていた。

 大口を開け粘液性のある唾液を垂らし、鋭利な牙を覗かせながら獣は唸る。

 少女の目と鼻の先に、それは迫っていた。


「あっ、うわあああああああああああああああああああ!!!???」


「グルルルルァァァァァァァァァァァ!!」


 少女の叫び声と獣の咆哮が同時に響き渡る。

 思わず抱えていた鞄で獣の顔面を殴打し、振り返って全速力で走り出した。

 同時に少女は異変に気付く。

 停電でもあったのだろうか、全ての建物と街灯から明かりが消え失せていた。

 喧騒も嘘みたいに聞こえなくなり、周囲を見渡すと人影がどこにもない。

 車すら一台も通らず、信号機も全て止まっていた。


「はぁ……はぁ……何なのあれ!?」


 少女は一目散に逃げ出しながら叫ぶ。

 記憶喪失になっていても分かる。あれは紛れもない異常だ。きっと、この世にあってはならないものだ。

 そして。

 決して遭遇してはいけないものだ。


「なんで……なんでっ、わたしばっかりこんな目に!」


 涙を流し少女は叫ぶが、嘆いた所で助けてくれる人などいない。

 何故か他の人々は消えてしまった。今、この街には名前すら分からない少女と獣しかいない。

 このまま追い付かれてしまえば殺される。だが獣────否、化け物より早く走れているのだろうか。

 不安に駆られた少女は思わず背後を振り返る。

 振り返って目を疑った。


「え……!?」


 先程まで追いかけていたはずの化け物が消えていたのだ。

 まさか、逃げ切ったのだろうか。


「は、はは……」


 乾いた笑みを零しながら少女はその場に崩れ落ちる。

 目を覚ましてからというものの、あまりに連続して起こる異常事態に少女は疲弊していた。

 無理もない。記憶を失ったかと思えば奇妙な化け物に追い駆け回され挙句にあらゆる人間と明かりが消えたのだ。まだ学生(……で間違いないはず)の少女にはあまりにも酷な出来事だった。

 ひょっとしてこれは夢ではないのだろうか。少女はそんな思考を始めていた。

 そう、これは悪い夢。目を覚ませば記憶も思い出し、きっといつもの日常へ戻ってくる。

 そんな都合の良いことを考えながら少女は前方に向き直った。

 依然として周囲は暗いままであることに目を逸らしたまま。



 がぶり、と。

 深々と少女の右肩に化け物の牙が突き刺さる。



「────ぁ?」


 最初、少女が覚えたのは困惑だった。

 前には消えていたはずの化け物が少女の肩に食らいついている。

 おびただしい量の血が流れ出し、激痛を覚えて。

 ようやく、少女は状況を理解した。


「がっ…………ぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ!!??」


 痛い、痛い、痛い。

 涙を流し、少女は苦痛に絶叫する。

 胴体を長い爪に押さえ込まれる。少女は暴れて抵抗しようとするも圧倒的な力量の差に負けどうしようもすることができない。

 このまま、殺されるのか。

 自分が何者か分からぬまま、この訳の分からない化け物に貪り命を終えるのか。


「やっ、やだ……! こんなのやだぁ!! 死にたくないっ、誰か助けてぇ!!」


 必死に助けを求めるも今は無人の街。少女の声が虚しく響き渡るのみ。

 少女の叫び声など無視して化け物がその喉笛を噛み千切ろうと大口を開けた時だった。


「────たぁっ!」


 突如、新たに少女の声が響き渡った。

 直後、化け物の首から黒い鮮血が噴き出しポトリと落ちる。そのまま肉体が黒い結晶に覆われ、パリンと音を立てて砕け散っていった。


「はぁ……はぁ……何?」


 突然起こった事態に少女は呆けた声を出す。

 未だ肩はズキズキと痛むが何とか少女は立ち上がり、目の前に立つ人影の姿を捉える。

 癖っ毛なのだろうか、ややボサボサとした黒髪に細めだが美しく輝く青色の瞳。

 黒いゴシック調のドレスを身に纏い右手には白銀に輝く刀を握り締めていた。


「おい、お前大丈夫か?」


「くっ、うぅ……血は出ていますが、何とか……」


「どれどれ……って結構出てるじゃねえか!? ったく、こんな危ねえ所にいやがって」


 悪態を付きながら青い瞳の少女が肩を担ぐ。

 先程の化け物を倒したこと、そして少女の身を案じていることからこの人は味方であるらしい。

 そのことに安堵した少女はようやく尋ねる。


「あ、あのっ、あなたは……?」


「あたしの名前はユウ。四十澤あいざわ優羽ゆうだ」


「ユウさん、ですね。それで、どこへ向かうんでしょうか……?」


「決まってんだろ。お前の家だよ」


 それからユウと名乗った少女はポケットから小さな丸い物体を取り出した。

 黄緑色のBB弾ほどのサイズのそれを少女に手渡す。


「これは……?」


「丸薬の一種、『忘却剤』だ。文字通りこいつを飲むだけで一場面の記憶が消える。家まで連れて傷を治してやるから、全部終わったらそいつを飲め。そしたら今日のことは忘れて普通の日常に帰れる」


 ユウの言葉に少女は、はっと顔を上げる。

 一場面の記憶を失う。その『一場面』の範囲はどこまでか分からないがこのタイミングで渡してくるということは十中八九目覚めてから今に至るまでの時間を指すのだろう。

 そして少女は記憶喪失だ。目覚める以前の記憶が存在しない。そこで目覚めてからの記憶を失ってしまえば、また今の状況のやり直しだ。そもそも、少女は自分の家がどこにあるかすらも分からない。


「ま、待ってください! それじゃあ困ります!」


「大抵の奴はそう言ってくるけど部外者はなるべく関わらない方針でやってるんだ。すまないな」


「いえ、違うんです! 今記憶を失ったらまた振り出しに戻っちゃうんです!」


「ああ?」


 焦り手を引っ張る少女の様子に苛立ったのか、振り返りざまにユウが睨み付ける。

 その眼光に思わず少女は怯んでしまった。


「能書きはいいからさっさと家を教えろ……って待て。振り出し? おい、まさかとは思うが……」


 だが少女のただならぬ様子、そして妙な言葉が引っかかったのだろうか。ユウは怪訝そうな顔から一点、真剣な眼差しを少女に向ける。

 ようやく話を聞いてくれることに少女はホッとしつつも申し訳なさげに口を開いた。


「あ、あの……実は、わたし、記憶喪失で。目が覚める前が思い出せないし、家も分からないんです……」


「…………………………キオクソウシツ」


「はい」


 少女の言葉に何故かユウは片言で反芻した。

 それからしばらく黙ること数分。

 口を開くなり「はぁぁぁぁぁぁ……」と長いため息をついた後、頭をガシガシと両手で乱暴に掻き始める。

 突然の奇行に少女はぎょっとして、後退り。

 ピタリと手を止めたユウは「すぅぅぅぅぅ」と深く息を吸って。


「────だあああああああああああああ今日は最悪だなちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


 と、大声で叫ぶのであった。


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