◆4◆ 地下鉄での出会い~片岡の日常~

 それは、しとしとと雨の降る午前10時のことだった。


 ここ最近は快晴続きだったので、たまには雨くらい降らないと、なんて思いながらも、スラックスの裾が濡れるのはちょっと困る。自分が黒のスーツを着るのは多少濡れても目立たないように、という理由もある。


 以前飲みの席で潤さんが言っていた、「ボーナスの度に、ちょっと良いのを買う」を前回のボーナスから始めてみたのだが、自分のボーナスではそのというのももちろんそこまで良いものではない。だけど、いままで着ていたものと比べると、やはり着心地が違うというか、光ちゃんからも「藍ちゃん何かいつもよりシュッとしてて恰好良いよ!」って褒められたものだ。


 まぁ、潤さんからは……何も言われてないけど……。


 落ち込むな、俺。

 俺だって、はるか昔、当時の彼女が髪を切ったことに気付かなかったし、新しい靴やバッグにも全く気が付かなかったじゃないか。そういうものなんだ。異性の服装や髪型というのは、なかなか気付かないものなんだ。そういうものなんだ。


 そう言い聞かせながら地下鉄に乗り込む。


 今日の予定は三富さんとみミシンさんのところに新しいカタログを届けるのと、それから、市内にいくつかある個人商店の販促物をチェックして……。


 と、頭の中でルートを確認する。


 正直なところ、実はいまかなり余裕がある。めずらしく月半ばにして目標に到達しており、あとはここからどこまで伸ばせるか、という状況だからだ。その分昨日までがかなりハードだったので、今日はとにかく軽めのスケジュールにしたのである。まさかそんな日に雨が降るとはついてないと思ったが、そこでくよくよしても仕方がない。


 出発前、潤さ……伏見主任が窓を見つめてポツリと言った言葉を思い出す。


「たまには降ってもらわんとが可哀想だからなぁ」


 オフィス内がしばし騒然となったのは言うまでもない。恋人の俺でさえも初耳である。


「かっ、飼ってるんですか? 蛙を? 主任が?!」


 真っ先に騒いだのは中西班の瀬川さんだ。


「いやぁ、ウチの坊主も雨の日によく捕まえてきましたよ」


 と、目を細めたのはお子さんが今年小学校に入学したウチの班の山中さんだった。


「僕、蛙触れないんですよねぇ」


 と光ちゃ……いや、小橋君が顔をしかめると、「だらしねぇなぁ」と牧田さんが茶化す。


「中西主任は平気ですか?」


 と中西班の八ツ橋さんが尋ねると、中西主任はちょっとだけムスッとしながらも、「当然ですよ」と返してくれた。何が当然なのかはわからないが、「仕事中です」以外の言葉を返してくれるなんて珍しい。最近、中西主任は八ツ橋さんに対してはちょっとだけ態度が柔らかいのだ。たぶん八ツ橋さんくらいなのである、彼女に対しても分け隔てなく仕事に関係ない話題を振るのは。


 結局、伏見主任の『蛙』というのは、どうやら近所のどこかに住んでいる蛙のことらしい。会社の帰りに大合唱が聞こえてくるのを毎日楽しみにしていたのだとか。ただ、最近はずっと快晴だったため、何となく元気がないように思っていたのだという。

 

 それ、『ウチの蛙』ではないですよね。


 誰もがそう思っただろう。

 中西主任でさえも、呆れたような顔をしていたし。


 でも、良いのだ。

 それが伏見主任なのだ。


「あれ、何かおかしなこと言ったかい?」


 不思議そうに首を傾げるその仕草に瀬川さんはうっとりしていたし、牧田さんと川崎さんは腹抱えて笑ってたけど。俺は俺で、頬が緩みそうになるのを必死に堪えて腿をつねっていた。いまもそうだ。あの時の主任の姿を思い出すだけで口元が不自然に歪みそうになる。


 駄目だ。

 ここは公共交通機関なんだ。堪えろ、俺。


 そう思って唇にぎゅっと力を入れていると。


「――ひぃ!?」


 向かいの席からそんな声が聞こえてぎくりとする。

 俺だろうか、と反射的に背中が丸まってしまう。こんな姿を主任が見たら「胸を張れ、片岡君」と言われてしまうだろう。

 向かいに座るその女性は、しまった、とでも言いたげな顔で口元を押さえ、慌てて下を向いた。

 

 もしかして俺だろうか。

 心当たりはない、と言い切れないのが悲しいところだ。


「あの、俺が何か……?」

「な、ななな何でもないです!!」


 こんな怯えたように「何でもないです」と返されて、何だ気のせいか、と思えるほど俺の頭はおめでたくない、というか、そういう経験ばかりしてきている、というか。


 たぶん――、いや絶対俺の顔見てビビったんだろうな。


 悲しいけれども、よくあることなのだ。


 さらに、そう間を置かずにもう一度、「ひぃ!」と叫ばれてしまった。最早『たぶん』の入り込む余地はない。確実に。確実に俺だ。席を立とうかとも思ったが、以前、それで立ち上がったタイミングで「殺される!」と叫ばれたことがあるのである。下手な動きはかえって危険らしい。


 こういう時はもう、持参している本を読むことにしている。顔を上げているから駄目なのだ。下を向いていれば、少なくともこの『目』は見えないだろう。特に読書家というわけではないんだけど、人並みに本くらいは読む。


 いつだったか中西班の増田さんから自己啓発本というのを強く勧められて借りたりもしたけど、それはちょっと自分には合わなかった。自分が読むのは主に小説で、特に贔屓にしている作家がいるわけでもなく、タイトルだけを見て惹かれたものを手に取るのである。


 だから、数年前に流行った映画の原作のこともあれば、聞いたこともない外国人作家のものだったりもする。ジャンルもホラーだったり、推理もの、歴史ものとまちまちだ。ただ、幸いなことに、外れたことはない。本は何でも面白い。自分の知らない世界の自分の知らない人達の話なんだから、面白くないわけがないのである。


 今日は、駅の中にある書店の新刊コーナーに平積みされていたやつだ。『ゴリラ紳士はクーベルチュールチョコレートの夢を見るか』という本で、昔に流行ったSFに似たようなタイトルがあったな、と思ってつい手に取ってしまったのである。

 カバーは真っ黒で、明るいピンク色の線でリアルなゴリラの顔が描かれている。そんなところもそのSF作品によく似ている。となればやはりこれもSFなのかとあらすじを見てみれば、どうやらこれはところどころにフィクションをちりばめたエッセイの類であるらしい。1話1話もそう長くないので、移動時間のお供にちょうど良いかもしれない。そう思ったのである。


 

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