♤3♡ サクラさんと、サブちゃん
「大槻さん、こっちです」
店に入ってすぐ辺りをきょろきょろと見回していると、店の奥からそんな声が聞こえてくる。その方へ視線を向ければ、こちらに向かって手を振ってくれている夏果さんの笑顔が見えた。
「すみません、お待たせして」と言いながらその向かいに座る。
定時に上がったとはいえ、それでも彼女はそれよりも早くに上がっているのである。きっと待たせてしまっただろう。
走って来たし……汗臭くないだろうか。
手に持っていたジャケットを椅子の背もたれにかけ、ネクタイを緩めると、そこからむわりと熱気と湿気が逃げていく。
ほ、本当に汗臭くないだろうか、俺……。
「全然待ってないです! ほんとですよ、ほんと! もうほんとの話です!」
この場合の「全然待ってない」というのは案外嘘のことが多い。相手に気を遣わせないための優しい嘘だ。だけど、これはきっと本当なのだろう。必死さが違う。その必死な顔がまた可愛らしくて、どうにか堪えねばと思いつつもつい頬が緩んでしまう。
「わかりました。もうわかりましたから」
そう言うと、夏果さんはほっとしたような顔をして胸に手を当てた。丸く可愛らしい頬が、ほんのりと赤い。暑いのだろうか。店内は結構空調が効いていて涼しいのだが。
「さ、注文しましょう。お恥ずかしい話ですが、もうかなり空腹でして」
「あ、そうですよね。頼みましょう、頼みましょう! ここはですね、ご飯ものが特に美味しいみたいなんですよ!」
「成る程、それで『飯処』なわけだ。良いですねぇ、ご飯もの。じゃ、すべてSサイズにして何種類か頼んじゃいましょうか。それをシェアして……」
「それ、アリですね! それじゃ私、これ! このカルボナーラピラフ!!」
「お、そう来ましたか……。それじゃ俺はこっちの梅とジャコの和風チャーハンを」
「ああでも、こっちのナポリタンライスコロッケも!!」
「それももちろん」
※ ※ ※ ※ ※ ※
「ええと、そういえば」
ご飯ものだけではなく、サラダや一品料理なども存分に楽しみ、さて、そろそろデザートだろうか、という段になって、夏果さんが思い出したように言った。
「あの、今朝の桜の件ですけど」
「ああ、はい」
胸ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、ホームボタンを押す。画面がふわりと明るくなると、表示されるのは少しブレてしまっているカランコエの画像だ。それを見た夏果さんは「あ」と嬉しそうに笑ってくれた。それに返事をするかのように「はは」と笑って、次に
「良いんです、これは見ても」
そう言っても、夏果さんはまだためらいがあるようだった。まぁ無理もないだろうが。でも、それでこそ夏果さんだと思う。
♡ ♡ ♡ ♡ ♡ ♡
今朝の桜について尋ねると、大槻さんは胸ポケットからスマートフォンを取り出した。待ち受けの画面には、あのカランコエが設定されていて、それが何だか嬉しい。
その、スマホを私に向けたまま、COnneCTを起動させる。
何何? ちょっと待って。誰とのやりとりなの?
さすがにまずいでしょ、そういうの見るのは、と視線を逸らすと、「良いんです、これは見ても」という優しい声が聞こえる。ううう、でもなぁ。やっぱりちょっと抵抗はあるんだよなぁ。
「……角館の桜を見ましょうと誘った翌日に思い出したんです」
「はい?」
「実は大学時代の友人が秋田に住んでまして」
「ああ、そうなんですね」
成る程、その秋田に住むご友人とのやりとりというわけね。成る程成る程。
えええ待ってよ。も、もしかしてそれって女性だったりします? しちゃいます?
「その友人の知り合いの女性がですね」
「ひえっ! やっぱり!」
「やっぱり? どうしました?」
「な、何でもないです……」
そうだよね。
やっぱり、やっぱり女の人なんだ……。だよね、ですよねぇ。
「『サクラさん』という方なんですけど」
「サクラさん……。素敵なお名前ですね……」
「まぁ、本当の名前は『高橋みつ』さんっていうんですけど」
「……う、ううん?」
本当の名前? ええと、芸能人とか、そういう……? しかし随分と古風なお名前……。
「角館の武家屋敷に住んでらっしゃる方なんです。御年72歳のおばあさんで」
「え?」
「その方、桜が好きすぎて好きすぎて、この時期になると、毎日明け方から夕方までずっと外にいて、桜が咲くのをずーっと待ってるんですよ」
「えええ」
みつさん、いや、サクラさん、どんだけ桜が好きなの!? 気持ちはわからないでもないけど!
「学生時代にその話を聞いたのを思い出しまして。その人に頼みこんで写真を送ってもらってたんですよ」
「写真を……COnneCTで、ですか?」
すいすい、とスクロールされていく画面には、桜の木ばかりが貼り付けられている。サクラさんが撮影したものなのだろう、ちょっとぼやけていたり、辛うじて蕾とわかるくらいに遠かったりした。
70代のおばあちゃんといっても、いまのシニアは案外すいすいとスマホを使いこなせたりする。私のおばあちゃんもスマホだし、COnneCTでやりとりしたりもする。基本操作さえ覚えれば、意外と簡単ね、なんて余裕の発言までかましてたっけ。
だからもしかしたらサクラさんも、例えばお孫さんとCOnneCTでやりとりしていたりなんかするのかもしれない。
「写真はあんまり得意じゃないらしくて、正直見えづらかったりもしたんですけど、ほら、必ず一緒にメッセージが」
その通り、画面にはブレブレの桜の木と共に『未だ咲かず。』という一言も添えられていた。けれども、その一番最後、今日の日付のところには――、
『桜、咲く。』
という言葉が、明け方の空に映える薄ピンク色の桜の木の下にあった。
「だから正直、サクラさんが承諾してくれた時点で、これは勝ったな、と……」
大槻さんは、その大きな身体を済まなそうに縮こませて、すみません、と言った。
「てことは私は絶対に勝てない勝負をしてたってことですね……。もぉ~、酷いですよぉ」
そうだよ。これは酷いと思う。
だってさ、そうまでして私に罰ゲームをさせたかったってことでしょ?
ま、まぁ、負けた方は罰ゲーム、っていうのは私が言い出しっぺだったような気がするけど。
怒りなのか悔しさなのか、無言で口を尖らせていると、大槻さんが背中を丸めてゆっくりと私の顔を覗き込んできた。
ぬぅ、と近付いてきた困り顔に、ひゃあ、と声が出そうになる。
「……夏果さん、怒ってますか」
眉を下げ、こちらをじっと見つめる様は、何だか叱られている大型犬のように見える。
何これ、ちょっと可愛いかも。
「べ、別に怒って……ううん、ちょ、ちょっとだけ怒ってます、私!」
「そうですか……」
しゅん、と肩を落とすとなおさら大型犬感が増す。
昔、実家の隣に大きなワンちゃんがいたっけ。名前はなんだったかな。何か和な感じの……太郎……一郎……そうだ、三郎! サブちゃん!! 犬種はわからない。何かと何かのミックスらしいんだけど、飼い主のおばさんもそれが何なのかわからないみたいだった。だけどとにかく身体が大きくて、毛はそんなに長いやつじゃなかった。色は薄茶色で。
そのサブちゃんは、人が大好きで、お客さんが大好きで、配達のお兄さんとか、回覧板を持ってきたおばあさんにぶんぶんと尻尾を振って飛びかかろうとするのだ。だけどもちろん鎖に繋がれていて、届かないんだけど。でも、サブちゃんのことを知らない人はもちろん、知っている人でもやっぱりびっくりしちゃう。私もよくそれでびっくりして泣いちゃって、そもそも近付いた私が悪いのに、その度にサブちゃんは飼い主のおばさんに叱られていたのである。
耳をぺたんと寝かせ、しょんぼりと肩を落とし、あんなに元気だった尻尾をぴくりとも動かさず。
そんなサブちゃんに似ていると思ったら。
あの時の小さな私には、サブちゃんが叱られているところに割って入るような勇気なんて出なかったけれど、いまの私はもう大人で、目の前にいるのはサブちゃんじゃない。
ちゃんと、自分で歩み寄れるんだから。
「……大槻さん、私、デザートが食べたいです」
そんな和解案をぽい、と投げ込むと。
大槻さんは、がば、と勢いよく顔を上げ、テーブルの端に置いてあったメニューをばさっと開いた。そして、
「何でも! どれでも! は、端から端まで頼みましょうか! もちろん、俺が出しますから!」
なんて言いながら顔を近付けてくる。
その必死な表情を見ると、さっきまでほんのちょっとだけもやもやしていた気持ちがすっと晴れていくようだった。
額に汗までかいてるし。
「ごちそうさまです、今日は甘えることにします。けど、端から端まではちょっと……」
「あ、そ、そうですよね! ははは」
シャツの袖で額の汗をぐい、と拭い、照れたように笑う。
もうそろそろ長袖のシャツは暑いだろうな。そんなことを思った。
「それで、日程ですけど」
チーズケーキのアイス添えを注文した後でそう切り出す。
スマホのニュースアプリをタップし、週間天気を表示させる。ここ数日は寒かったり暑かったりしたけれど、今週はずっと快晴で、その上気温も高そうだ。ただしそれは仙台の――太平洋側の話であって、日本海側の秋田県はというと、そこまで暑いわけでもなさそうである。
「俺は土日が休みなんですが、夏果さん、土日にお休みってもらえるんですか?」
「私は大丈夫です。店長に早めに言えば」
「では……今週の日曜はいかがでしょう」
「わかりました。じゃあ、日曜日に」
「朝、迎えに行きますよ。道が混むのでちょっと早めに出発したいんですけど、大丈夫ですか?」
「もちろん。私は花屋ですよ? 朝の4時だって大丈夫です!」
「いや、さすがに4時は俺が寝てます」
そう言うと大槻さんは照れたように笑った。
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