【イベント】温泉リベンジ! の巻

◆1◆ プライベートで温泉に来た。

 窓を開けると、眼前に広がるのは御所湖である。風もなく、湖面は凪いでいて、山影がきれいに映っている。


 とうとう来てしまった……。


 と、しんと静まり返った部屋を見渡して思う。


 誰もいない。

 俺と――、


「おお、良い眺めだね」


 ――潤さんしか。


 窓の外の景色を堪能した潤さんは、ローテーブルの上にティーバッグと湯呑を置き、お茶の準備を始めた。


「俺がやりますから、潤さんは座っててください」


 ポットは保温になっているので後はお湯を注ぐだけだ。用意されている最中もなかを添えて潤さんの前に置く。彼女はとても嬉しそうに「ありがとう」と言ってそれに口をつけた。


「コーヒーも良いけど、こういうところではやっぱり緑茶だよねぇ」


 座椅子にもたれ、足を投げ出して座る潤さんは、ほぅ、と息を吐いてにこりとほほ笑んだ。その笑みにどきりとする。


 い、いや落ち着け。

 こんな光景いつも見ているじゃないか。

 俺が淹れたお茶を飲む潤さんなんて。

 そうだ、いつものことだ。

 私服姿だって何度も見てるし。

 そう、何も緊張することはないんだ。

 確かに今日はここに一泊だけれども、それでもお泊りだって何度もしてるじゃないか。


 ……ま、まぁまだはしてないんだけど。


『この旅行が終わったら、これ以上のこと、絶対しますから。いま宣言します。絶対しますから』


 そんなことをつい口走って。


 いや、もちろんそのつもりではあったのだ。その時は。

 いやいや、厳密にはいまだってそう思ってはいるけれども。


「……藍? どうした?」

「――いっ、いえ! 何でも!」

「そう? なら良いけど。とりあえず……夕食までどうする? お風呂行くかい?」


 そう言って、テーブルに手をつく。

 視線の先は予想していたよりもずっと小さい鞄だ。

 

 以前家族で温泉に行った時は、母さんも桃もかなりの大荷物だった。いや、母さんはまだわかる。化粧道具なんかもあるんだろうし。だけど、当時小学生だった桃ですらも一番でかいボストンバッグだった。あの中には一体何が入っていたのだろう。


 なのに。

 潤さんの鞄は小さい。

 ジムに行く時と何ら変わらない大きさである。ていうか、そもそもあれはジムに持っていっているバッグだし。

 絶対必要なのは替えの下着だが、これはそこまで嵩張らないにしても。

 翌日の着替えも、まぁ下はジーンズだから良いとして。上についても、薄手のものならきれいに畳めばそうスペースを取ることもないはずだ。


 が、女性の場合は化粧道具があるのだ。

 それに湯上りの母さんと桃はそれぞれ家で使っているシャンプーの香りがしたから、恐らくそういうのも持参していたはずだ。じゃなければあの大きさにはならない。別に良いじゃないか、一日くらい備え付けのやつでも、と思うのだが、年頃の女性はそうもいかないらしい。


 だから恐らく、その手のものは――少なくとも、シャンプー類は確実に入っていないと思われる。


 あと、たぶん桃のには、愛用しているドライヤーかヘアアイロンが入っていたはずだ。鞄がぶつかった時に何か硬いものが当たって痛かったのを覚えている。

 

「――藍?」

「――っ、はいっ!?」

「どうした、さっきから」

「何でもないです! ほんとに! 何も!」

「そう? なら良いけど」


 心配そうに俺の顔を覗き込んだ後で、潤さんは「あぁ」と膝を打った。潤さんはたまに自分達よりも年上の人がやりそうな動きをする。きっと家族のが移ったのだろう。お兄さんが3人もいるからな。


「藍、そういやここは貸し切りの露天があるんだ。入る? 一緒に」

「ええっ!!?? ――ったぁっ!!?」


 驚きのあまり腰が浮き、腿をテーブルにぶつける。


「ちょ、大丈夫?!」

「ぜ、全然大丈夫……です……。でも……その……一緒に入るのは……ええと、まだ明るいですし……」


 きっと夜に入ったってああいうところは照明があるに決まっているけど。だけど、こんな明るいうちに潤さんの裸を見るなんて恥ずかしすぎる。いくらタオルで隠れていても。


「明るい……? けど……? まぁ、確かに。それじゃとりあえず大浴場の方に行こうか。空いてればいつでも入れるみたいだし」

「そ、そうですね」


『この旅行が終わったら、これ以上のこと、絶対しますから。いま宣言します。絶対しますから』


 そうは言ったものの、いざとなると尻込みしてしまう。

 それには一応理由があったりする――のだが。


「え? あ? じゅ、潤さんっ?!」


 部屋の隅で、潤さんがシャツのボタンをひとつずつ外しているのが見えた。


「何してるんですかぁっ!?」

「何って……。浴衣に着替えるところだけど?」

「だったらそう言ってくださいよ。あの、俺、いま出ますから」

「何でさ」


 潤さんはきょとんとした顔をして首を傾げている。


「何でさって……むしろ何でですか?」


 確かに俺達は付き合っているけれども、だ。

 まだお互いの裸を――下着姿すら見ていないし見せていないのである。


「良いじゃないか、もうそろそろ」

「そ……そろそろ……」


 ボタンを4つほど外した潤さんが、ゆっくりとこちらに近付いて来る。

 普段はせいぜい2つだから、さすがにそこまで外せばキャミソールの肩紐まで見えてしまう。

 リボンやレースなどの装飾がない、シンプルなネイビーのキャミソールである。白やピンクじゃないところが何とも潤さんらしい。


「私は今夜こそ藍の全部を見せてもらう気でいるけど」

「えっ」

「藍はどうなんだ?」


 と、潤さんの腕が伸びてくる。

 その手首を捕まえて引き寄せると、彼女は、ぽすん、と俺の胸の中に飛び込んできた。


「俺だって、それは……」

「私の全部を見たくはないか?」


 み、見たい! けど……。


「あ、あの……もちろん、そのつもりで来てます。俺だって。でも、あの……ひとつお願いがあるというか……」


 を知られてしまったら。

 きっと潤さんだって――。


「お願い? 何?」


 俺を怖がるに違いない。

 だから。


「あの……、明かりは消してもらえますか」

「は? 明かり?」

「はい」


 そうだ。

 真っ暗だったらきっとバレない。


「藍は恥ずかしがりなんだな。ちょっと残念だけど、良いよ」


 そう言って、潤さんは、ははは、と笑った。


 そりゃ俺だって残念ではありますけど。



  

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