第53話 沼法師 ①
戦火から逃げ出した先は、山奥の深い沼だった。
ほとりに佇んでいた僧に食べ物を恵んでもらい、ずっと隠れすんでいる。
侍や人買いを恐れ、父母にも会えず、先の暮らしが見えない中で、僧と会えるのが楽しみだった。
夜の寒さも、切なくなるほどのひもじさも、語らいの時を思えば、耐えられよう。
それなのに、どこで間違ったのか。
うめき声が響く。なんて忌々しい。胸の奥がざりざりと掻き立てられ、たまらず火を吐いた。
「大事なものを取り返してほしい」
頼られて嬉しかった。
一度村に戻ると僧に話した。侍に荒らされても、ほとぼりが冷めたら村に戻るはずだ。
去り際の頼みごとに、ろくに考えもせず、祠から玉を持ち出した。
他村のご神体に手をつける。役に立ちたい一心で、鈍った頭では考えが及ばない。
火は、亡者たちを一瞬で灰にした。しかし、積み上がった泥から、亡者たちはよみがえる。
私は捕らえられた。尋問の痛みに耐えかねて、旅の僧に頼まれたと話しても、嘘だと叩かれる。
土は乾き、作物は枯れていた。
雨乞いの贄のため、死にかけの私は沼に沈められた。牛馬は、最後に村人たちが食べるからだ。
それからどうなったか、よく思い出せない。
頭がはち切れそうなほどの息苦しさ、手足に擦れる縄の荒さ、無情な大石の重さだけ覚えている。
次に目覚めた時には、見渡す限り真っ暗だった。
星もない夜の森のようで、妙な浮遊感。
苦しさもなく、痛みもなく、自分しかいない闇。
沼に沈められたのに、なぜ私は生きているのか――本当は死んでいるのに、気づかずに沼の底をさまよっているのだろうか。
頭をかきむしる。口寂しくて、何度か唾液を飲み込んだ。心細くて、薄暗い中に腕を伸ばす。
「目覚めたか」
腕をつかんだのは、誰だ。
「まだ馴染んでいない。沼の外に出るには早い」
闇に、ぼうっと光る赤い点がひとつある。
「なじむって、なに?」
闇の奥で、誰かがひっそりと笑う気配がした。
すると、足元に何かが触れた。びくりとして足をひっこめる。それは、爪先から頭まで巻きついて、全身を締め付けた。
「春だ。もう一回り、春が巡れば馴染む。今度は、もっと長く――」
懐かしむ声は聞き取れなかった。
急激な眠気が襲う。怖がる私の頬を撫でる手があった。
とても優しい手付きだ。つるりとして、多少でこぼこしていて、爪が鋭く尖っている。
私の腕もつるりとして、でこぼこしていて、多分、爪がずいぶん尖ってしまったような――
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