王者の剣

 コロシアムは、静まり返っていた。

 声を上げる事なく、息を呑み戦場を見詰める観衆の視線の先―――

 ―――そこには、ボロボロの甲冑の騎士の姿がある。


 だんだん、だんだんと強化されていくゲオルグ――それを前に、ウェインが対処しきれなくなって来たのだ。


 ウェインの甲冑は、そこら中が歪み、へこんでいる。

 甲冑を着ているからこそまだ立ってはいるが……その奥の身体はあざだらけだ。


 対して、ゲオルグの身は一切傷を負っていない。

 何度かウェインは剣を当てている。そのむき出しのたるんだ顔に。


 けれど……いくら打ち込もうとも、固い感触を覚えるばかりで、一切傷を与えられないのだ。


「まだ立つのか……無駄だと言うのに!ハハハハハッ!」


 高々と嗤うゲオルグ――嗤いながら雑に振るわれるその剣を、しかしウェインは受けきれない。


 辛うじて盾を挟むがいなし切れず、盾事ウェインの身体は浮き……その間に、ゲオルグの次の剣閃がウェインを襲う。

 甲冑を纏おうとも耐え難い衝撃……


「……ッ、」


 ウェインは歯を食いしばり、耐えた。

 だが、反撃に移ることは出来ない……。


「まだなのか?……諦めたらどうだ?無駄な努力など……」


 ゲオルグはそう声を投げる。

 ウェインの身を案じているのではない。単純に、飽きているのだ。


 恐らく、ゲオルグがこれまで相対した中で、ウェインが最も長く食い下がり続けているだろう。

 それ程までに、優勝に掛ける想いが強いという事でもある。


 そして、同時に、ウェインの中で……耐えれば耐える程、憤りが強くなって行く。

 師の持っている王座を侮辱されている憤り。

 無駄な努力と、再三嘲られる憤り。

 そして何より、そんな状況を許してしまっている自分への憤り。


 だから、ウェインは、身体中痛かろうと立ち続けていた。

 例え、勝ちの目がもうなかろうと。


 僅かにふらつきながら、ゲオルグを睨み続けるウェイン――と、不意に、ゲオルグが奇声を上げた。


「ぬ……が、………」


 声と共に、ゲオルグはふらつく……纏っている金色の鎧が、まるで液体のように……あるいは生命のようにブクブクと泡立ち……その泡立ちは、たるんだゲオルグの顔自体にまでも伝播していく……。


「……なんだ、これは……おい、……悪魔!」


 苛立つような声を上げ、目を血走らせ、ゲオルグはブクブクと泡立ち、膨らんでいく自身の頭部を抑えた。


 呆然と眺めるウェインにも、あるいは見守っている観衆達にも、何が起きているのか理解出来ない。


 悪魔が消滅した事により、ゲオルグに付与されていた魔術が制御を失ったのだ。


 黒い液体が垂れる。金色の甲冑から、あるいはゲオルグの頭部から、黒い泥のようなモノが溢れ、ゲオルグの身体を呑み込んでいく……。


「ふざけるな……ふざけるな……ふざけるなァ!」


 濁った声を上げるゲオルグ―――その声に呼応する様に、その身を呑み込みつつある黒い液体が、ドクンと脈打った。


 制御を失ったはずのそれが、再び、形を持とうとし始める――。

 ゲオルグ・フォン・ヴォルゼンブルグ。


 名家に生まれ、自意識は肥大し、だがその自己認識に釣り合う才能は一つたりとも持ち合わせていなかった男。


 ただ、その傲慢さ――歪み切った強烈な自意識、自己の認識が絶対に正しいと言う強烈な思い込みがあるが故か、ゲオルグには一つだけ才能があった。


 魔術――それを制御する才能。


 悪魔は、ゲオルグが自身で呼び出したモノ。本で見た陣を雑に描き、適当に詠唱し、それでも現れた碌な自我も正体もない漠然とした力(・)に、悪魔と言う形を与え……それを悪魔と、制御出来る形にしたのは、紛れもなくゲオルグ自身の傲慢さだ。


「……僕は……貴族だぞ……僕の、僕の邪魔をするなァァァ!」


 咆哮を上げるゲオルグ――その身を呑み込む黒い液体が、また、形を帯び始める。


 ドクン……脈打つごとにそれは固まり、ゲオルグの身体を覆い……それは甲冑の様に、硬度を得る。


 金色の装甲、木でできているはずの模造剣……ゲオルグ自身。

 全てを覆い隠し、ドクンと脈打つ黒い液体は、形を得ようとし始めている。


 その光景を前に………ウェインは我に返った。


 眺めている場合ではない。どういう理由かわからないが、ゲオルグは隙を晒している。


 魔術――何かしらの不正をしている事は元々知っていた。今更、気圧されては行けない―。

 自身にそう言い聞かせ…ウェインは地を蹴った。


 痛む身体に鞭を打ち、全力で駆け抜け――ウェインは、横薙ぎの一閃をゲオルグの頭へと叩き込む。


 だが、……鳴り響いたのは、ガン、と言う酷く固い音。

 脈打つ液体……それは、確かな形を得ていた。


 黒い甲冑だ。

 まがまがしく鋭利、悪魔そのものを纏ったかのような形状。兜には捻じ曲がる角があり、装甲には血管のように脈打つ複雑な紋章が走り、胸の一点、心臓のように脈打つ黒い鉱石へと集束している――。


「…………く、」


 僅かに気圧され、一歩身を退いたウェイン――その瞬間、甲冑の奥のゲオルグの目が、ウェインを見た。

 咄嗟に、ウェインは盾を上げる――。


 直後、重い衝撃がウェインの盾を、腕を襲った。


 ゲオルグの一閃だ。依然技などあろうはずもなく、だがそれでもこれまでウェインが受けて来たどの剣よりも重く、速い一閃。


 よろめいたウェインの視界に、黒い影が奔る――。


 連撃だ。技があるわけでもなく、ただ腕で振るっているだけ――だと言うのに間断なく襲い来るゲオルグの二撃目。


 盾が間に合わない――そう判断して、自身の頭部を襲う黒い一閃に、ウェインは模造剣を差し込む――。

 だが、ゲオルグの一閃をそれで防ぐ事は不可能だった。


 ゲオルグが持っていたのも、ウェインと同じ模造剣―――そのはずだった。


 けれど、黒い液体に呑まれ、ゲオルグと同じように肥大し、甲冑と同じように硬化した脈打つ黒いそれは、もはや実剣と何ら変わりない。


 黒く脈打つ巨大なバスターソード。それを軽々と片手で、ゲオルグは振り回す。


 ウェインの剣がへし折れる――それだけでゲオルグの一閃は止まらず――。

 ガリ―――ウェインの耳元で聞こえたのは、兜がへし折れ、砕けた音。

 その威力に、ウェインの身体は吹き飛ばされた。


 甲冑もろとも吹き飛ばされ、地に伏せるウェイン。

 その姿を眺め、ゲオルグは嗤う。


「フ、フフフフ……ハハハハハハ!……なんだ、これは?」


 ゲオルグは自身の身に何が起きたか理解していない。


 ただ、口うるさい悪魔の声が消え、代わりに甲冑が身に纏われ……かつてない程の力が自身に宿っている。


「……まあ、良い。良い気分だ!ハハハハハハハッ!」


 ゲオルグは、嗤い続ける。


『……あ、あれ……魔術じゃ……』


 息を呑み、ただ、見守っていた実況はそこで漸く声を上げる。

 ああもあからさまに見た目が変われば、不正は疑いようがない。


 止めるべきか。いや、そもそも言ってゲオルグが止まるのか………。

 委縮し、助けを求めるように視線をさ迷わせ、実況は止められそうな存在を発見する。


 外套を纏う骸骨――グリムリ―パーは戦場の上に漂っていた。

 いつものようにカラカラ嗤う事もなく、だが手を下そうともせず、グリムリーパーは戦場を見下りしている―。


 嗤うゲオルグを。

 そして……まだ立とうとするウェインを。



「う……く……」


 呻きながら、ウェインは地面に手を付き、身を起こしていく。


 頭はぼんやりしている……兜が歪み、視界もまた歪んでしまっている。

 起き上がろうとするウェインに、ゲオルグは嘲笑を投げた。


「なんだ?まだ立つのか?…ご苦労な事だな、凡人の無駄な努力は!」


 ……無駄な努力。確かにそうかもしれない。

 手に持った模造剣は折れてしまった。勝ちの目はもうないだろう。


 いや、それ以前に……恐らく、次の一撃を受ければ、ウェインは死ぬ。

 さっきのゲオルグの剣――一撃目よりも二撃目の方が、重く速かった。


 様相は変わっても、元の性質は変わらないのだろう。

 相手が耐えきれなくなるまで強くなって行く……きっと、ゲオルグの使っている魔術はそういうものだ。


 あれよりさらに速く重くなったら…このボロボロの甲冑ごと、ウェインは両断されかねない。

 だが……ウェインは勝とうとしていた。


「頑張ればすべて上手く行くのか?そんなはずないだろう、勝つ奴は最初から決まってるんだよ!才能だよ……僕は貴族だからな!ハハハハハハ!」


 ウェインは立ち上がる、歪んだ視界で、嗤うゲオルグを睨む。


 努力は全て無駄。

 勝つ奴は最初から決まっている。

 ある意味、ゲオルグの言葉は正しいのかもしれない。

 才能がすべて―と。


 だが、……才能があろうと、努力なしで強くなれるはずがない。努力含めて才能だ、……ウェインはそう思う。


 努力せず得た勝利に意味はなく……まして不正の末の王者など、それに負けるなど……ウェインは納得できない。


 朦朧とし、息苦しく……憤りと信念を胸に。

 ウェインは、兜を外した。


 風が顔に直接あたり、汗は冷たく…ウェインの視界が広がる。

 息を呑み見詰めていた客席に、僅かにざわめきが走った。


 観客は、ウェインの顔を知っていたのだ。

 前に人前で緊張していた、赤いドレスの少女――こめかみから血を流しながら、それでも眼光鋭く王者に挑もうとする者……死神に見初められた少女がそこに居ると。


「ん?……なんだ、お前女か?」


 ゲオルグが品のない声を漏らす――甲冑の奥にある濁った瞳は、きっと嗤っているのだろう。


 かつて、小さな大会に出た時に、ウェインを貫いたモノと同じ、あるいはそれより一段品のない目。


 それをウェインは、鋭く睨み返し……今度は、甲冑の留め具に手を掛ける。

 どうせゲオルグの剣は耐えきれない。なら、甲冑を着ていてもそれはただの重しにしかならない。


 ガシャン――重い甲冑が地面に落ちた。


「なんだ?ストリップか?ハハハハハ、いいぞ、もっとやれ!」


 慢心、余裕、傲慢さ……嗤い続けるゲオルグを、ウェインは冷たく睨み続けた。

 胸中に湧き上がるのは、憤りだ。


 ……これが王者なのかと。こんなものに、王者を名乗らせてしまっているのかと。


 ウェインに、才能はない。女である時点で力負けは必至で、器用でもなく、技を覚えるのに時間が掛かる。


 だが、ウェインが教えを求めた相手も、それは同じではないか。


 アイシャは女だ。美人だ。器用さは生まれ持っていたのかもしれない。才能はあるのかもしれない。けれど……アイシャが一切努力をしなかったとは思えない。突きにしろと、力に頼るなと言いだしたのは、同じ壁に昔ぶつかった事があるからだろう。


 宵虎は剛腕だ。ただ、誰がどう見ても器用には見えない。あの強さを得るまでに相当の努力を積んでいるはずだ。型稽古にこだわったのは、その地道な歩みが唯一の道だと、宵虎自身が痛感してきたからではないのか。


 勝つ奴は最初から決まっている。……そうかもしれない。

 だが、断じてそれは、ゲオルグではない。ゲオルグであるべきではない。


 ウェインは、歩む。

 足甲、手甲はそのままに、胴は汗で張り付く飾り気のないシャツ。傷を負った顔を晒し……けれど堂々と、背筋を伸ばし、ウェインは戦場の中央に立つ。


「ウェイン!返すにゃ!」


 ネロの声が届く――その声に、ウェインは頭上に手を伸ばし……掴み取った。


 預けていたモノ。装飾を――紋章を帯びた剣。

 師の、形見。


 ウェインの手に渡った途端、その紋章が僅かに輝きを帯びる―。

 ウェインは剣を抜く――刃にまで紋章が奔り、輝く……この場の、この戦場の王者であるべき、流麗にして華麗な剣。


 鞘を捨て――ウェインはゲオルグを睨み、構えた。


 盾を前に。

 剣を後ろに。

 師に手ほどきを受け、永遠磨き……そして、自身に合うようにこの大会で少し変えたその技の構え。


 努力は全て無駄。……勝つことを目的にしている以上、結果を出せなければそれは真理だ。


 ウェイン自身の徒労なら、いくらでも我慢できる。どうとでも納得できる。

 だが、この場にいるウェインの努力は、いろいろな人を巻き込んだそれ。


 その全てが無駄になってしまうなど、……ウェインには我慢できない。

 だからこそ……ウェインは、言い放つ。


「……私は、勝つことにしました。王者よ、どうかご覚悟を」

「は?勝つ?ハハハハ……僕に勝つ?ハハハハハハハハッ!」


 腹を抱え、嘲笑を上げ……その末に、ゲオルグはピタリと沈んだ。


「…無礼モノが!」


 咆哮を上げ、ウェインを睨むゲオルグ―。

 ――そこへと、正面から、ウェインは駆ける。


 盾を前に、剣を身体の影に――けれど隠しきれない程の閃光を剣から放ちながら。


 それが紋章魔術だと、ウェインは知らない。

 師がそれを使っていた場面を見た事もない。


 ただそれは、確かに受け継いだ、この場に輝く王座の証。


「退かず、怯まず、……ただ、実直に、ただ前へ……」


 呟いているそれが言霊だと……、言霊に変わっていると、ウェインは自覚しない。

 ただその言葉が、……今のウェインの全て。


「潰れろ!愚民!」


 鋭く肉薄するウェインへと、声と共にゲオルグはバスターソードを振り下ろす。

 黒く強大な暴力が、頭上から振り下ろされる―。


 剛腕とは、この所毎日立ち会っている。怯んだらそれで終わりだと、ウェインはもう学んでいる。

 一歩も怯まず、依然突き進みながら、ウェインはバスターソードへと盾を突き出した。


 駆ける勢い。身体の捻り――角度のついた装甲で、ウェインはその剛剣を迎え撃つ。


 全うにやれば、その力を前に、ウェインは叩き潰される他になかっただろう。

 それがわかった上で、尚突き進むウェイン。


 盾と当たる直前――バスターソードが僅かに反れた。完全にではない。ただ、ほんの僅か、不可視の矢が、黒い大剣の威力、その方向を制御する――。


 カン――高い音が鳴る。


 盾と大剣が思い切りぶつかったとは思えない程、軽く高い音――

 ――その音ともに、大剣はいなされ、空振りつんのめるように、ゲオルグは体勢を崩し、無防備になる。


 どこでも狙える――そんな中で、ウェインが狙うのは、ゲオルグの甲冑の中心。


 脈打つ血管の様な紋章……その中心にある、悪魔の心臓――。

 そこで、ウェインは声を聞いた気がした。


 もう二度と聞くはずのない、師の声。

 その言葉を迷いなく、ウェインはなぞり、呟く。


「……レイ・ロード・クラウン」


 声と共に繰り出される、必殺の二撃目。

 師を真似―――そして改良したウェインの技。


 曲がる事を、反れる事を知らない神速の突き―――閃光の尾を引き、繰り出される王者の剣。


 その銀色の閃光が、ゲオルグを―――悪魔の心臓を貫く。


 ガン――必殺の刺突が突き刺さり……悪魔の心臓はひび割れ、砕け散った。

 直後、ゲオルグの身を纏う黒い甲冑が、ブクブクと震え出す。


「な、ぐ……あああああああああああ!?」


 絶叫を上げ、ゲオルグは数歩、後ずさり………やがて、仰向けに倒れた。

 その身に纏う黒い甲冑が溶けていき、液体となり……やがて、消える。


 残ったのは、戦場の中心で白目を剥いて倒れる、ただの太った男。


 コロシアムは静寂に呑まれたままだ。


 フラフラのウェインは、その差中で、ぼんやりと思い出す。


 かつて見た、師の晴れ姿。

 流麗にして華麗な王者の姿。


 ……純粋に憧れたその姿を。


 その光景に、自分はそぐわないかもしれない。ウェインは、流麗でも華麗でもない。

 だとしても……許されるのならば。


 背筋を伸ばし、一人戦場に立ち続け―――

 ―――ウェインは、頭上へまっすぐと、剣を掲げ上げた。



 次の瞬間、客席が湧き上がる。

 熱気を帯びた歓声の差中…………この日、新たな王者がこのコロシアムに誕生した。


 *


 堂々と剣を掲げ上げる、新たな王者。

 大歓声にまるで怯む様子のないその姿を屋根の上から眺めて……アイシャは、弓を下ろした。


「……余計だったかな」


 やばくなれば助けよう。ゲオルグを気絶させるにせよ、あるいはウェインを場外に吹き飛ばすにせよ、どんな手段をとるのであれ。


 あからさまな命の危険があったら手を下そうとそう決めて、アイシャは屋根の上に潜んでいたのだ。


 事実、何度も、アイシャは手を出し掛けた。

 だがその度にウェインが立ち上がり、……まるで諦める様子を見せず、立ち向かい続けていたために、遂に最後の最後の一瞬まで、アイシャは手を下さなかったのだ。


 手助けは一度だけ。ゲオルグの剣を少し逸らした一回だけだ。

 あるいは、それすらもする必要もなかったのかもしれない。


 ウェインは、結局最後まで折れる事なく、立ち向かい続け、勝ち切ったのだから。


「……カッコ良いじゃん」


 微笑みと共にそう呟いて、アイシャはウェインを眺めた。

 堂々とした王者の姿を。


 もう、上がり症とか、自信が無いとか、そんな事は言いださないだろう。

 とりあえず、余計な水を差す事もないし、ちょっと手を出した事は黙っておこう。


 そんな事を思いながらアイシャは立ち上がり、うんと伸びをし……そこで、気付いた。


 異国の装束を身に纏った大男が、コロシアムへと歩んで来ている事に。

 ……あっちはあっちで、野暮用を済ませて来たようだ。


 小さく微笑み、それから……アイシャは躊躇なく屋根から飛び降りた。



 *



 閑散としたマーカスの街を、宵虎は腕を組んで歩んでいた。


 用事を済ませた以上、晴れの舞台を覗きに行くつもりだったのだが……こんな場所まで大歓声が響いている以上、どうもその催しは、もう終わってしまったらしい。


「フ…………」


 笑みと共に、遅れようとも向かおうかと歩く宵虎――不意に、その身に影がさした。


「おに~さ~ん!」


 そんな声と影に視線を上げてみると………空からアイシャが降って来た。

 受け止めるべきか、と若干身構えた宵虎の頭上で、不意に、アイシャの身体はふわりと止まる。


 そして、アイシャは猫の様にしなやかに、宵虎の前に着地する。


 受け止めるまでもなかったようだ……そう僅かに笑い、また腕を組んだ宵虎に、アイシャは微笑みと共に声を投げた。


「ねえ、お兄さん。何してたの?」


 そのアイシャの問いは、宵虎には通じない。が……


「野暮用だ」


 そう答え、宵虎はコロシアムへと、また歩み出す。

 そんな宵虎へと、アイシャは僅かに首を傾げた。


「……何言ったのかな?多くを語らず……みたいな?それはそれでカッコ良いじゃん。ねえ、ガン無視してデートしてた事にとかしてみる?」


 そんな冗談を口にしながら、アイシャは宵虎の腕に飛びついた。

 直後、……アイシャは顔をしかめる。

 妙に生暖かい液体がアイシャの腕についたのだ。


 血……他に見間違えようも無いそれが、宵虎に飛びついたアイシャの腕についている。


「……また怪我してる。ねえ、なんで痛そうな顔しないの?」


 若干怒った様子で、アイシャは宵虎を見上げた。

 宵虎もまたアイシャを見下ろし、首を傾げた。


「なんだろう?じゃないよ……」


 そうなだれたアイシャに、宵虎はまた、首を傾げ……変わらずコロシアムへと向かおうとした。

 が、そんな宵虎の身体がつんのめる。


 アイシャが進もうとしなかったのだ。寧ろ、アイシャはコロシアムへとは逆に方向に宵虎を連れていこうとしている。


「駄目だよ、お兄さん。手当が先。一回宿戻ろう?心配かけない様にってしたんでしょ?カッコつけるならカッコつけきる!」


 そのアイシャの言葉はやはり宵虎にはわからない。

 が、とりあえずアイシャは怒っているようだ……。


 手を伸ばし掛けた宵虎を怒ったように睨み上げ、アイシャはピシャリと言った。


「撫でない!」

「…………はい」


 何を言われたかはわからないが、……威圧感を前に手を止め、そう唸った宵虎。

 そんな宵虎を、アイシャは宿へと引っ張って行く。


 引っ張られながら、宵虎はコロシアムを眺めた。

 大歓声、熱気はまだ響いてきている――。


「……結果は?ウェインは勝ったか?」


 低い声でそう尋ねた宵虎。

 アイシャに聞き取れたのは、ウェインと言う単語だけ。

 だが、それだけでも、何が聞きたいかは理解出来た。


 アイシャも宵虎も、同じ事を気にして、野暮用をこなしていたのだから、気にする事は一つだろう。

 晴れやかな微笑みと共に、アイシャは応える。


「あんなに盛り上がってるんだよ?」


 その声もやはり宵虎にはわからない。が、アイシャは何の陰りもなく微笑んでいる。

 ならば……。


「……聞くまでもないか」


 そう唸り、笑い……宵虎はアイシャに引きずられて行った。




 こうして、メメント・モリ剣術大会は、熱気の中幕を閉じた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます