峡路の戦い


「それ威張って言う事じゃないにゃ!」


 谷の底、人一人分程度の足場しかない川の辺の道……そこを歩んで居る途中で、いきなりネロはそう叫んだ。


「……いきなりどうしたの、ネロ?」

「にゃ……なんか急に言わなきゃいけない気がしたにゃ。神のお告げにゃ」

「ふうん。変な猫。…あ、元からか」

「なんか、アイシャにそれ言われるのすごく納得いかにゃあああああ!?」


 ネロは悲鳴を上げた。

 ネロの目の前をアイシャが思い切り踏んづけたからである。

 また口が過ぎたか……戦々恐々アイシャを見上げたネロ。


 だが、アイシャはネロの方を見てはいなかった。その手は弓へと延び、目は警戒するように細められ、行く先を睨みつけている。


 同じ方向を見たネロ……その先に、いつの間にやら人影が現れていた。


 くたびれたような、赤茶色のローブに身を包んだ何者か。その顔はフードに隠れて見えず、男か女かすらも定かではない。

 ただ、敵だという事はわかる。敵でないなら、こうも殺気をぶつけられるはずもなく――その手に武器を構えているはずもない。


 ローブに素性を隠した何者か――その手にあるのは、槍だ。

 オーランドの持っていたそれとは形が違う。巨大で分厚い片刃の剣、その柄をひたすら伸ばしたような、薙刀のような槍だ。


 その切っ先はゆるりと持ち上がり……まっすぐとアイシャへと向けられる。


「ヒッポグリフ、かにゃ?」


 ついさっき聞いた忠告を思い出し、そう呟いたネロに、弓を構えながらアイシャは答える。


「多分ね。……下がってて、ネロ」

「勿論だにゃ。アイシャ~応援してるにゃ~」


 どこか気の抜けることを言いながら、ネロは下がっていく―そちらに視線を向けることもなく、アイシャはただ目の前のローブの何者か――ヒッポグリフを睨んだ。


 ただ、頭にあるのは、この戦闘にはあまり関係の無い疑いだ。


「……タイミング良すぎる気がするんだよね~。ああいう人のタダは怖いし」


 忠告を受けた。ヒッポグリフに気を付けろと。


 …あれだけ金に執着しているオーランドが、見返りもなくそんな忠告をするのか。

 それが気がかりなのだ。何かしら裏があるのではないか―アイシャの脳裏にはそんな疑問が浮かんでいた。


「邪魔するなって、お金渡しとけば良かったのかな?」


 そんな風に呟いてみたアイシャの前で、ヒッポグリフは動いた。


 槍を振りかざし、静かな、だが素早い足取りで、ヒッポグリフはアイシャへと突っ込んで来る――


 ――直後、アイシャは不可視の矢を放つ。

 言霊もない完全な牽制――それで十分だとアイシャは思っていた。


 通路は人一人分、横にかわすのは不可能だろう。弓と槍では間合いに差がある、飛び込まれなければ圧倒的にアイシャが有利。あまり本気でやりすぎて、しまうのは嫌だ。


 少し脅し、少し痛めつけ、逃げてくれればそれで良い。

 アイシャは、この場所の事情にも、そこにある思惑にも首を突っ込む気は無いのだ。


 ヒッポグリフは飛び上がった―――この地形で不可視の矢をかわすには、しゃがむか跳ねるかのどちらかしか無いのだ。


 そして、どちらに避けるにせよ――ヒッポグリフにはもう、選択肢がない。

 しゃがんだ次は起きるしかなく、跳ねてしまえば一瞬であれ空中で身動きできない時間が生まれる――。


 アイシャには、その一瞬で十分だ。


「ラピット・ブロウ」


 今度は言霊も混ぜて、アイシャは跳ねたヒッポグリフへと矢を放つ。


 不可視の矢は避けるすべを持たないヒッポグリフへと吸い込まれていき――その体を貫いた。


「え?嘘だ……」


 加減をミスっただろうか。貫通させる気などさらさらない、威力を抑えた一矢だったはず。


 驚きに見上げるアイシャの視線の先で、不意に、撃ち抜かれたヒッポグリフの身体が消えた。


 ――そして、次の瞬間、ヒッポグリフはアイシャの目の前に現れる。

 その距離は一歩程度――ヒッポグリフは、既にその手の槍を振り上げている。


「―――うわっ、」


 アイシャは背後へと跳んだ――細い道の上、一閃をかわすすべは他にない。


 鼻先を刃が掠めていき、前髪が僅かに切り取られる―。

 振り下ろされた槍は、しかし地面に触れる前に止まり、その刃が返された。


(やば……)


 細い通路の上、横に退路は無い。あるいはその狭さに翻弄される相手ならばアイシャにはなんの問題もないが、ヒッポグリフの動きは、明らかにこの細さに慣れている。


 長柄の武器――壁のそばでは邪魔になるはずのそれをヒッポグリフは自在に扱っていた。


 ヒッポグリフは踏み込み、その間合いにアイシャを捉え、槍を振り上げる―。


 背後に跳んでは避け切れない――そう判断したアイシャは、躊躇なく真横、川へと跳ねた。


 槍は空を裂き、アイシャの身体は川の上――そこで器用に身を捻り、弓を引く。……対岸へと向けて。


「ラピット・バースト!」


 声と共に放たれた矢は、アイシャの真横でその形を失い、炸裂し、アイシャの身を吹き飛ばした。


 跳んだ先は元の足場――最も、その勢いを制御できず、ほとんど壁にぶつかるような形だったが、それでもアイシャは足場へと戻った。


「…………ッ、」


 壁に激突した衝撃で僅かに呻きながらも、それでもアイシャは間を置かず次の行動に入る。


 弓を引く―――とにかく、一旦間合いを離さなければ、アイシャは防戦一方だ。

 狙うはヒッポグリフとアイシャの中間。


 アイシャの動きに驚いてか止まっているその足元へ、アイシャは再び矢を放った。


「ラピット・バースト!」


 再度、放たれた直後に炸裂する凝集された暴風――それが、アイシャを、ヒッポグリフを、周辺にいた者をまとめて吹き飛ばす。


「…………ッ、」

「にゃあああああああ!?」


 飛ばされたアイシャは空中でまた器用に身を捻り、背後の足場へと着地する――と同時に、膝を折って呻いた。


「痛…………」


 壁にぶつかった時に、足をくじいたかもしれない。

 顔をしかめ掛け、だがすぐにその表情を消して、アイシャは正面を睨む。


 怪我をしたと悟られる訳にはいかない――ヒッポグリフは、まだ逃げてはいないのだ。


 槍を壁に突き立てたのだろうか――元の位置からさほどずれてもいないその場所で、ヒッポグリフは再び槍を構えていた。


 とにかく、間合いは取った。足を怪我しているとしても、近付かせさえしなければアイシャが有利。


 仕切り直しだ―――今度は、もうちょっと本気でやろう。

 そう、再び弓を構えたアイシャの耳に、何やら悲鳴が聞こえて来る。


「なんでこうなるのかにゃぁぁぁぁぁぁ!?」


 視界の隅で……川に落ちたネコが、流されていた。


 ……下がれと言われて、ネロは下がった。

 接近されて、アイシャも下がった。横に飛び、吹き飛んで戻り、間を取るために炸裂矢を放ったその場所は、丁度ネロが下がっていた辺り。

 要するに……。


「………あ。ごめん、ネロ」

「やっぱりついてくるんじゃなかったにゃぁぁぁぁぁ……」


 その声が遠ざかって行く。

 どうやら、ネロも探さなければならなくなったらしい。


 だが、それは後だ。

 依然、目の前にいるヒッポグリフをどうにかした、その後……。


 警戒を続けるアイシャ―――その眼前で、不意にヒッポグリフの姿が消えた。


 目が追い付かないほど素早く動いた―――訳ではないのだろう。

 アイシャに完全に追い切れない速さで動く奴がいる訳もないし、そこまで速く動けるならば、さっきの攻防でアイシャは負けていたはずだ。

 だとするならば、別か……。


 思い出すのは、攻防の始め。

 空中のヒッポグリフを射貫いた――吹き飛ばすだけのはずだったのが、射貫いてしまったのだ。

 そしてその体も消え、気付くとヒッポグリフは目の前。


 瞬間移動か……あるいは幻覚か。

 射貫いた様を見た以上、幻覚の方が可能性は高そうだ。どちらであれ始末が悪いが……。


 アイシャは依然油断せず、耳を済ます。

 幻覚ならば、目はあてに出来ないだろうと。


 そうして、アイシャはしばらく警戒し…………だが、ヒッポグリフはいつまで経っても現れなかった。


「……もしかして、逃げた?」


 呟いて、アイシャは弓を下ろしてみた―――弦は引いたままに。

 警戒を解いたと見せたのだ。隙を狙っているなら、このタイミングで襲って来るだろうと。


 だが、それもない。

 足音も、衣擦れも息遣いも聞こえはしない。


 ヒッポグリフは、本当に立ち去ったらしい。


「……なんなの?もう…………」


 釈然としない。

 襲われる理由が分からないし、退いた理由もわからない。


 ネロとははぐれたし、宵虎とは会えないし、足は痛いし…………。


「もう!」


 ぶつける先がいなくなった苛立ちのまま、アイシャは頭上へと弓を放った。

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