谷の底の少女


 深い、深い谷の底……日が出ている内であろうとどこか薄暗いそこには、並々流れる川があり、その脇の岩肌には人の手で掘られ、ならされた道がある。


 そこを、小さな人影は歩んでいた。


 身を包むのは、フードのついた茶色いローブ。肌はこの日を嫌うような渓谷で過ごしてきた為に酷く白く、短く切り揃えられた髪は少し焦げた様な茶色。丸く大きな目は灰色。


 子供である。10を僅かに超えた程度の少女が一人、散歩でもするような暢気さで道を歩いている――その手に、抜き身の太刀を持ち、それをざりざりと引きずりながら。


 少女の名はヒルデ。この谷の底に住む一族の一人であり、何か面白いモノでも落ちて来ないかと散歩していた所に、突き刺さっている太刀を発見したのである。


 ヒルデには収集癖がある。日々見るのは見慣れた岩肌ばかり……別に興味がない物でも、珍しければとりあえず拾ってみるのだ。


 と言う訳で、なんか珍しい剣……と、太刀を拾ってヒルデはまた散歩を続けていた。


 と、不意に、ぼちゃーんと、ヒルデの真横で、大きな水柱が立った。


「……?なんだろう」


 何かが落ちてきたらしいと、揺れる水面を眺めたままに、ヒルデはどこかぼんやりと首を傾げた。


 落ちてきたのは、そこそこ大きな物のようだ……と、水面を注視するヒルデの目の前。すぐ足元の水面から、不意に人の手が飛び出て、がしりと岩肌を掴んだ。

 そして直後、その手の主が水面から顔を出す。


 ヒルデからして見慣れない装束……和装の大男が道に縁へとしがみつき、苦々し気な顔で呟く。


「……落ちるとはな。いや、太刀を拾いに来ただけの事…」


 そう和装の男―宵虎は呟いていたが、毎度の事、その言葉はヒルデには一切理解出来ない。


 ただ、ヒルデは足元の宵虎をどこかぼんやりと眺め、それから今度は空の上を眺め、こう呟く。


「剣の次は、おじさん?変な天気……」


 あるいは、その呟きが聞こえたからか―そこで、宵虎の方もヒルデの存在に気付いたらしい。


 宵虎は川から上がり、びしょ濡れである事を構いもせずに、憮然としたままにヒルデを見下ろした。


「…………」

「…………」


 お互いどこかぼんやりとした様子で観察しあった末に、宵虎はヒルデの手に太刀がある事に気付いたらしい。


「む?それは、俺の太刀。拾ってくれたのか?ありがとう、小娘」


 その宵虎の言葉に、ヒルデは首を傾げた。


「何?何語?」


 そうヒルデは呟き、だが、やはり当然その言葉は宵虎には理解出来ず、そもそもあまり理解する気もなかった。


「太刀を返してくれ」


 宵虎はそう言って、ヒルデへと手を差し出した。


 ヒルデはその手をぼんやりとみて、次に宵虎の顔を見て、また手を見て…やがて、宵虎の手を握る。


 握手かな……と、ヒルデは思ったのだ。


「こうかな?……よろしく」

「うむ。…………そうではないんだが、」


 唸るような声と共に宵虎が顔をしかめたために、どうも握手では無かったらしいとヒルデは手を引っ込めた。


 けれど、意図が通じていない事に変わりはない。


「何がしたい?」

「どうすれば伝わる……」


 二人、首をひねり合い……やがて、思いついたのは宵虎だ。


 宵虎の腰には鞘がある。当然、ヒルデの持つ太刀とぴったり合うものだ。

 どうも、この辺りで太刀は珍しいらしい――少なくとも流れ着いてから宵虎の持つ物の他に太刀を目にしてはいない。


 つまり、鞘に入れて見せれば、この幼子にも宵虎の持ち物だとわかってもらえるのではないか……。


 思いついたからには試そうと、宵虎は腰と括られていた紐をほどき、鞘をヒルデへと差し出してみた。


 そして、逆の手で、ヒルデの手にある太刀を指差す。


「………?」


 ヒルデは首を傾げ、鞘と太刀を見比べた末に……なんだかその二つの形が似ている事に気付いた。


「あ。…こうかな?」


 呟きながら、ヒルデは重そうに太刀を持ち上げて、その切っ先をゆっくりと鞘へと納めて行く。


 シャリ―鍔鳴りと共に、太刀は鞘へと収まりその事にヒルデは声を上げた。


「おお。…ぴったり」


 しげしげと、ヒルデは太刀と鞘を眺めている。

 やはり、太刀が珍しいらしい……見せるくらいは良いだろうと、宵虎は鞘から手を離した。


 ガシャン、と鞘に収まった太刀は地面に擦れ、それを手にしたヒルデは、暫ししげしげとそれを眺める。


 そうした後に、ヒルデはまた宵虎に視線を向けた。


「さあ。それは俺の太刀だ。返してくれ」


 もう十分見物したのだろうと、宵虎はそう言いながら、ヒルデへと掌を差し出す。

 返してくれという仕草だが、しかし、ヒルデはその動作を間逆の意味に受け取った。


 どうぞ、と手を差し出しているのだと。


「くれるの?ありがとう。……いらないけど」


 ぼそっとヒルデは呟いて、そして、踵を返しててくてくと歩み出してしまう。

 鞘ごと、宵虎の太刀を引きずったまま。


「……………」


 その様子を唖然と眺めた末に、宵虎は唸るように呟いた。


「…………なぜ、返してくれないんだ…」


 言っている間にも、ヒルデと太刀は宵虎から遠ざかって行ってしまう。


 宵虎は少女を見て、それから頭上――遠く岩肌に切り抜かれた空を見た。


 よじ登る事は出来るだろう。アイシャ達がグリフォンと相対している以上、すぐ戻るのが上策……だが、アイシャが不利と分かった上で逃げ時を見失うとも思えない。


 あるいはあの天才の事、一人でグリフォンを倒したとしても不思議はない。

 アイシャは恐らく問題ないだろう。ならば、まずは太刀を返してもらう事が先決か…。


 そう決め、宵虎はヒルデを追って歩み出した。


「太刀を返してくれ…」


 そう、唸りながら。

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