第58話 日下部虎次

「腹減った……」


 失敗だった。

 鞄も荷物もない状態で、沼田と戦い、街の反対方向に逃れた。

 そのため食事も水もない。

 しかも見渡す限り荒れ地とただの岩場。

 オアシスなんてあるはずもなく、河川も見えない。

 それどころが森さえない。

 そんなに距離はないはずだから餓死はしないだろうが、コンディションは最悪だ。

 どれくらい遠くに来たんだろうか。

 リーンガムに帰るまでに丸一日程度はかかるかもしれない。

 魔力は一向に回復しないし、シルフィードは沈黙を守っている。

 それに回復したとしても、いざという時のことを考えて温存した方がいい。

 ドラゴンは生きている。

 殺すにも俺にはその力がなかった。

 起きたらまた追って来るだろう。

 その前に一度、莉依ちゃん達と合流しないと。

 莉依ちゃんは聡明な娘だ。

 きっと『俺の所へ向かってはいない』はずだ。

 街へ向かい、ドラゴンが迫っていることを知らせていると信じるしかない。

 大丈夫、彼女達は無事に決まっている。


 討伐はできなかったが、ドラゴンを扱い、皇都に攻撃を仕掛けようとしていたことはわかった。

 しかし、それは一度失敗し、沼田が自らララノア山を訪れることになったのだ。

 では、奴は次、どうするだろうか。

 今からまた皇都を狙うだろうか。

 いや、恐らく奴なら近場の街を狙うかもしれない。

 どちらにしてもリーンガムは危険だ。

 安易に、沼田は皇都を狙っているのだから傍観していていいなんて楽観してはいけない。

 このまま街に戻り、全員で合流して、逃げるのが得策だろう。


「あー、喉乾いた」


 せめて水袋くらいは持っておけばよかった。

 あの戦いの中、無事だったとは思えないけど。

 俺は嘆息し、帰路を進んだ。

 

   ●□●□


 それから一日近く経った後。

 出発から約六日目のことだった。

 結局、莉依ちゃん達は別れた場所にはいなかった。

 街へ向かったらしいことがわかりホッとする。

 そういえば、空腹という拷問は受けたことがなかったな。

 何となく、サラの顔が浮かんだ。

 拷問という単語から連想するとは。

 ひどい出来事だった。

 しかし人間、過ぎれば苦痛は薄れるもの。


 ……やめよう。

 思い出してもいいことはなにもない。

 俺は空腹に耐えながら足を機械的に動かした。

 ララノア山付近は荒野が広がり、所々に緑がある。

 岩場のおうとつが頻繁に見え、時として崖があった。

 途中、休みを何度か入れながら歩を進める。

 見たことがある景色が並び始めた。

 街までそう遠くないはずだ。

 まだ見えないけど。


「もう少しだ……!」


 満身創痍だ。

 沼田との戦いで衣服の損傷も激しいし、食事をしていないため体力も削られている。

 シルフィードの魔力はすでに回復しているが、まだ温存中だ。

 ……なんか、RPGで完全回復の希少なアイテムを手に入れて、ラスボスまで使わずにかなり余らせたことを思い出した。

 一応、無駄にしないようにちょっとずつシルフィードを使って移動はしている。

 ただかなり節約している感じだ。

 やっぱり、さっさと移動するか。

 と、俺は動きを止める。

 何か聞こえた。

 俺は衣擦れの音さえ漏らさず、その場で固まる。


「――っ」


 聞こえた。

 叫んでいる?

 俺は咄嗟にその場に飛び上がった。

 障害物がすべてなくなり、空中から目標の人物を見つける。

 遠目だとわからないが、俺の知り合いではなさそうだ。

 俺はその人物の近くに降りた。

 間近で見て、俺は思わずぎょっとする。

 日本人だ。

 髪がかなり長い女の子だった。

 少しアーガイルさんと印象が近いがまったくの別人だった。


「た、助け、助けて!」 


 女の子は俺に縋りつき、倒れそうになった。

 体力が枯渇しているのか、ぜいせいと息を荒げている。


「落ち着け。どうしたんだ?」

「き、君はクサカベという名前?」


 言われて思い出す。

 俺は、まだ現地人の見た目のままだった。

 期限の一週間まで間もない。

 この女の子がどういう人間なのかはわからないが、俺の名前を呼び、差し迫った表情をしている。

 ならばひた隠し必要もないか。


「ああ。俺は日下部虎次だ。こんな見た目だけど」

「わ、わかってる変装魔術だってことは。辺見が言ってた」

「朱夏が?」


 転移直後、俺以外の連中は顔合わせをしている。

 その中に、目の前の女の子もいたのだろう。

 俺以外で機内に残っている人間はいなかったはずだから。

 となると、朱夏の知り合いであるのはおかしくはない。


「と、とにかく来て! 辺見達が危ない」

「わかった。悪いけど捕まってくれ」

「わ、わかった」


 俺は事情を聞くよりも先に女の子を抱き上げる。

 そのまま飛び上がながら会話を続けた。


「方向は?」

「あ、あっち。リーンガム方向!」

「よし、離すなよ」


 俺は女の子の指し示す方向に向けて跳躍する。


「簡単にでいい、説明してくれ」

「……うん。ボクは剣崎円花。転移組の一人だ。

 事情は省くけどボクと辺見朱夏、ニースさんは長府和也から逃げていた。

 隠れて逃げてを繰り返して、ララノア山まで行ったんだ。君達がいると思って。

 けれどすれ違って、街の方向へ逃げていると、結城さん達と遭遇した。

 そこで辺見は力尽きて、結城さんと莉依ちゃんと現地の人が戦って……。

 そ、それから、長府の仲間がやってきて、どうしようもなくなって、ボクは君を連れて来てほしいって頼まれて」


 断片的で詳細はほとんどわからない。

 ただ、重要な部分はわかった。

 莉依ちゃん達が危ない。

 俺は全力でシルフィードを稼働させ、宙を裂く。


「ご、ごめん、う、うまく言えない」

「大丈夫だ。大体はわかった。細かい部分は後でいい」

「信じて、くれるの?」

「どっちでもいいんだ。嘘でも本当でも、仲間が危ないのなら助けに行く。

 無事であるならそれでいい。俺の命を懸けるだけなら安いもんだからな」

「君は……そうか、だから結城さん達は君を」


 剣崎さんの肩が震えていた。

 その姿は儚く、今にも消えそうなほどに弱弱しい。


「お願いだ……みんなを、た、助けて、ボクのせいで……巻き込んでしまった。

 ボクを助けようとして、辺見も結城さんも遠枝さんも現地の人も……みんな……ッ!」


 剣崎さんは大粒の涙を流していた。

 その所作でわかる。

 彼女がどれほどの思いを抱いているのか。

 そして状況がどれほど切迫しているのか。

 急げ。

 急げ!

 俺は奥歯を強く噛み、激情を抑制する。

 もどかしい。

 もっと速度が出れば!


「絶対に助ける……ッ!」


 その言葉を漏らした時、見えた。

 間違いない、あれは莉依ちゃん達だ。

 俺の意思に急かされ、シルフィードが吠える。

 加速し、鼓膜に届くのは風の音だけ。

 莉依ちゃんと結城さん、ニースも地面に転がっている。

 ディッツに至っては遠くで倒れたまま動く気配がない。

 ロルフは――いない。

 逃げたのか?

 それならばそれでいい。


 男は跪いている莉依ちゃんの目の前に移動し、剣を振りかぶった。

 それからの情景がすべて緩慢に見える。

 莉依ちゃんの命を刈り取ろうとする、その光景を。

 その瞬間。

 俺の感情が爆発する。


「やめろぉーーッ!」


 怒りのまま叫ぶ。

 そして。

 一閃。

 キィンという小気味いい音が響く。

 俺は地に降りていた。

 着地の瞬間、風力を調整し、衝撃を吸収。

 同時に右手を掲げ、小手で剣閃を止めている。

 すべては一瞬の出来事だった。

 剣崎さんを俺の後ろにゆっくりと降ろす。


「莉依ちゃんを連れて離れてくれ」

「わ、わかった」


 剣崎さんは莉依ちゃんを抱えてそそくさと離れる。


「と、虎次さん、ごめん、なさい、ごめん……な、さい」


 意識が薄れていることが声だけでわかった。

 謝る必要なんてないのに。

 莉依ちゃんが罪悪感を抱く理由なんてこの世に存在しない。

 ボロボロだ。

 服は土で汚れて、擦り傷や裂傷が見えた。

 回復スキルが使えないくらい疲弊しているみたいだった。

 ここまで傷ついた姿を見たのは初めてで、俺の血液が一気に沸騰する。


「誰だ、おまえ」


 男は狼狽しながらも力を緩めない。

 多分、こいつが長府和也だ。

 他の連中は女ばかりだから、間違いないだろう。

 俺は力任せに長府の剣を弾いた。

 押し返すそぶりもなく、長府はそのまま後方に下がる。

 いつもの感覚が浮かぶ。

 変装魔術が解ける瞬間の、むず痒い感覚。

 頭頂部から足先にかけて、ゆっくりと広がり、やがてそれは収まる。

 俺の姿は、本来の姿に戻っていた。

 そして俺は一言、返した。


「日下部虎次だ」

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