第7話 うしなわれし光~愛の迷子と堕とされし聖女~(7)


「隠しても無駄だぜぇ?俺は3年前の『赤月邸』事件を追ってた刑事だ。

お前の素性だって全部知ってんだよ。赤月美桜。

蛙の子は蛙ってか?イカレ具合ってのは遺伝しちまうもんなんだなぁ!?

ぎゃはははははは!!!」


美しい女は能面のような無表情でカゲロウを見つめる。

そんな美桜の仕草を、カゲロウは精神的なダメージ故だと解釈した。

美桜に対して初めて、精神的優位を勝ち取った。

そのことが、カゲロウを調子づかせる。


さらなる罵倒を―――彼女の親にまつわる罵倒を飛ばそうとカゲロウが頭をひねっている間に、

美桜は無表情を崩した。何がおかしいのか、

再び笑わない瞳のまま口角だけを吊り上げる。

普段通りの余裕の表情を、美桜は取り戻していた


「そう……貴方、3年前の事件を追っていたのね。

それじゃあ、"本物の赤月美桜"のことを知っていたとしても不思議はないのか」


「な……に……?」


美桜の放った言葉は、カゲロウの頭に混乱を走らせた。


―――今、この女はなんて言いやがった? "本物の赤月美桜"、だと?

それじゃあ、いま目の前に居るお前はなんだって言うんだ?


ワケもわからず途方に暮れるカゲロウの顔面を、

美桜の黒いブーツが思い切り蹴飛ばした。

サッカーボールのように吹き飛んでいくカゲロウの頭部。

引っ張られるように、胴体が空高くへと打ち上げられていく。


「ぐぁぁぁぁぁ!!!がはぁっ!?!?!?」


上空に打ち上げられたカゲロウは、4枚の羽根を展開して慣性を殺した。

遙か上空で体のコントロールを取り戻したカゲロウは、すかさず追撃が

来ることを警戒し、先ほどまで己が這いつくばっていたホテルの屋上へと『嗅覚』を向ける。

そこには既に美桜の殺気けはいはなかった。


―――馬鹿な!? 一体どこに消えやがった!?


美桜の姿が見当たらないことに驚愕するカゲロウ。

先ほど自分が使った戦法―――瞬間移動をしつつ死角をついてくる戦法を真似てくるのではないかと思い、カゲロウは戦々恐々とする。


美桜に蹴り上げられたカゲロウは、雲の真下にまで飛ばされていた。

地表から約2000メートルはあろうという位置。ホテルの屋上が地表から25メートル程度と考えれば、どれほどすさまじい脚力で蹴り上げられたかが理解できる。

"天高く打ち上げられた"とはまさにこのことだった。


地獄の業火に紛れて瞬間移動を仕掛けてくるか、

または異形の跳躍力を持ってここまで跳んでくるか、

美桜の次の手は読めない。


しかし、美桜から仕掛けてくるとすればカゲロウにとっては好都合だ。

もしも空中戦に持ち込むことができるのならば、

カゲロウにとって有利な状況で戦うことができる。


4枚の羽で空中を自在に飛ぶことのできるカゲロウは、

羽を持たない美桜に対して空中において大きなアドバンテージを得られることだろう。


カゲロウは再び『嗅覚』を研ぎ澄まし、美桜の殺気けはいを探った。

狙うは、|あの女≪ヤツ≫が仕掛けてくるだろうその一瞬だ。

最初の一撃さえ避けてしまえば、あとのことは深く考えずに済む。


前蹴りを食らった腹部の痛みが、

熱を帯びてカゲロウを責めたが、彼はそれに必死で耐えた。

いくら体が痛もうと、一矢報いるチャンスを逃すわけにはいかない。


やがてカゲロウの『嗅覚』が美桜を捉えた。

彼の『嗅覚』は今、己の頭上で『鬼の腕』を振りかぶっている美桜の存在を捉えきっている。

「やらせるかよ!」


スウェーバックでそれを避けたカゲロウは、身を切り返して反撃に転じた。

お返しだといわんばかりに放たれたカゲロウの蹴りを、

羽を持たない美桜が避けられるはずもない。


鎧のような右脚が美桜の腹部を狙い、そして、空を切った。

美桜はカゲロウの一撃を、泳ぐように空を舞うことで回避したのだ。


「嘘だろ……?そんな馬鹿な……」


ばさり、ばさり、

鳥類の羽音が、カゲロウの耳に届く。

彼の瞳には、地上で見るよりも大きく見える満月と、

背中から生えた二枚の黒い翼を羽ばたかせながら夜空を優雅に泳ぐ、

『長い黒髪の女』の姿があった。


「な……なん……だと……?」

「"遊び"は終わりにしましょう?冥土の土産に見せてあげる。

貴方の知る少女とは違う―――"私"の、底なしのチカラを」


瞬間、カゲロウの肌をピリピリとした殺気が襲った。

今聞いたばかりの言葉の意味を反芻はんすうする余裕もなく、

一瞬で距離を詰めてきた美桜の攻撃を防ぐために砂の渦を発生させる。


だが、砂の渦の発生よりも美桜の拳のほうが速かった。

『鬼』の拳はカゲロウの顔面をあっけなく打ち抜く。カゲロウの身体は流星の如く、

もの凄い勢いで地面へと叩き落とされていった。


しかしカゲロウもただやられてばかりいるつもりはない。

地表に向かって吹き飛ばされる、カゲロウの体。

彼はその進路上に、砂の渦を発生させた。


空中に浮かんだそのワームホールの出口は、遥か上空に居る美桜の背後に開かれた。

叩き落とされたその勢いを利用して、砂の渦に飛び込んだカゲロウは、

異空間のトンネルの中で、美桜に叩き込んでやるための爪を研いだ。


トンネルを抜けたカゲロウが、美桜の背中に向かって爪を構えたまま突進を仕掛けた。

突進は翼を羽ばたかせた美桜にあっけなく避けられてしまう。

明後日の方向に飛んでいくカゲロウだったが、

彼は再びその進路上にワームホールを発生させ、しつこく美桜を狙った。


穴から穴へ。

砂の渦を行き来しながら美桜に突撃を仕掛けるカゲロウ。

トンネルからトンネルへ。

超音速でヒットアンドアウェイを繰り返すカゲロウに、美桜の眉がピクリと吊り上がった。

砂の渦から砂の渦へ。

光の乱反射のように、カゲロウは美桜を取り囲んで攻め立てる。


―――これなら、行けるかもしれねえ!

カゲロウに、何度目かの勝機が芽生えた。


「ひゃひゃひゃひゃ!これなら逃げられねえだろ!?」

「……逃げる必要などないわよ。

貴方のような、ムシケラ相手に」


カゲロウの突撃をギリギリで避けた美桜の腕から、

『何か』が飛び出してカゲロウの腕に巻きついた。


―――なんだ……?髪か……!?


カゲロウは自分の腕に目を向ける。

腕に巻きついていたもの―――それは、今にも肉にかぶりつこうと牙を構えた大きな毒蛇だった。


ガブリ。

蛇に噛み付かれたカゲロウは、身体のしびれに抗えず、羽を制止させ、墜落していく。

美桜の周囲を取り囲んでいたワームホールは全て消え去り、砂たちは風にさらわれていった

蛇の毒牙は異形のバケモノすら猛毒に冒し、その体をむしばんでいく。


「この……!こいつ!!離れろォ!!」


必死になって蛇を腕から放そうとするカゲロウをあざ笑うかのように、

蛇はカゲロウの腕に噛み付いたまま、彼の右手からは決して離れなかった。

蛇の頭部は、やがてトラのそれへと変貌し、猛獣のアゴを用いて、

カゲロウの右腕をブツリと食いちぎった。


「ぎゃああああああああああああ!!」


声をあげて、カゲロウが痛みに喘ぐ。

トラの頭部を持つ毒蛇は、カゲロウの腕を食いちぎったことで支えをなくし、宙を舞った。


トラ蛇の胴体を、翼をはためかせながら上空から舞い降りてきた美桜が掴んだ。

美桜は鬼の腕の中で粘土のようにトラ蛇をこねくり回し、トナカイの角へと変質させる。


墜落するカゲロウに近づいた美桜が、七支刀しちしとうの如きトナカイの角をカゲロウの腹部を刺し、

その七支刀の柄を蹴飛ばしてカゲロウをホテルの屋上までたたき落とす。


カゲロウの身体はプールへと叩き込まれ、天に昇る龍の如き水柱を立てた。


水中に沈んだカゲロウを、周囲の人間達は一切気に止めなかった。

カゲロウが遙か上空から叩きつけられたことによってプールの水の大半が吹き飛ばされ、

水柱は津波となってプールに浮かんでいた若い男女を飲み込んでいったが、

それすら、誰も気にとめることはない。

『鬼の幻惑』によって、ホテル側の仕込んだ仕掛けか何かだと思い込まされている。


津波にさらわれた若い男の一人が頭でも打ったのか、

滝のような血を頭部から垂らしていた。

彼の遊び仲間は、そんな男の姿を見て間抜けだとあざ笑い、軽薄な歓声を上げた。


水位が半分になったナイトプールの中で。

カゲロウは水中に沈んだまま力なくうなだれ、無力に身を任せて漂っていた。

意識を手離す寸前だったカゲロウの視界に、

地面すれすれを泳ぎながら、自分の元に向かってくる黒い影が映りこんだ。


25メートルのプールの中を窮屈そうに泳ぐ黒い影が、

人ごみを掻き分けて、大きな口を開けながら、カゲロウに迫ってきている。


影の正体。それは、

8000年前の地球で最強の肉食恐竜として君臨していたティラノサウルスと互角に渡り合っていたとされる史上最大の大ワニ―――デイノスクスだ。


大ワニの巨体を見たカゲロウは驚き戸惑い、急いで水中から逃れようともがく。

が、手負いのバケモノでは史上最強のワニから逃げることなど出来なかった。

カゲロウの顔が水面に上がるその寸前―――デイスクスの牙が、

カゲロウの下半身を飲み込んだ。


「やめろおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」


カゲロウの叫びなど聞き届けるわけも無く、

史上最大の大ワニは顎を蠕動ぜんどうさせ、その小さな身体を飲み込んでいく。


丸呑みされてしまったカゲロウは最後の悪あがきと言わんばかりに、

今まで数々の女どもをミイラに変えてきた猛毒の消化液を、デイノスクスの胃の中にぶちまける。デイノスクスの体は内側から溶解され、その巨体は大ワニの体積と同じ分量の砂に変わっていった。


大量の砂がプールの上を舞う。砂はプールの中の水分を吸い上げていった。

若者たちは砂漠となったナイトプールの中ではしゃいでいる。

水遊びが砂遊びに変わろうとも、

楽しい時間を過ごそうという彼らの気持ちは変わらなかった。

いかなる異常事態が起きようとも、

若者たちは『幻惑』によってそれが異常事態であることすら認識出来ずに居る。


砂と共にプールの中へと落ちていったカゲロウは、大ワニから逃れたことに安堵していた。

右腕は食いちぎられ、腹部には七支刀が刺さり、両脚を大ワニのアゴに噛まれ、

体中が猛毒に冒されている。


水槽の淵に背中を預けながら、カゲロウは意識を朦朧とさせていた。


はしゃぐ若者の声も、砂場プール中に響くオーディオの音も、

どこか知らない遠くの国から運ばれてくる音のように感じていた。


パチン。

誰かが指を鳴らす。その音だけは、やたらと身近に感じることが出来た。

音がした方に首を向けると、そこには赤月美桜が居る。


―――もういっそ楽にしてくれ。


カゲロウはそんなことを思った。


美桜の指鳴りに反応して、デイノスクスだった無数の砂が、小さな魚たちを象っていく。

魚たちはそれぞれ砂が奪っていった水を、その口から吐き出し、

砂場を水場に戻していった。


かすむ視界の中で、カゲロウはかろうじて、

その魚たちが熱帯魚であることを認識出来た。

カゲロウは熱帯魚の種類に関して、大した知識を持たない。

いつだったか、子供向け映画の主人公として抜擢されたカクレクマノミを思い出し、

目の前の魚たちがカクレクマノミであればいいな、などと珍しく幼いことを考えた。


プールの上で黒い翼をはためかせていた美桜が、己の髪の毛を一本抜き取る。

抜き取った髪の毛は、美桜の手の中で一本の長い指揮棒と化した。


美桜は指揮棒を優雅に振るって、8分の6拍子のリズムを刻む。

備えられていたオーディオは、耳障りなハードパンクを奏でるのをやめ、

美桜の指揮に合わせて襟を正すかの如く、交響曲第9番―――『歓喜の歌』を奏で始めた。


魚たちは美桜の指揮に合わせて編隊を組んだ。

丸い大きな輪を作り上げたり、

三角形や星の形になったりして縦横無尽にプールの中を泳ぎ回る。


美桜がリズムを変えて激しく指揮棒を振るう。

魚たちもそれに合わせて激しく動き回り、

トルネードや噴水を作った。


ゆったりとしたリズムで指揮棒を振るえば、

魚たちの動きも緩慢になり、一匹のマンタを形作るなどして、優雅に泳ぐ。


水族館のようだ、とカゲロウは思った。

魚たちの動きは、愛人とのデートの際、水族館で見た小魚たちの動きに似ている。


プールの淵に体重を預けたまま動けずに居るカゲロウに向かって、

美桜の操る小魚たちが近づいてきた。


視界がにじみ、魚たちの姿をはっきりと認識出来ずにいたカゲロウは、

魚たちが近づいてきたことで初めて、彼らが何者であるかを悟って、絶句した。


―――ピラニアだ。

カクレクマノミなんてとんでもねえ。こいつらは、凶悪な人食い魚じゃないか。


無数のピラニアに近づかれたカゲロウは、身の恐怖を感じ、

バケモノに似つかわしくないみっともない悲鳴を上げた。


そんなカゲロウの姿を見た美桜は、心底愉快そうに口の端をつり上げ、

リズムを刻むその両腕を激しく振るい、ピラニアたちに命令を下す。


食らえ。食い殺せ。


美桜の指揮を受けたピラニアたちが、容赦なくカゲロウに襲いかかった。


「うわああああああああああああああ!!!!!!

ちきしょうっ!ちきしょうちきしょう!!!!ちきしょうがあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」


狂った第9だいくが、夜のプールに響いていた。


カゲロウの肉が無数のピラニアによって食いちぎられ、

プールの水面が赤く染まっていく。ピラニアたちが水しぶきを上げるたび、

エサにされた薄馬鹿下郎のムシケラが獣のような悲鳴を上げた。



すでに五体不満足となっていたカゲロウの肉体が、

ピラニアたちによってさらに千切られ、血まみれのボロ雑巾と化していく。

息も絶え絶えのカゲロウは、縋るような思いで己の目の前に砂の渦を発生させた。


美桜は演奏に夢中で、カゲロウが逃げようとしていることに気づいていない。

カゲロウは、命からがらワームホールへと身を滑り込ませ、

ナイトプールという名の地獄から脱出した。


トンネルの出口には、ももかが居た。

美桜の魔の手から逃れるため、

なりふり構わず開いたその扉は見知った少女の目の前に開かれていた。


血まみれで、水浸しで、体の多くを欠損した上に、

未だ数匹のピラニアをその身に纏っているボロボロのカゲロウを見たももかは、

泣きそうな顔で彼を見ている。その目にはすでに憎悪はなく、

ただカゲロウへの哀れみだけがあった。


先ほどまで宍色に対して抱いていた殺意は、

今にも息絶えそうな彼を目の当たりにして引っ込んでしまったのだろう。


ハンカチを取り出してカゲロウに駆け寄ろうするももかの姿は、

カゲロウの知る、心優しいいつもの彼女以外の何者でもなかった。


―――なんなんだ?お前は。

俺を殺せと願っておきながら、まだ俺に情けをかけようだなんて気持ちがあるのか?

甘っちょろい女だ。この、偽善者が。


ももかは涙を流し、可愛らしいレースのハンカチが血まみれになることすら構わず、

カゲロウの傷口から流れでる血を受け止めようとする。

が、"こいつは俺の獲物だ"と言わんばかりに体を跳ねさせたピラニアに怯え、

その手を引っ込めてしまった。


この期に及んで悪人になりきれないももかの気の弱さを―――その心根の優しさを、

カゲロウは素直な気持ちで愛おしいと感じてしまった。


死に瀕することで、カゲロウはこの瞬間、人間らしい穏やかさを取り戻していた。

それは彼があの日の路地裏でももかと電話をしていたときに感じたモノと同等の感情だ。


あの日、この穏やかな心地を取り戻したまま人を喰らわずに過ごせていれば、

こんなことにはならなかっただろうか?


―――俺は死なずに済み、この子に俺の死を願わせずに済み、

俺たちはちゃんと、親子になることが出来たんじゃないか……?


ももかが宍色の死を願ったと聞いて、カゲロウは怒りの感情を抱いた。

だが思い返せば、彼女をそこまで追い詰めてしまったのは、紛れもなく自分なのだ。

娘を喰わせろと恋人に迫った、己の因果なのだ。


一度は死を願った相手にすら、こうして咄嗟に手を差し伸べようとするほど優しい娘を、

赤月美桜のような悪魔に魂を売るほど、追い詰めてしまったのは他でもない自分だ。


カゲロウの脳内に、ももかや小梅と過ごした日々が蘇る。


魔が差した―――この子に性欲を抱いてしまった。


この子や小梅に対して少なからず抱いて居た暖かい感情―――父性を何より大切に出来ていたならば、違う未来があったかもしれないのに。


―――この子の言うとおりだ。裏切りものは、俺だ。

俺は家族になれたかもしれない女たちを、裏切ってしまった。


「すまない……裏切って、すまなかった……ももかちゃん……!

俺だって、何よりも家族が欲しかったはずなのに……!

欲望に負けてしまった……悪かった……」


残った左腕で体を支えたままひざまずいて、

コンクリートの上に大粒の涙をこぼしながら、カゲロウは懺悔した。


そんなカゲロウの言葉を聞いたももかは、一時逡巡しゅんじゅんしたあと、

首にぶら下げていた指輪のようなペンダントをその手に握り、小さな光をその手にまとった。


生唾を飲み込み、精一杯の勇気をその手に込めて、

光を纏った手でピラニアをねのけてくれる。


そして、カゲロウの傷口に再びハンカチを当て、傷の手当てを始めた。

ももかが自分を助けようとしてくれているのを見つめていたカゲロウは、こう思った。


―――これは、チャンスなんじゃねえか?


バケモノの本能が、美桜を倒す算段をカゲロウの脳内にぎらせる。

こいつを人質に取れば、あの女を倒せるかもしれねえ。


欲望の魔が差したその瞬間、先ほどまで抱いていた穏やかな心地は、

たちまちカゲロウの中から消え去った。

宍色鴇也ししいろときやは所詮、利己的なバケモノに過ぎない。

それこそが、彼の抗いがたい|性≪さが≫なのだ。


己の傷を癒やしてくれたももかに対し、4枚の羽を展開したカゲロウが襲いかかる。

突如、敵意をむき出しにしてきたカゲロウの姿を見て、

ももかは今度こそ、未来永劫取り返しようのない失望を、彼に対して抱いた。


ももかに触れる寸前、カゲロウの動きが止まる。

カゲロウの身体には、無数の糸が絡み付いてその身を拘束している。

粘着質なその糸はカゲロウがどれほど力をこめようと千切れることはなく、

彼の体をいとも容易く拘束してしまった。


「誰が、ももかに触れていいと言ったの?」


瞬間移動で屋上から降りてきたのだろう美桜が、

いつの間にやらカゲロウの背後―――10メートルほど離れた位置にに立っていた。

『鬼の右腕』―――その爪の先からは蜘蛛の糸が伸びて、カゲロウの体を封じている。


「なんなんだよお前……!何でも出来るのかよ……!」


「いいえ、何でもは出来ないわよ。

ただ、今までに喰らったことのある『鬼』の能力だけなら、

全て使うことが出来る。相手を食べてしまいさえすれば、能力も、声も容姿も、記憶に至るまでも、相手のすべてをコピーして再現できるようになるの。


『なりすまし』。『幻惑』と同じく、

元々は鬼が人間社会に紛れて生きるために身につけた能力よ。食らった人間になりすますことで、

認識の改変が通じない相手すら欺くことが出来る。


……今使ってるこの"糸"の能力はね?先月の失踪事件の犯人が使っていた能力よ。

新品の能力チカラを使うチャンスが来るなんて、私嬉しいわ。

先月のエサは、遊んでる内にすぐ死んじゃったから。うっふふふ」


「なるほどな……こんな『バケモノ』が相手じゃあ、

警察も敵わねえわな……。はは、はははは……」


力なく笑ったカゲロウの手足が、ヒトのそれへと戻っていく。

"肉体を欠損した生き物"としてのビジュアルは、

虫のバケモノだった頃よりもヒトのそれのほうがシャレにならない。


右腕を失い、腹が破れたまま糸に貼り付けられている宍色の姿を見て、

ももかは両手で顔を覆った。


コツン、コツン。

美桜の足音が、一歩一歩着実に自分の元へと近づいているのを宍色は感じていた。

蜘蛛の糸に捕らえられた宍色は、後ろを振り向くことすら出来ない。

大粒の涙を流しながら、両手で顔を覆っているももかの姿が、

彼がその生涯で最期に見る光景だ。


美桜の足音が、止まる。

宍色のすぐ後ろには、女が立っている気配がある。

美桜のウィスパーボイスが、彼の耳元で響いた。


「約束した通り、この世のものでは味わえない極上の快楽を貴方にあげる」


そう言い放つなり、美桜は一切躊躇ちゅうちょせず、

『鬼の右腕』を宍色の背中―――左胸の裏側に差し込んだ。

内蔵を掴まれる様な圧迫感が宍色を襲う。何かを抜き取られたような感覚がしたが、

それがなんであるのかは分からない。

ただ、とても大事なものであることはなんとなく分かった。

それが、命そのものが抜き取られる感覚なのだと理解するのにそう時間はかからなかった。





しゃぷり。しゃぷり。

背中から、果実をかじるかのような咀嚼音が聞こえてくる。

迫り来る死を認識した途端、宍色の頭の中を脳内麻薬が駆け巡った。


「お……おおお……!?おお、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおんほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」



魂を喰われた衝撃に、宍色は白目をむいて口から泡を吹かせる。

―――"極上の快楽"。美桜の言うそれはつまり、


死に際の生き物が放つ、

異常な脳内麻薬がもたらす快楽でしかなかった。

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