第7話 うしなわれし光~愛の迷子と堕とされし聖女~(1)
■
つい先ほどまで、会議室では大規模な捜査会議が行われていた。
窓の向こうには、夕日に包まれた陰泣市の風景が見える。
ここ数日、睡眠時間を削ることで疲れきっている朱道の瞳には、
街中を反射して目に飛び込んでくる赤い可視光線が、余計に眩しく感じられた。
まぶたを揉んでいた朱道の肩を、ぽんぽんと何かが叩いた。
後ろを振り向くと、そこには二本の缶コーヒーを手にした戸津野が居る。
「疲れてるでしょ?奢ってあげる」
「ありがとうございます。なんか、珍しく優しいですね」
「一言余計だってば」
差し出された缶を受け取った朱道は、プルタブを起こし、
ブラックのコーヒーを一口、二口と啜った。
戸津野の肩越しには、
先ほどまで捜査会議に使われていミーティングルームが見える。
『陰泣市連続不可思議事件捜査本部』
毛筆で書かれた張り紙を遠い目で見ながら、
朱道はここ数日の怒涛の日々を回想していた。
『鬼』と化した宍色がどこかに消え去ってから数日後。
陰泣駅周辺の飲み屋街の一画で、身元不明の女性の遺体が発見された。
遺体は驚くべきことに、内蔵や体脂肪、筋肉や骨など、
内部の体組織がグズグズに溶解した、文字通りの"皮"となった状態で発見された。
体組織は溶解しているだけに留まらず、そのほとんどが失われており、何らかの手法で外部に吸い取られたのだと推測される。
皮と毛だけ残った、萎れた風船のようになった遺体だが、
唯一その下腹部だけはぽっこりと膨らんでいた。
遺体を解剖し、子宮と思わしき器官を開いてみたところ、
その中には昆虫のタマゴと思わしき球体がびっしりと詰まっていたという。
その後、同じような遺体が陰泣市の至る所で発見された。
それに伴い、朱道や戸津野が配属されていた
『陰泣市連続美女失踪事件捜査本部』も規模を拡大し、
『陰泣市連続不可思議事件捜査本部』と名前を変えた。
「朱道君、仮眠取ってきたら?あまり寝てないんでしょう?」
遠い目をしたまま固まっていた朱道に、戸津野が語りかけた。
朱道を何かと気遣ってくれているが、寝不足なのは彼女も同じだろう。
戸津野の目の下には、大きなクマが出来上がっている。
「戸津野さんこそ、ちゃんと休んでくださいね。
……パンダみたいな目になってますよ」
「だから一言余計だってば!!!!!」
眉を吊り上げて怒っている戸津野を見て、元気がいいな、と朱道は思った。
彼女も多少は疲れているように見えたのだが、杞憂だったようだ。
仮眠室のベッドに体重を預けると、
朱道の脳裏に突然、数日前の記憶がフラッシュバックしてきた。
異形のバケモノへと姿を変え、自分に襲い掛かってきた宍色の姿。
あんなバケモノがこの世に存在するとは思わなかった。
東雲ももかと吉田景子の供述していた"蜘蛛の怪人"や、それを倒したとされる"もう一人の怪人"の存在が、朱道の中で現実味を帯びてくる。
荒唐無稽な話の中の存在でしかなかったバケモノの実在を、
宍色はその身を持って朱道に証明したのだ。
そして、ここ数日で再び世間を騒がせている、
体組織を溶かされた妊婦のミイラが遺棄されるという新たな怪事件。
考えたくなかったが、朱道はどうしても、
バケモノと化した宍色とミイラとを結びつけずには居られなかった。
―――宍色さん、貴方なんですか?
どうして、どうしてなんですか?
東雲ももかの供述には、
嘘か真か"バケモノに食べられた人間は周囲から忘れられてしまう"とあった。
4つ発見されたミイラ状の遺体は、歯型と毛髪のDNA情報を元に身元の特定を急がれているものの、どの遺体も、それらしき人物が
朱道はこの街の刑事として、
依然として続く"ミイラ"事件を追わなければならない。
『不可思議事件捜査本部』は今、
ミイラ事件の犯人捜しと次なる遺体の出現場所予測に追われていた。
蜘蛛の怪人。
バケモノと化した宍色。
妊婦のミイラ。
そして『長い黒髪の女』―――赤月美桜。
数々の不可解事件に関わってきた『長い黒髪の女』。
朱道はその存在が、どうにも今回のミイラ事件にも噛んでいるような気がしてならない。
―――その勘を、大事にしろ。
違和感を、絶対に見逃すな。
先輩から受け取ったバトンを、朱道は思い出す。
目下の"ミイラ取り"が落ち着き次第、
『長い黒髪の女』を探しだそうと朱道は決意を固めた。
■
地平線の端のほうでは、青黒く澄み切った夜空に押しのけられるように、
夕日の名残が赤く輝いていた。
昼が夜に侵食され、世界が闇に染まる時間帯。
顔を濃く覗かせ始めた
東雲小梅が車を走らせている。
赤信号に捕まった小梅が、車を停めた。
一秒でも早く目的地にたどり着きたい小梅は、
そんな些細な待ち時間にすら苛立ちを覚えた。
最近起きている物騒な事件のためか、その日は警察の出入りが非常に多かった。
いくら急いでいても速度には充分注意をしなくてはならないだろう。
いまは市中のどこにも、警察の目が張り付いている。
変にスピードを出せば、そこいら中に居るパトカーに止められかねない。
小梅が一秒を惜しんで車を走らせている理由。
それは、ここ数日音信不通だった恋人から「すぐに来てくれ」という連絡があったためだ。
数日前、宍色鴇也は忽然と姿を消した。小梅は何度も彼に電話をしたが、
鴇也が小梅からの着信に応じてくれることは一度たりともなかった。
恋人と急に連絡の取れなくなった小梅は、
彼の身を案じて宍色の職場―――陰泣署へと連絡をしたが、
電話で応対してくれた朱道とかいう刑事は、
「宍色さんの消息については、お答えできません」
と冷たい声で言って取り付くシマもなく、
恋人の手がかりを完全に失ってしまった小梅は、頭を抱えて苦悩するしかなかった。
彼は刑事という立場上、いついかなる危険に巻き込まれてもおかしくは無い。
つい最近、彼が居なくなったらどうするか?という話を娘とした矢先のことだ。
最近の陰泣市で次々と起こる得体の知れない事件のことが、
小梅の心配をさらに煽る。
彼がもし、危険なことに巻き込まれていたらどうしよう?
頭の中を駆け巡る最悪の想像に、小梅は胸を張り裂けそうな思いを抱いていた。
鴇也から連絡があったのは、
そんな不安に苛まれながら仕事をしていた矢先のことだった。
撮影したモデルの顔を画像編集ソフトで加工している作業の傍ら、
スマートフォンが振動したのを見計らって、ここ数日、着信音に敏感になっていた彼女は、目にも留まらぬ速さでそれを手に取った。
『ときやくん』。
送信者を示す画面には、待ちわびた彼の名前があった。
それを見た途端、得も知れぬ感情の洪水が胸の奥から溢れそうになって、
小梅は一瞬フリーズする。
恐る恐る『通話』のタブをタッチし、電話の向こうの恋人の名を、呼んだ。
「と、鴇也君……?」
「ああ、俺だ」
ずっと聞きたくて、聞けなかった、聞きなじんだ最愛の人の声。
職場だというのに、小梅は涙がこぼれそうになって手で顔を覆った。
「心配したのよ!?なんで連絡くれなかったの!?」
事務所を出て、人気のない手洗い場に移動した小梅は、
電話一つよこさなかった恋人にがなり立てる。鴇也がそれに、穏やかな声で答えた。
「あぁ、済まない。ちょっと厄介な仕事があってな。身内に連絡を取れなかった。
……急で悪いが、今夜お前に逢いたいんだ。
仕事が終わったらすぐに"いつもの場所”に来てくれないか?」
"いつもの場所"―――小梅にはそれが何のことだかすぐに分かった。
それは二人が何度も愛を育みあった逢瀬の場所。馴染みのホテル、『スカヴァティ』のことだ。
「……分かった」
数日行方をくらましていた鴇也に対して、
言いたいことがたくさんあったが、小梅はひとまずそれらの言葉を飲んだ。
職業柄、彼にもいえないことの一つや二つはあるだろう。
しかし、それを置いておいても、
自分や娘をこんなに心配させたことに対する文句の一つは言ってやらないと気が済まない。
特にももかは、居なくなった鴇也のことを心配するあまり、
ここ数日中、不穏な事件が蔓延る陰泣市中を歩き回っていた程なのだ。
沢山、文句を言ってやろう。
これほど心配させたツケを、彼に払わせてやろう。
年甲斐もなくにやけてくる表情を抑えながら、小梅は電話を一旦切り上げた。
ここ数日間、恋人と連絡が取れなかったことによって小梅は、
胸がはちきれそうな不安を抱えていた。
彼女にとって、鴇也がいかに大きな存在かということを確信できた。
『ママにどうしても、今すぐ宍色さんに伝えて欲しいことがあってね』
鴇也が失踪する直前、電話をかけてきたももかが涙声で訴えてきたことを思い出す。
娘はまだ幼さの残る、甘ったるいその声で、
『宍色さんに、愛を伝えてあげて欲しい』と言っていた。
どう言う意味なのか考えあぐねた小梅だったが、これ以上彼に愛を伝える手段があるとすれば、それは彼と婚姻を結ぶ事にほかならないだろう。
『そうね。そろそろ一緒になって良い頃合いかもね』
小梅の口からは、気づけばそんな言葉が漏れ出ていた。
ももかが自立するまで。
そう思って結婚というゴールを、今まで意識的に遠ざけてきたが、
この先の人生、何が起こるかは計り知れない。
腹をくくるには、良い頃合だ。
もはや及び腰で居られる時期は、とうに去っているのだろう。
話を切り出す覚悟を決めた小梅は、ホテルの駐車場へと車を乗り入れた。
ハンドバックを手に持ち、ドアを開けてその敷地に足を下ろす。
綺麗に切りそろえられた芝生の広がる、ホテルの敷地。
石畳がそろえられた通路の中央には、七色に光る噴水があり、
その向こうには、天にそびえる高層ビルがあった。
地上からは全く見えないが、その屋上にはナイトプールが備えられており、
そこでは軽薄な若者たちが軟派な遊びを繰り広げている。
石畳の上でこつこつと靴音を鳴らし、ライトアップされた噴水を横切ると、
小梅はホテルの入り口へと入っていった。
屋外から屋内へ。人工的な光の中に、小梅は飛び込んでいく。
天井から降りる、
広いフロントの隅には。革張りのソファが備えてあって、
そこには小梅が待ち望んだ男の姿があった。
「待っていたぞ。小梅」
久々に見た、恋人の姿。
目がくぼみ、頬がこけているその顔は、
最後に逢った時よりも少しやつれたように見える。
そのことが、ここ数日間で彼がどれほど仕事に忙殺されていたのかを小梅に悟らせた。
いたわりの念と、無事で居てくれたことへの安堵。
留めようのない、彼への愛情が小梅の胸に湧き上がってくる。
文句を言ってやろうなどという気持ちは、そのとき既になくなってしまっていた。
「……久しぶりね」
「ああ、久しぶりだ」
「色々言いたいことはあるけど……とりあえず、元気そうで良かった。……本当に、良かった」
言葉の途中で耐え切れず、小梅の目尻から涙がこぼれた。
泣き虫なのはももかと同様。親子共通の性分だ。
ジャケットから取り出した鴇也のハンカチが、小梅の目尻を拭う。
止めどなく涙を漏らす小梅の身体を鴇也は抱き寄せ、
己の存在を恋人に伝えるよう、強く強く抱きしめた。
「部屋に行こう。予約は済ませてある」
力強く自分を求める恋人の姿に、小梅は思わずドキリとする。
鴇也と付き合い始めて早数4年……彼とは幾度となく肌を重ねてきた。
小梅は鴇也の愛し方が好きだった。これまで様々な男達と交わってきた小梅だが、
記憶の中のどの愛し方よりも、鴇也のソレが最も自分を満たしてくれた。
彼に抱かれている間は、己で制御しようのない果てしない渇きが。飢えが。
満たされていくのを感じることが出来る。今まで誰にも満たせなかった渇きを、
鴇也だけは満たしてくれる。
満たされる本能こそが、鴇也が己の運命の人なのだと思える、何よりの証拠だった。
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