第6話 浅ましき下郎 (5)
■
暗い路地裏の隅で、中年男が俯きながら携帯電話を握り締めていた。
思いつめたその表情は、路地裏の影の如く暗い。
スマートフォンの放つブルーライトだけが、その暗闇の中で輝いていた。
ももかと通話をしてから早数十分。
抗いがたかった喉の渇きは、宍色の身の内からは既に消え去っていた。
"真実の愛"を示せば、『鬼』となった者を救うことが出来る。
美桜の嘘から始まったももかの行動は、
今まさに、小梅が宍色に愛を告げることで完成されようとしていた。
実際のところ、愛などは凄惨な現実に対してどこまでも無力でしかなく、
『鬼』を人に戻すエネルギーなど決して持ち合わせはしない。
それでも、幸福を実感し、他者を想い想われることは
"魂"を清らかにする手段の一つであり、
同時に、『鬼』の食肉本能を抑える働きがあることも事実だった。
このまま小梅の愛を宍色が享受することになれば、
彼がこれ以上人間を喰らうことはなく、
その魂が"穢れた供物"へと昇華されることもないことだろう。
そのことを快く思わない
スマートフォンを握り締めながら、宍色は一人葛藤していた。
このまま小梅と結ばれることが出来れば、
幼いことからの憧れだった『幸福な家庭』を手に入れることが出来る。
子供を作ることが出来なかった彼にとって、
妻が居て、娘が居るという状況は、願ってもない幸福だ。
『俺には幸せになる資格などない』と思いつつも、
その幸福に手を伸ばさずには居られないほど、
宍色は己の身に起きた、大いなる変化に追い詰められていた。
―――きっと俺は、小梅からの電話を受け取るはずだ。
この世の大半の人間とは、"自分には全うな道徳心がある""常識がある"などと豪語し、
都合の悪い己の罪には目を背けて生きる俗物だ。
"渇き"から逃れるためなどと理由をつけて、己の罪を棚に上げ、
目の前の幸福に手を伸ばそうとしている宍色も、
所詮はそんな俗物の一人でしかなかった。
というよりは、その程度の俗物でしかないからこそ―――。
「昨夜ぶりね。宍色さん。お加減はいかがかしら?」
邪悪な
「お、お前……!一体どこから……!?」
宍色が顔を上げると、暗い路地裏の中に真っ赤な業炎が迸っていた。
地獄の業火の中からひょっこりと顔を出していた美桜は、
全身に纏わりついた業炎を手で払い、ブレザーとスカートに身を包んだ、
モデルの如く整った体つきを露にする。
|白磁≪はくじ≫のような指先で払われた業炎の
彼岸花の花びらに似ていた。
「貴方のニオイから刺々しさが消えたから、様子を見に来たの。
……ふふ。この期に及んでももかの家族になりたいの?
愛らしい人ね。幸福な家庭なんかに憧れたりして……クズの分際で」
「っ!?なんだお前……。
俺の心を読んでるみたいに……!?」
路地裏の隅から姿を現した"美貌の魔女"。
魔女は巳隠学園の制服を身に纏っており、
昨日の夜見かけた黒いドレス姿の彼女よりも、いくらか幼く見える。
だが、『鬼』と化すことで彼女の『幻惑』を打ち破った宍色は、
美桜が見た目以上に凶悪な存在なのだと知っている。
彼女と対面したことで、宍色の中には再び、刑事としての矜持が蘇った。
「赤月、美桜……。
てめえには聞きたいことが山ほどある。
3年前の事件についてもだが、とりあえずは……だ。
こないだの美女誘拐事件の犯人―――"蜘蛛の怪人"とかいうのを生み出したのはお前だな?
お前には人をバケモノに変えちまうチカラがある。
なんせ俺を、こんなバケモノに作り変えたくらいだからな……」
「人聞きが悪いわね。私はただ目覚めのキスをしただけよ?
……貴方の理性に眠らされていた、欲望という名のお姫様にね」
「うるせええええええ!!!!」
宍色は背中から、羽根が生える。手足が甲虫の如く硬質化し、
両手には鋭いカギ爪が備えられた。
その身体からは妖力が迸り、砂を交えた小さな竜巻が、
彼の周囲にいくつも発生した。
竜巻たちが弾け飛び、強い衝撃波が美桜の長い黒髪を靡かせた。
宍色のオールバックには数本の赤いメッシュが走り、両目も赤く変貌している。
バケモノに変身した宍色は、勢い良く美桜に飛び掛かった。
それを見て、美桜は両目を見開いたまま口元をつり上げた。
その瞳は弾丸のような宍色の動作を、完全に捉えきっている。
襲い掛かってくる宍色に右手の人差し指を向けると、宍色の身体が炎に包まれた。
灼熱の炎に焼かれた宍色だが、彼は全身が燃えるのも構わず突進を続けた。
宍色の体当たりを避けるため、美桜が飛び退こうとする。
そのときだった。
「……。|鬱陶≪うっとう≫しい、わね」
美桜の足元には砂の渦が発生し、その白く細長い両脚をがっちりと掴んでいる。
下半身を捕らえられ、身動きの出来なくなった美桜の端正な顔に、
燃え盛る宍色がカギ爪が振り落とした。
―――捕らえた……!
宍色が手応えを感じた、そのときだった。
「な、に……!?」
両目を赤く発光させた美桜の右手が、宍色のカギ爪を難なく受け止めている。
バケモノと化した宍色の腕力、燃え盛る炎によって数千℃にも至るはずの表面温度。
しかし華奢な女はそれをものともせず、
カギ爪を片手で掴んだまま余裕の表情を浮かべている。
美桜の怪力に恐れおののいた宍色は、
慌てて彼女から身体を引き剥がし、宙を舞った。
上空に逃げた宍色は、4つの薄い羽を羽ばたかせ、全身に纏わりついた炎を払う。
距離を取った宍色を「ふふ」と鼻で笑った美桜は、
灼熱の業火で―――事もあろうか己の身を焼いた。
炎の中で、女の影が揺れる。
その影は苦しむ様子など見せず、悠々と立ち尽くしている。
地獄の業火の中で、女の右腕が形を変える。
柔らかな線が、刺々しいシルエットを帯びていく。
炎のカーテンが開け放たれた時、美桜の姿は『鬼』へと変身していた。
白く細長かった腕は、赤黒く禍々しい『鬼の腕』と化している。
真っ赤な両目。長い黒髪の中の赤いメッシュ。そして、異形と化した身体の一部。
自分と似た容姿をした異形のバケモノがいま、宍色の目の前に居る。
「……俺をバケモノにしたお前がバケモノになれねえ道理はねえか……。
ちきしょうが……!」
「あら、女の子に対してバケモノだなんて酷い言い草。
だけど貴方も、人の容姿をどうこう言えた姿ではなくてよ?
アリジゴク……
美桜の足元の渦は依然としてその両脚をがっちりと捕まえている。
しかしそれ以上は美桜の身体を飲み込めずに居た。
美桜を異空間に放り込むことを諦めた"カゲロウ"は、
その薄羽で空中を泳ぎ、美桜の背後へと回る。
そして、上空から一気に急降下し、身動きの出来ない美桜にカギ爪を振り下ろした。
両脚を固定された美桜の、死角に回っての一撃。
背中に腕を回してガードしようとしたところで、
満足に重心はかけられず、充分な防御ができない。
有利なポジションからの一撃を狙ったカゲロウだったが、
彼は美桜の能力を甘く見積もりすぎていた。
「残念だけど、今の貴方では私に一撃をくれることすらままならない」
美桜の背中には、赤メッシュの走った長い黒髪がある。
頭皮から生える20万本もの長い黒髪。
彼女はその一本一本を自在に伸び縮みさせ、触手のように操ることが出来る。
無数の髪の毛が、弾丸のような速度で伸び、
カゲロウの身体をいとも簡単にすくめ取った。
美桜に突撃しようとしていたその身体は、
彼が進みたかった方向とは真反対の方向に引っ張られ、
ギシギシと骨の軋む音を発する。
カゲロウの身体は地面へと大きく叩きつけられ、
地面のアスファルトや建物の壁など、あらゆる場所に引きずりまわされ、弄ばれた。
「ぐわアアアアああああああああああああああああああ!!!」
叩きつけられた際に軽い脳震盪を起こしてしまったカゲロウは、
前後感覚がおぼつかなくなっていた。
いつ終わるとも知れない引き回しの刑に絶望した彼は、やがて時間の感覚を手離す。
カゲロウの薄羽は1枚失われ、残る3枚もどこか一部が欠けてしまっていた。
触手たちは動かなくなったカゲロウの身体を開放し、
己の両脚を固定していた砂の渦を鬱陶しく思った美桜は、両脚に業火を発生させ、
渦を焼却したうえで上で、その炎ごと蹴り払って霧散させた。
無数の髪によって弄ばれ、あっさりと瀕死に追いやられたカゲロウの傍に、魔女が近寄る。
体力を失い、人間の姿に戻っていく"宍色"の瞳に、美桜の美貌が映りこんだ。
その瞬間、彼の心に死の恐怖が去来する。
「ひっ……!く、来るな……!」
「いやよ」
髪を短く切りそろえられた宍色の頭を、『鬼』の手が乱暴に掴みあげる。
目を見開き、脂汗を垂らす宍色に、美桜が妖しく囁いた。
「思い出してよ、貴方の欲望を……。
貴方が本当に欲しかったもののことを……」
「俺が……本当に欲しかったもの……?」
美桜の赤い瞳が、宍色の心を鏡のように映し出す。
瞳の中では|東雲≪しののめ≫家と宍色が一つ屋根の下で暮らす幸せな光景が流れていた。
彼が欲しかったのは、家族だ。
産まれてからずっと、自分を受け入れてくれる温かな居場所を、彼は求めてやまなかった。
だがバケモノの瞳は、
そんな可愛げに満ちたささやかな欲望など
瞳の中の光景は、裸で乱れ狂う親子3人の、怠惰で猥雑なロマンポルノの映像へと変わった。
ポルノ映像の中で、母と子はやがてオスの底なしの欲望によって衰弱しきり、
ついには犯し殺される。性欲によって一つの家庭を滅ぼした浅ましき下郎は、
|母子≪おやこ≫の屍をよそに、一人だけベッドから立ち上がり、
次なるメスを求めて舌なめずりをするのだった。
一連の映像を見せ付けられた宍色は、
"それ"こそが自分の本当の欲望であると錯覚させられた。
美桜の『幻惑』によって認識を書き換えられ、
彼の中のささやかな希望は、ドス黒い欲望に塗りつぶされた。
美桜の『鬼の腕』に捕まれていた宍色の頭部は、
彼女が手を離したことによってアスファルトの海へと落ちていく。
地面に顔を埋めた宍色。薄れゆく意識の中で、
彼は頬に何か柔らかいものが当たるのを感じていた。
女からキスをされた感触だと彼は前後もおぼつかない頭で悟る。
宍色が視線を上げると、そこには美桜の妖艶な笑顔があった。
「思い出せたかしら?貴方の本当の欲望を」
「あ……あぁ……そうだ、俺は、俺は、
女を喰いてえ!!!!!
全ての女を、喰いつくしたくてたまらねえ!!!!!」
「ふふ……お元気ですこと」
「まずはお前だ赤月!!!!
お前みたいないい女を喰らって!!!!子供を!!!!子供を孕ませてやる!!!!!」
「……あらあら。愛らしい欲望が、歪んだ形で残ってしまったみたいね」
宍色の、"家族が欲しい"という欲望はすっかり歪んでしまい、
美桜の予想以上に過激で陰湿なものとなってしまった。
彼女は少々面食らった様子だったが、
歪んだ色情に狂った宍色のことを更に刺激するためか、
艶やかな言葉を投げかける。
「いいわよ?貴方がもっともっと
私好みの穢れた命になれたら……。
その時は、私に触れさせてあげる。
この世では決して味わえない、極上の快楽を貴方にあげる。
だからその日まで、沢山の女を喰らって、"あの子"を失望させてちょうだい?
貴方があの子に食欲を抱けるようになったとき、また逢いましょう?
……次のデートを楽しみに待ってるわ。宍色さん。
ふふっ、うっふふふふふふ」
地面に伏せたまま動けないで居る宍色を放って、美桜は歩いて去っていく。
艶やかに揺れるその長い黒髪を、宍色はずっと物欲しげな表情で見ているしか出来なかった。
―――ちくしょう……!食いてえ……!食いてえ……!!!!
どうやったらあの女を食える?
……沢山の、女を喰らう? そうすれば赤月を、俺のモノにできるのか……?
極上の快楽が、味わえるのか?
欲望を高める宍色だったが、
抗いがたい身体のダメージが、彼の視界から光を奪っていった。
小梅からの着信によってスマホが震えていることには気づかないまま、
宍色の意識は、ついに暗闇の中に飲まれていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます