第6話 浅ましき下郎 (4)


 暗い路地裏の隅に突然、砂の渦が巻き起こった。

渦の中から大きな体躯をした男が一人、飛び出てくる。

本日二度目の『捕食』をし損ねた宍色が、

がっくりと膝をつき、地面に両手をついている。

体からは赤色が消え、彼はヒトの手足を取り戻した。


「なんなんだよ……どうしちまったんだよ俺はああああああああああああああああ!!!!!」


喉が枯れるほどの大声で叫ぶ宍色の姿を見た近隣住民は、

いかにも迷惑そうな顔で宍色を見た。


その路地は古い木造アパートと居酒屋テナントの立ち並ぶ細い道の一角で、

真昼間のこの時間帯には夜の仕事を生業にするものたちが自宅の中で寝入っている。


ベランダに腰掛け、タバコを吸っていた水商売の女が、

叫び声をあげる宍色をうっとおしく思い、110番に電話を入れて、

『近所で騒いでいる変質者が居るのでなんとかしてほしい』と言った。


目の前の変質者―――宍色鴇也ししいろときやこそがその警察関係者だとは、

彼女は夢にも思っていないことだろう。


「ちきしょう……誰か……誰かぁっ……!!助けてくれぇぇぇぇっっっ!!!!」


砂の渦は異空間へ繋がるワームホールとなっている。

渦の中へと獲物を引きずり込み、異空間の中でその血肉を喰らうのが、

『鬼』と化した宍色の捕食方法だ。


異空間から出る際は、『入り口』となった箇所から半径10Km圏内の任意の地点に

『出口』を作ることが出来る。


つまり彼は、半径10kmの圏内なら自在に空間移動が出来るということだ。


渦の中へ逃げ込むことで朱道たちから逃げ切れた宍色だったが、

彼が最も逃げたいと思うもの―――すなわち、己の欲望からは決して逃げられずにいた。


喰いたい。

くいたい。

クイタイ。


女を、喰いたい。


宍色の中で、なおも欲望が暴れまわる。

その欲望を、なけなしの矜持プライドが阻んだ。


「もうやめてくれ……俺はこれ以上、殺しなんか、やりたく、ねえ……」


涙混じりの悲痛な声が、宍色の口から漏れた。

陰泣署内で"泣く子も黙る"とまで言われた男の情けないその姿は、

彼が今まで幾度となく踏みにじってきた者たちが、

"見たい"と望んで止まなかった無様な醜態だ。


どれほど辛かろうと、苦しかろうと、

彼のような下賎な盗賊ごうかんまには、すくいを求める資格などないのだ。

そのことは、彼自身が一番良く分かっている。


されど宍色は手を伸ばした。

水の中でもがく者が、藁に手を伸ばすように。


その行為には、罪も罰も因果もない。

ただひたすら、純粋な、プリミティブな、『生きたい』という欲求が彼に腕を伸ばさせた。


喉の渇きが最高潮に達し、涙と脂汗が宍色の額を伝う。

己を見失いそうな渇きの中で、宍色は、神々しい光の幻覚を見た。


彼のジャケットの裏ポケットに入れられた、スマートフォンが鳴っている。

光はそのスマホから発せられていた。


―――そういえばさっきから、何度も震えている気がする……!


抗いがたき渇きの中で、着信など気にかける余裕のなかった宍色は、

その時久方ぶりにスマホを手にした。


液晶画面には、『東雲小梅』からの着信が4件も来ていた。

何かしらの急用だったのだろうかと思い、小梅に電話をかけ直そうとしたとき、

新たな着信が宍色のスマホを揺らした。


発信者の名前を示すスマホの液晶画面には、

『東雲ももか』の名前が表示されている。


―――な、なんでアイツが……俺に電話なんか……!?


宍色は震える指で、通話ボタンにタッチした。


『あの……もしもし?』


砂糖を煮詰めたような、甘い声がする。

それは紛れもなく、宍色があの日、手篭めにしようとした可憐な少女の声だ。

宍色は恐る恐る、電話の向こうの娘に語りかける。


「あ、ああ……あぁぁ……ももかちゃん?ももかちゃんか……?」

『はい。ももかです。

……あの、母が何度か電話を掛けたはずなんですけど、気づきました?』

「え?あ、いや、……すまない。色々、取り込んでいてね」


ただ事務的なやりとりをしているだけなのに、

抗いがたき喉の渇きが、ゆっくりと薄れて来ている。

宍色はももかの声を聞くことで安堵を覚えている自分に驚き、

そして同時に自己嫌悪に陥った。


己が食い物にしようとしたその娘に救いを求めることを身勝手だと思える程度には、

彼の理性はまだ機能していた。


『母から、大事な話があるそうなんです』


「大事な、話、だと?」


『母とは、付き合い始めて4年経ちますよね』


「……」


『だから、いい頃合いなのかなって。……そういう話なんだと思います』


『いい頃合い』。

その言葉の意味を悟るのは、豊富な人生経験を有する宍色にとって容易なことだ。

だからこそ、解せなかった。よりにもよって、ももかがそんな話を切り出すなんて。

彼女にとって宍色は、自分を手込めにしようとした卑怯な男として見えているはずだ。

そんな男に父親になってほしいとせがむとは、どうかしている。


「……わけが分からない。君は、それでいいのか?」


『……』


「俺は、君を襲おうとしたんだぞ?

その上、君の優しさにつけ込んで君を言いくるめようとした最低の男だ。


そんなヤツに、君の父親になってほしいのか?

お母さんの旦那になってほしいのか?

俺はまた君のことを、襲っちまうかもしれねえんだぞ!?」


宍色の声は、震えていた。

人の本性は悪であると信じて疑わない彼は、

ももかの言葉を信じることが出来なかった。


―――こいつは甘い言葉を|ささやきながら、

腹の底じゃ報復を企んでいるに違いねえ。


ももかの言葉は宍色の耳には、悪魔のささやきのように聞こえていた。


『……そうですね。あの時の貴方は、最低でした』

「へ、へへ、……だろ?」


ももかに罵倒された宍色は、そのことによってショックよりもむしろ安心を覚えていた。

これが自分に危害を加えようとした者への当然の反応だ。そうでなければ、道理がつかない。


『とても怖かったし、ショックだった。

貴方のことを信頼していたぶん、余計に裏切られたような気分になりました』


「……そうだろ?そうだよなぁ?」


宍色の相槌をうつ。ももかに責められるのは心地良い。

憎悪と打算のやりとりこそ人同士のつながり方であり、

どんなに心優しき者でもその法則から逃れることは出来ない。

ももかに恨まれることこそは、まさにその考えを肯定されているような気分になれる。


宍色が悦に浸っている間、

ももかは電話越しに、スーゥっという深呼吸の音を弾ませた。


『だけど』


その凛とした声色から、何かしら、強い"決意"のようなものを感じる。

宍色はただ、ももかの次の言葉をじっと待った。


『だけどね? 宍色さん。

貴方はこの4年間、私達親子にたくさん優しくしてくれました。


貴方と出逢ってからの母は、幸せそうな表情を浮かべることが多くなった。

父親の居なかった私は、貴方と接することで、父性への渇きを満たすことが出来た。


確かに私は酷いことをされました。でも、だからと言って

貴方が今まで私達に注いでくれた愛情が、全部ウソだとは思えないんです』


「……」


"それ以上言うな"

宍色の頭の中にはそう浮かんだが、その言葉を声として響かせることは出来ず、

彼はただ、唇をわなわなと震わせるしか出来なかった。


―――ももかは、俺を許そうとしている……?


彼女の意図を察した宍色だったが、

精神の奥深く、根っこの部分で全うな道徳心を備えている彼は、

これまで非道な行いに耽ってきた自身のことを、

地獄に落ちてしかるべき人間なのだと諦めているフシがある。


|厭世≪えんせい≫的な哲学を持ち、憎まれ口ばかり叩くのも、

散々人を食い物にしてきた己が、

今更まっとうな言葉を吐くことは恥だと思っているからだ。


だからこそ。

こうして追い詰められた先ですくいに手を伸ばす資格も、

誰かにすくいの手を差し伸べられる権利も、

自分にはないのだという自覚がある。


抗いがたき苦しみから救って欲しくて、手を伸ばしたこと。

ももかからの電話にひかりを見出したこと。

彼女と接していることで、こうして救われてしまっていること。


悪人である宍色にとって、その全ては恥ずべきことでしかなかった。


『宍色さん……』

「それ以上は、よしなさい。……君には俺を憎む資格がある」


ももかの制止する言葉が、ようやく口をついて出た。

勇気を振り絞って発されたその言葉は、

一切の我欲もない、純粋にももかを想って出た言葉だ。

この瞬間だけを切り取って言うならば、彼は今、まさしくももかの"父親"だった。


しかしももかは、そんな宍色の制止を振り切って言葉を続けた。


『信じたいんです。貴方のこと。

だからもう一度だけ、チャンスをあげます。

もう二度と、あんなことをしないと約束してくれるなら、

……私と貴方は、家族になれると思うんです』


遠い昔に置いてきたはずの血と涙が、宍色の中で蘇ってくるような感覚があった。

ももかの言葉は、宍色の胸を地獄のようにかき乱し、そしてまた、天国のように潤した。


彼は昔読んだ『蜘蛛の糸』の情景を思い浮かべた。

地獄の中で、救いの"糸"をもたらしてくれたももかのことを釈迦に重ね、

はるか昔の善行によって救われようとしている極悪人カンダタを自身と重ねる。


小梅と付き合っている間も、宍色は他の女に手を出し続けた。

小梅のこともももかのことも、彼女らの知らぬところで何度も裏切ってきた。


そんな自分が今、"彼女らの寂しさを多少なりとも埋めてきた"という、

ほんの小さな善行によって許されようとしている。


『また、母から連絡があると思います。……今度は、ちゃんと出てくださいね?』


ももかが優しい声でそう諭す。

宍色は、掠れた声でただ、「……ああ」と答えるしかなかった。

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