第6話 浅ましき下郎 (3)


 朱道刑事は助手席で青い顔をしている宍色を見て、落ち着きを失っていた。

この気配は……どうみても嘔吐する5秒前の人間が発するものと同じだ。

仮にも社用車―――警察車両の中で胃の中のものを吐かれてはシャレにならない。

車を止め、助手席のダッシュボードからエチケット袋を取り出した朱道は、

それを青い顔の宍色に渡した。


「すみませんね。宍色さん……気分悪いのに車になんか乗せちゃって……そりゃあ吐きたくなりますよね」

「い、いや、違う……別に吐きそうなわけじゃねえ。……済まねえな。ありがとうよ」


宍色はそう言って、差し出されたエチケット袋をダッシュボードの中に返した。

―――先輩にしては、やけに素直な物言いだ。

普段から想像のつかないほどしおらしくなった宍色の姿を見て、朱道は訝しむのだった。



今朝、署で朝礼を交わした際のことだ。

大野課長は半笑いで、「宍色が体調を崩した」と告げた。

それを聞いた捜査一課の刑事―――戸津野は、朝礼が終わった後、

「珍しいわね。あんなタフさの塊みたいな人が風邪引くなんて」と朱道に皮肉を漏らした。


―――みみっちい人だなぁ。

朱道はそう思ったが言葉にはしなかった。


どうも彼女が東雲ももかの一件を根に持っているらしいことを、

朱道は最近の戸津野の言動から悟っている。


だが、戸津野の皮肉にも一理ある。

宍色がベッドに臥せっている姿を想像すると、朱道はおかしくって仕方がない。


―――病人みたいにベッドで伏せってる宍色さんなんて想像出来ない。

コートを布団代わりにしてソファで寝てるみたいな、

昭和のハードボイルド探偵みたいな寝相が宍色さんにはお似合いだろう。


……もしかすると、連日そのような不摂生な生活をおくっているからこうして風邪などを引いてしまったのかもしれない。そう思うとなお可笑しさがこみ上げてきた。



その日の朱道は、今日退院するという吉田景子と石原あずさを見舞うことになった。

病院へ向かおうと車を飛ばしていると、その道すがらには、

フラフラと歩くガタイの良い男の姿が窓越しに見えた。

その後姿が、朱道が良く知る先輩の後ろ姿と重なる。

間違いないと確信を抱いたところで、朱道は車のブレーキを踏んだ。


「宍色さん!?」


運転席のパワーウィンドウを下げ、朱道が声を掛けると、その男は振り向いた。

その表情は、普段の彼から想像もつかないほど弱弱しく、

青ざめており、額には脂汗が滲んでいた。



 道端で後輩の車に偶然出くわした宍色は、

外を出歩いていたその理由を、「病院帰りだ」と偽った。


実際のところ、通院は数時間前に済ませてある。

宍色が外へ出ていたのは、家の中に居たくなかったからに他ならない。

家に居れば、自分の冒した罪のことを否応にも意識させられる。


朱道の運転に身を任せながら、

宍色はスライドショーのように流れていく外の景色を、

ただひたすらに見つめていた。だが彼の瞳には景色など見えていない。

彼が見ていたのは、先ほど自宅で起きた一連の出来事の記憶だった。


宍色は今朝、バケモノと化した。

背中から4枚の薄い羽根を生やし、どこからともなく砂の渦を発生させ、

見舞いに来てくれた愛人―――アリエを食い殺したのだ。

渦の中へ落としたアリエの身体を欲望のまま引き裂き、

その柔肌に牙を突き立て肉を啜り、

干からびた亡骸を渦の中に放って部屋に戻ってきた。


砂の渦いじげんから帰ってきた宍色は、

食器棚のガラスに映し出された自身の姿を見て悲鳴を上げた。


角刈りの髪の一部が赤く染まっており、

両手両脚は甲虫の皮膚の如く硬質なものへと変質している。

指先にはカギ爪が備わっており、その爪でアリエの身体を裂いたのだ。


背中には薄い4枚の羽根が生えており、

それらは宍色の意思を込めると、手足の如くうごめいた。

そして、その両目は鬼灯ほおずきのように赤く発光している。


赤い瞳を有した人間―――どこかで見覚えのある身体的特徴だ。

宍色はそれが誰の者だったか、寸でのところで思い出せずに居た。


「な、なんだよ……?こりゃあ……?これじゃまるで……バケモノ、じゃねえか」


その昔、ハエと合体してしまった男の姿を、宍色は映画で見たことがあった。

ハエ男がヒロインに銃で撃ち殺されるシーンを見て、

少年時代の彼はケラケラと笑ったものだ。


しかしまさか自分が似たようなバケモノと化してしまうとは、

宍色も全く予想だにしていなかった。


アリエの肉体を喰らったからか、すでに喉の渇きは癒えている。

潤った喉の状態を意識すると、宍色の身体がたちまちヒトのそれへと"退化"していった。


ガラスに映る自分の皮膚が、瞳が、髪色が、

人間のものに戻ったのを見届けた宍色は、

確かな実感として指先に残る、肉を裂く感触を思い出し、口元を抑えた。

嘔吐しそうになるのを我慢して、弾かれたように家の外へ出て行く。


バケモノである自分がアリエを食い殺したという事実を、

彼は認めることが出来なかった。

己の欲のために非道の行いすらいとわなかった宍色だが、

"人殺し"だけは、彼にとって超えてはならない一線だった。


正義の味方でありながら、罪をもみ消すような真似をしてきた。

他人の弱みを握っては食い物にするような真似だって散々してきた。

警察ひかりでありながら悪人やみであり、自らが手錠を掛ける相手と自分との間にそれほど差はないのだということを思い知らされる毎日の中で、

唯一つだけ、己は罪人ではないのだと思い知らせてくれる判断の基準となったもの―――それこそが、『殺人を犯したか否か』であった。


その基準を頼りに、マル暴を追放された今の彼は、

いくつもの殺人事件を追ってきた。

陰泣署捜査一係―――殺人事件を取り扱う刑事として。


つまり彼は今、刑事としてわずかばかりに残っていた

正義感プライドすら失ってしまったのだ。




「なあ……朱道……。俺はもうじき、お前の先輩じゃ居られなくなる」


「……急にどうしたんですか?転勤の話でも出てるんですか?」


「ちげえよ。そうじゃねえ。……やりすぎちまったんだよ、タブーを犯しちまった」


「はっはっは!宍色さんがタブーを犯すのはいつものことじゃないですか!」


「……そうだな。でもよぉ。今俺が犯しちまったのは他人が作ったタブーじゃねえ。

自分で、『これだけはヤラねえぞ』って決めてたことだ。

……俺は俺の超えちゃ行けない一線を越えちまったんだよ」


もはや、一刻の猶予もない。

あの異常な精神状態が、いつまた自分に襲い掛かってくるか分かったものではない。

アリエを殺したときの自分は、まるで自分ではなかった。

抗いようのない生理的欲求が、宍色の理性を溶かし、犯行に至らせた。

次はいつ、自分の中の"バケモノ"が目覚めるのか検討もつかない。


―――なら、せめて。

ならせめて、全てをこいつに託そう。

この十数年、刑事として生きてきた、

俺のなけなしの正義を。なけなしのプライドを。

わずかばかりに残っている、"人間"としての、俺の魂を。

朱道は少し頼りないところがある男だが、やるときはやる男だ。

こいつになら全てを託せる。


「朱道。俺はな? 3年前から、『長い黒髪の女』とは妙な因縁があるようだ。

アイツを逮捕しない限り、俺の"人間の部分"は死んでも死に切れねえ」


「は、はぁ……」


「アイツが何者だか知らないが、

二つの怪事件に深い関わりがあることだけは確かだ。

東雲ももかの周辺を当たれ。ももかの友人に、

行方の知れない『赤月邸』の持ち主と同じ名前の女が居る。


……赤月美桜。そいつが、『長い黒髪の女』で間違いない」


「『赤月邸』?……それって、例の心霊スポットの?」


赤月美桜。

改めてその名を口にしてみた宍色は、

パァッと頭の中が澄み切っていくような感覚を覚えた。

ほつれた糸が解かれていくような、清清しい感覚。

『鬼』と化したことで美桜の『幻惑』を打ち破った彼は、

3年前の事件にまつわる全ての事柄を思い出していた。


宍色は『赤月美桜』のことを、細部に至るまで詳しく知っている。

家族構成も、通っていた学校も、交友関係や趣味の活動に至るまでも、全て。


―――なんで今までこんな重要なことを忘れてしまっていたんだ。

何が『長い黒髪の女』だ。何が詳細不明の怪事件だ。

何が……家主の居ねえ心霊スポットだ。


あの事件の顛末も真犯人も。俺は全部知っているじゃねえか。

『赤月邸』の持ち主。その真の名は……。



ドクン。

その時、宍色の心臓が、大きく跳ねた。

真実を思い出したから、といわけではない。

彼の中の抗いがたき本能が、目覚めてしまったからだ。


宍色の目線の先には今、女が居る。

コンビニから出てきたその女はレジ袋を抱えている。

袋の中身が透けて見えた。にんじんと鶏肉のパックの赤色が、

遠目からでも目立って見える。

その隅には、シチューのルーのパッケージが見えた。


あの女は今夜、家族にシチューを振舞うのだ。

息子と娘が二人。父の帰りをまって、同じ食卓で晩飯を囲う。

ごくありふれた、幸せな家庭の光景。

宍色は『鬼の嗅覚』で、女が抱くその光景を垣間見てしまった。


―――家庭的な、女。

抗いようのない食欲さついが、宍色の奥底から目覚めてくる。

アリエを食い殺したときのあの感覚が蘇ってくるのを、宍色は感じていた。


「ぐ……ぐおおおおおおおおおお!!!」

「どうしました!?大丈夫ですか!?宍色さん!!」


車を止め、心配そうな顔で先輩を覗き込む朱道。

苦しそうな顔で胸を押さえる宍色が、後輩に最後の希望を託すため、声を振り絞る。


「な、なあ、朱道。

……今の俺なら分かるんだ。

あの日、吉田景子やももかが言ったことは本当だったってな……。

今回の事件の被害者は、元々4人だった。おそらく、蜘蛛の怪人ってのも本当にいたんだ。

"怪人"の仲間入りしちまった今だからこそ、はっきり分かる」


「怪人の仲間入り……?宍色さん、なんだかさっきから様子が変ですよ!」


「お前の抱いた違和感は、正しかったよ。

その勘を、大事にしろ。……違和感を、絶対に見落とすな」


「し、宍色さん……?」


宍色の言葉を聞きながら、それがまるで遺言であるかのように朱道は感じていた。

その感覚はあながち全くの間違いでもない。

それは、宍色の"人間"の部分が放った遺言そのものだからだ。



突然のことだった。

宍色が突然、助手席のドアから外へと出てコンビニめがけて走って行った。


バタン!と激しい音を鳴らして助手席のドアが閉まると同時に、

40歳手前の中年男であるはずの―――体力を失い青白い顔をしているはずの宍色が、まるで弾丸のように俊敏な動きで、

コンビニ前の歩道を歩いていた女性の元へ駆け抜けていった。


そして宍色は、買い物袋を腕に下げていたその若い女に掴みかかった。

ワケの分からない怒声を上げながら、

宍色は女の肩を掴みその身体を力任せに揺らす。

レジ袋からにんじんが、鶏肉が、シチューのルーが、飛び出て転げ落ちていく。


「てめえ!!!!!!よくも俺を裏切りやがったな!!!!!!」


"裏切った"とは何のことなのだろうか?

傍目から見ていた朱道には、宍色とその女との関係性が分からなかった。


そしてそれは、今宍色に暴力を受けている女の方でも同じだった。


二人は全く面識のない赤の他人だ。

女は宍色の顔も名も全く知らない。だが、

彼が危険人物だということだけは見れば分かる。

あまりの恐怖に硬直し、目を見開いたまま唇を震わせ、女はただ、涙を流した。



先輩のあまりの豹変振りに困惑した朱道は、

急いで車を降り、宍色と女との間に割って入った。

宍色の腕をつかみ、逮捕術の要領でひねり上げ、拘束する。


「何してるんですか宍色さん!!!一体その人が何をしたって言うんで……」

「だまれえええええええええええええ!!!!!」


宍色は朱道の拘束を難なく剥がし、彼の体を片手で突き飛ばした。

朱道の身体は10メートルほど先へ弾き飛ばされ、

黒光りする硬いアスファルトの上へと沈み込んでいく。


警察学校で柔道初段を手にしていた朱道は、

咄嗟に受身を取ることでダメージを防いだ。


―――なんて馬鹿力だ。


いくら体格差があるとはいえ成人男性である自身が、

片手で突き飛ばされただけで10メートル先まで投げられたことに、

朱道はひどく驚いていた。


「ぐぅっ……!?……なんなんだこの力……?」

「くせえ……くせえぞ……。

お前の罪のニオイが、俺の理性をオカシクするぅぅうぅぅぅうううううう!!!!!」


|宍色≪せんぱい≫は一体どうしてしまったというのか。

理性を失ってしまったかのように暴れ狂う宍色の姿に、

朱道は得も知れない恐怖を覚えた。


「女ぁ……!女ぁ……!!!

俺に謝れぇっ!!!懺悔しろぉぉっっ!!!

お前が悪いんだよぉぉぉぉ!!!!

全ての女は、俺に懺悔するんだよぉおぉぉぉおぉぉ!!!!!」


狂った宍色の顔に、青い血管が数本浮かび上がっていた。

獣のような咆哮がほとばしり、大地を揺らすような錯覚が朱道を襲った。


ばきばき。みちみちみち。ごりごり。

鋼鉄の軋むような音を発しながら、宍色の姿形が"変身"していく。


背中からは4枚の薄い羽が生え、

両手足は甲虫のそれのように、硬く鋭くなっていく。


人体から決して聞こえてはならないような、|鉄≪くろがね≫の音が響く。

宍色の両眼と頭髪の一部は、血液がにじみ出たように赤みを帯びた。


そして宍色の姿は、完全なる『|鬼≪バケモノ≫』と化した。


「し……宍色……さん……?その姿は一体……!?」

「ああああああああああああああああああああ!!!!!」


『鬼』が女に向けて、手をかざす。

その殺気をとっさに感じ取った朱道は、

「危ない!」と声を掛けながら、女の身体を抱きかかえて飛び退いた。



一寸前まで女が居た場所に、砂の渦が発生した。

鶏肉とにんじんが砂の渦に飲み込まれ、地上から消え去っていく様を、

朱道はつばを飲みながら見つめていた。


「あ、あぁ……」

「し、しっかりしてください!奥さん!」


腰を抜かし、力なくへたり込む女の身体を、朱道が支える。

目の前の『鬼』が、じわりじわりと一歩ずつ近づいてくる。

血走った眼の『鬼』には、どれほど呼びかけても無駄だと思わせる迫力があった。


「戦うしか、ないのか……!」


スーツの下に隠していた警棒を手に取り、

朱道は先輩の顔をした『鬼』へ斬りかかった。

しかし『鬼』はその一撃を片手で難なく掴み取り、

警棒ごと朱道の身体を投げ飛ばす。


丸めたちり紙を投げ飛ばすかのように無造作な投げ方。しかしその程度ですら、

警察学校で鍛え上げられた朱道の屈強な体をいとも簡単に投げ飛ばしてしまえる。

朱道の身体はコンビニの強化ガラスに強く叩きつけられ、その視界を一瞬暗転させる。

今度は受け身をとれず、強化ガラスの反作用を直に喰らってしまった。


「か、はぁっ……!」


すぐさま顔を上げた朱道の眼に、

地面にへたりこんで怯える女性と、じわりじわりと彼女に歩み寄る『鬼』の姿が映った。


女性に向け、「逃げて!」と大声を発した朱道だったが、

腰を抜かした女性は立つこともままならないらしい。

これでは、すぐにでも『鬼』に捕らえられてしまうことだろう。


もはや絶体絶命と思えた、そのときだった。


『鬼』は自身の頭を押さえ、突如悶え苦しむような動作を見せた。


「ぐ……おお……!!やめろぉ……!

俺は……!もう人なんか、食いたくねえ……!」


『鬼』は何もない空中に手をかざし、砂の渦を発生させ、その中に飛び込んだ。

『鬼』の身体を飲み込んだ渦は、"主"を飲み込むなり、急速に萎み、霧散していく。


渦はやがて完全に消え去り、辺りには朱道と女だけが取り残された。

脅威は過ぎ去ったが、女は未だバケモノに襲われた恐怖から立ち直ることが出来ず、

腰を抜かしたまま口をパクパクさせ、涙を流している。


地面に伏した朱道は、市民を守り通せた安堵から、意識を手離しつつあった。

朦朧としだした意識の中、朱道の頭の中には『鬼』の姿に変身する前に先輩が言った言葉が蘇ってくる。


彼がくれた、『長い黒髪の女』の情報。

それは、単なる捜査情報ではなく、もっと特別で、純粋な……。

宍色から託された"バトン"のようにすら思える。


「赤月、美桜……」


託されたバトンを大事に握り締めるかのように。

朱道は女の名前を呟きながら、決してそれを忘れないよう心の奥深くに刻み込んだ。


朱道は、暗いまどろみの中に落ちていった。

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