第5話 魔性の誘い (1)



 シャワーから噴き出たお湯が、柔らかな曲線をなぞる。

私の肌を滑っていく流水たちが、タイルに滴り落ちて排水溝に飲まれていく。

シャワーを浴びながら、ボディーソープで身体を洗うこともせずに私は、

ただ浴室でボンヤリとして、流れるお湯の動きをじっと見つめていた。


私の頭は、さっき見た不穏な光景のことで一杯だった。

私と、母と、宍色さんと……美桜ちゃん。

4人で晩御飯を食べていたあのとき、

美桜ちゃんの雰囲気が急に変わった。

―――柔和な笑顔から、冷たい嘲笑へ。

あの瞬間、彼女は間違いなく冷酷なバケモノへと変貌を遂げた。


なんで急に、美桜ちゃんがあんな顔つきになったのか……?

さっきからずっと、最悪のイメージが私の頭の中を占めて離れないでいる。


分からない。はっきりしたことは何も分からない。

だけど、一つだけ確かなことがある。

彼女の中の冷酷なバケモノが表に出てきたということは……つまり。


美桜ちゃんは、

あのレストランの中で新たな獲物ターゲットを見つけ出したんだ。

美桜ちゃん好みの、"浅ましい人間"があのレストランに居たのだ。


―――まさか……違うよね?

美桜ちゃんが狙ってる人って……違うよね?


胸のざわつきが、さっきからずっと、止まってくれない。



お風呂から上がった私が美桜ちゃんの部屋に行くと、

私より先にシャワーを浴びていた美桜ちゃんが、白いバスローブを纏ったまま、

ベッドに腰掛けて脚を組んでいた。


バスローブの裾が、組み上げた脚にくられて、

美桜ちゃんの白く細長い太ももを曝け出している。

どこか気だるげな彼女の佇まいと相まって、

その光景がとてつもなく扇情的に見えた。


なんだか見てはいけないものを見ているような気持ちになった私は、

恥ずかしくなって、ふと目を逸らした。


「ねえ、ももか……」


ブレスが混じった艶やかな声で、美桜ちゃんが私の名前を呼ぶ。

甘い、女の声だった。

聞いていて脳が痺れそうになるくらい、その声は魔性を孕んでいる。


視線を逸らしておいて良かった。

ベッドの上には今、老若男女を問わず、見る者全てを虜にする魔性の女が居る。


「私ね? 食べたい相手が見つかったのよ」


ドキドキ、する。

美桜ちゃんがいかがわしいムードを醸しているから、だけじゃない。

怖いからだ。

美桜ちゃんが、私が想像している人の名前を、囁くのが。


「―――宍色、鴇也さんっていうの」

「……!」


やっぱり。

そうだと思った。

宍色さんは、美桜ちゃんに会わせるには、あまりにも欲深すぎた。


「……その人は、食べちゃダメだよ」

「……どうして?」

「その人は、お母さんの大事な人なの。……その人が居なくなれば、私のお母さんはとても悲しむ。パパが……お父さんが居なくなっちゃったときみたいに。

……だから!」


くっく、と美桜ちゃんが喉を鳴らす。

まるで私をあざ笑うかのようだった。


「……お義母さまの大事な人だから、食べちゃいけないのね?」

「そう……だよ」


確かに、宍色さんにはとても怖い思いをさせられた。

彼から逃れるために、美桜ちゃんを頼った。


だけど……だけど……。

この世から居なくなってほしいとまで、願ってはいない。

美桜ちゃんに……食べさせるわけには、いかない。


「なら貴女にとっても、大事な人なのかしら?」

「え……」



答えづらい問いを受けて、私は言葉に詰まった。

美桜ちゃんの喋り方は、普段よりねっとりとしている。

―――彼女は、言葉で私を弄んでいる。


「ねえ、正直に答えて?

宍色さんは、貴女にとっての、何かしら?」

「わ、私にとっての……」

「"世界で一番浅ましい人間"……そうよね?」

「ち、違う……!私は、そんな風になんか、思ってない……!」

「本当にそうかしら?」


むず痒い部分をつついて、焦らすかのように、

彼女はなおも、言葉で私を責める。


「お願いだからこれ以上、私の周囲の人を消さないで……」

「じゃあ、傍においで?

……私の思い通りにさせたくないなら、何をすればいいか分かるわよね?」

「は……い……」


私はバスローブをはだけ、首元を露にして美桜ちゃんの膝元に座った。

美桜ちゃんの女性らしい、柔らかくて暖かい肌の感触が、背中越しに伝わってくる。

―――彼女は、私の血を欲しているのだ。

その食欲を抑えるための、ダイエット食品として。


すぅ。すぅ。

美桜ちゃんの吐息が、うなじに当たる。

彼女はしばらくそうして、私の血を吸おうとしなかった。

焦れったさのようなものが、私の中に溢れてくる。


「ね、ねえ……私の血、吸わないの?」

「もう少し、お話をしましょうよ。こういうときは、ムードが大切なのだから」

「そんな、いかがわしい言い方しないで……」

「ももか……」


ももか。

ももか。

ももか。


私の名前を呼ぶ何度も美桜ちゃんの甘い声を聞いていると、

段々と、耳の奥が痺れるような錯覚に陥った。


私はまるで、彼女の魔法にかかったみたいに、意識を甘い領域へと上擦らせられる。

おかしい。私には、『鬼』の幻惑は効かないはずなのに。

私は彼女の色気にすっかり当てられて、惑わされている。


夢見心地へと上り詰めていく私に、美桜ちゃんが囁いた。


「本音をおっしゃい?あの男に、居なくなってほしいんでしょう?」


さらに上へと、もっと上へと。

登り詰めて、どこか遠くまで吹き飛ばされてしまいそうになった私の意識は、

その一言で急に現実へと引き戻された。


「あの男が居なくなれば、貴女が犯される心配もなくなるわよ?」


甘い声を一転させ、冷静なトーンで言い放つ美桜ちゃんの言葉に、

冷水をかけられたみたいに、さぁっ、と夢見心地が引いていくのを感じる。


「な、何言ってるの?お、"犯される"って……」

「私は何でもお見通しよ。

本当はあの男に襲われたから、私の元へ来たのでしょう?」

「……っ!」


それ以上、何も答えることが出来ず、私は口を閉ざして俯いた。

母親の彼氏に襲われただなんて恥ずかしいこと、誰にも知られたくなかった。

しばらく沈黙した後、私は口を開いて、言った。


「ち、違うよ?」


口を付いて出たのは、稚拙な嘘だった。


「そんな、美桜ちゃんが想像するようなことなんてなにも……」


図星を付かれたのに、咄嗟にごまかそうとした。

なんでかは、私にもはっきりとは分からない。


母親の彼氏に襲われたことを知られるのが恥ずかしかったのもあるし、

宍色さんの悪行を認めることで彼女の人食いに正当性を与えたくなかったのもある。


だけど一番の理由は、それが私の"クセ"だからなんだと思う。


大丈夫じゃないくせに『大丈夫だから』と言って、

他人を遠ざけてしまう私のクセが、咄嗟に出てしまったんだ。


美桜ちゃんはそんな私をあざ笑うかのように、ゆっくりと囁いた。


「う」

「そ」

「つ」

「き」


一言ずつ、ゆっくり囁き終えると同時に、

外気に晒した私の肩を、鋭い牙で貫いた。


「が……あっ……!?」


その噛み方は、いつもより激しかった。

あまりの痛みに肩がバラバラになってしまったような感覚が押し寄せてきた。

美桜ちゃんは、私を痛めつけるために、あえて深く牙を差し込んだんだ。


「どうして庇うの?自分を犯そうとした男のことなんて」

「痛い……痛い痛い痛いよぉ!離してぇっ!やだよぉ美桜ちゃぁん!!」

「離してほしいのなら言いなさいな。『宍色鴇也を食べてください』って。そうすれば、痛みから解放してあげる」

「やだぁ……!そんなこと……そんなこと絶対に言えない……!」


怖い。痛い。私の肩を掴む美桜ちゃんは、文字通り『鬼』の形相をしている。

だけど、私は、美桜ちゃんに屈するわけにはいかない。


「宍色さんは、ママがやっと見つけた、大切な人だから。

あんな人でも、居なくなればママが悲しむから……。

だから絶対言わない……もう、見たくなんかない……。

パパを失ったときみたいな、ママの表情は……」

「そのために、自分が穢されても良いって言うの?」

「良くない……だけど、ママには幸せで居て欲しい……!」


私の瞳から、大粒の涙が溢れてくる。

痛みで、意識が霞んでいく。


「……まるで他者の養分になるために産まれてきたような子ね、貴女は。

つくづく清らかな子。


うふ。うふふふふふ。

こうなったら、絶対に見たいわ。貴女が他人の破滅を願う様を。

ねえ言ってよ? 『あの人を食べてください』って。



たった一度で良いから、言って見せて? ね?

……優しい貴女のお口から、呪詛の言葉が聞きたいのよっ!!」


「やだっ……そんなこと、私は言えないっ……!絶対言わないっ……!」

「ふふっ。言うわよ貴女は。絶対に言う。私が必ず言わせて見せる!!」


そう言って、美桜ちゃんはさらに私の肩を強く噛んだ。

痛みが、私の意識をより薄れさせ、途切れさせていく。


意識を失う寸前で私が見たのは、

暗い嗜虐しぎゃくよろこびに満ち足りた、美桜ちゃんの綺麗な顔だった。

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