第47話細い月が輝く夜に
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜になり、細い月が辛うじて空にささやかな輝きを灯す頃。
(悪魔はまだ現れないようね……)
修道院の真上でセレネーはホウキに乗って滞空し、注意深く辺りの様子を伺っていた。
心地良い夜風がそよそよと吹き、緊張で強張る体を労ってくれる。何もなければホウキで空を駆けるのに絶好の環境。せっかくだからとカエルを夜空の遊泳に誘えないのは残念だった。
きっとこれが終われば、翌日には解呪が果たされるだろう。
旅の終わりが、こんな殺伐とし危ない橋を渡るようなことだなんて……と思ってしまうと、せめて一日だけ解呪を先延ばしして、旅の思い出に行きたい所をあちこち回って遊び倒したくなる。
元に戻っても会うことはできる。でも、旅は無理だ。
王子にとっては不本意だったとしても、カエルの体はあちこちを移動できる自由な身だった。人に戻れば、国を出ることが厳しくなる。その自由を旅の最後に楽しんでもらいたかった。
――楽しい思い出が自分も欲しい、というワガママもちゃっかり含んでいるけれども。
(ふぅ……今は後のことを考えている場合じゃないわ。まずは目の前のことをどうにかしないと……)
待たされて気が散りそうになる自分を、セレネーは小首を振って立て直す。再び集中して悪魔の訪れを探っていると、
(……あ、風がやんだわ)
そよぐ風が完全に沈黙し、辺りの空気が重たく感じる。
息苦しくて思わずセレネーが息をつくと、ざわ……とザラついた生温い風がどこからともなく吹いた。
その風に乗って、大きな影が空を横切る。セレネーがハッとなり目で追いかければ、今まさに修道院へ悪魔が舞い降りようとしている最中だった。
コウモリのような大きな翼を持ち、長く真っすぐな髪を空にたなびかせるその姿は、恐れるものは何もないと言わんばかりに堂々としていた。
魔力が体から溢れているせいで、悪魔がぼんやりと光っている。青白い肌に気だるげで整った顔、今にも舞踏会へ誘い出しそうな黒の正装――その姿を見ているだけで、セレネーの肌がヒリヒリと微痛に疼いた。
(悪魔の中でも実力者でしょうね……慎重にやらないと……)
三階のフレデリカが籠っている小部屋がある修道院の端のほうで、悪魔は滞空する。それから朗々とした声で話し出した。
「こんばんは、フレデリカ姫。私の花嫁になることを考えてもらえたかね? 人と悪魔、種族の違いはあれど、美しものを愛する気持ちは種族を越える。君は私が見てきた中で、すべてが完璧で美しい……容姿はおろか、髪の毛ひとつひとつが、その声が、心根が、あらゆるものすべてが美しいのだ。私はただ君に惹かれているだけだ。怖がらせることも、悪しきことも、何もしない。だからどうかせめて、その美しい顔だけでも見せてはくれまいか?」
話だけ聞いていれば、なんとも情熱的で誘惑的な言葉が並んでいる。こんな誘いを毎日受けていたら、なびいてしまう者もいるだろう。
しかし悪魔はどこまでも貪欲で、満ちることを知らない存在。きっとフレデリカに不老不死を与え、魔界の城へ連れ去った後は永久に閉じ込めて気まぐれに愛でるのだろう。死という自由すら奪う、その優しいようで残酷な利己主義の犠牲になることを想像すると背筋が寒くなってくる。
セレネーはゆっくりと悪魔に近づくと、隣に並んで声をかける。
「こんばんわ、悪魔さん。ちょっとお話してもいいかしら?」
気だるげに悪魔は振り向く。セレネーの姿を確かめた途端、口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「ほう……見たところ、人間にしては良い魔力を持っている。話とは余の眷属になりたいということかな? 見目も悪くなく、品も良さそうだな。うむ、余の下僕となるには申し分ない」
「違うわよ。相手が悪魔でも人間でも、誰かの下で働くっていうのは性に合わないわ。ただアタシは貴方と話がしたいだけ」
セレネーは薄く笑い、流し目を使う。あまり自分のガラには合わないが、少しでも悪魔に気に入られるためには必要なこと。そう割り切って、自分が出せる限りの妖艶さを演出してみる。
「修道院の人から聞いたけれど、貴方はフレデリカを自分の物にしたいのよね?」
「その通り。あの神の御使いのような美しさ、是非手に入れたい」
「ふふふ……アタシね、フレデリカの知り合いなんだけれど、ちょっと彼女に恨みがあるの。だから貴方に彼女の弱点を教えてあげるわ。結界を自ら解除したくなる言葉も、彼女を魔界に行きたくさせるための言葉も――」
こちらを舐めるように見回し、ニヤニヤと悪魔は笑う。だがその目の奥は笑っておらず、いつでもお前の命を奪えるのだと語っている。
ほんの少しでも悪魔に弱さを見せてしまえばつけ込まれる。
早まりそうな鼓動を抑えつつ、セレネーは修道院の庭へ視線を送った。
「ここで話をするのもなんだから、あそこへ行かない? 貴方と違って、アタシはずっと魔力を出しっ放しで空に浮かび続けてるから大変なのよ」
本当は半日ぐらいなら飛び続けられるのだが、わざと悪魔の自尊心をくすぐって油断を誘ってみる。
しばらく考えてから、悪魔は「よかろう」と偉そうにうなずいた。
庭へ着陸すると、セレネーは悪魔へ近づく。背筋には脂汗が滲んでいたが、それを悟られぬよう涼しい顔をしてみせる。
「ありがとう。こんなにすんなりと応えてくれるとは思わなかったわ……堂々としていて、とても紳士なのね」
「余は魔界の中でも穏健派で通っているからな。敵意のない者を無暗に攻撃するような矮小な悪魔ではない。それにお前は実に興味深いことを言っていたからな。だから話を聞きたくなった」
「興味深いこと? 彼女の弱点とか?」
「いいや違う。お前はあの清らかさの塊である聖女フレデリカに恨みがあると言った。恨みとはなんだ? 一体何を恨むことがあるのだ?」
てっきり弱点やフレデリカを従わせる言葉のほうに食いつくと思っていたのに、ズレたほうへ食いつかれてしまい、セレネーは一瞬だけ焦る。しかしすぐに頭を切り替え、それらしい言葉を並べる。
「そんなに珍しいことじゃないわ。だってフレデリカって美人でしょ? 彼女が現れただけで他の男たちは目を奪われちゃうし、本気で好きになっちゃうもの……そうしてアタシの好きな人も取られかけてる……魔界に行ってもらえば、あの人も諦めがつくでしょうから」
珍しくもなんともない、最もな理由。
悪魔は目を閉じながら集中してセレネーの話を聞くと、口元に手を当てて「うむ」と唸った。
「余の耳はな、澄ませば読心ができる。女、言葉を盛ってはいるが、嘘は言っていないようだな」
……はい?
あっさりと信じてしまった悪魔に、セレネーが心の中で目を剥く。
違うんだけど。あの美しさだから、きっとそういう恨みを買うっていうことが多いだろうと思って言っただけで、恨んでなんか――。
――いや。今までこれだけ旅をしてきたのに、解呪できるのが昔からの知り合いで、妃候補のトップだなんて……これまでの旅が無駄になる気がして面白くない、っていう気持ちはある。
そして王子が解呪されたなら、彼女を選んでしまう。それも面白くないと感じる自分がいることに、悪魔のせいで気づいてしまった。
(アタシの本音がそれかあ……悪魔にそれを突き付けられちゃうなんて……まあ気づいたからってどうしようもできないしねぇ。むしろこのおかげで悪魔の信用が得られたから、これはこれで良かったわ)
なるべく良いほうへ考えるようにしたが、一度突き付けられた想いは胸にハッキリと痛みを疼かせた。
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