30話:怒れる蛇 後編





「あ、あぁあ……!」




 導由峻しるべ・ゆしゅんはすべてを見ていた。

 倒れた護衛たちの肉体が粉砕され、その死骸を浴びせられた外骨格が、完膚無きまでに蹂躙される様を。

 言葉にならない音が、喉からあふれ出た。

 悲嘆と呼ぶには熱すぎて、絶望と呼ぶには激しすぎる激情。

 その名前を自覚する前に、少女の思考は中断された。

 衝撃。

 灼熱。

 それが激痛なのだと理解するのに、時間は要らなかった。


「ぐ、がっ……」


 苦悶のうめきと共に、食道を熱い液体がせり上がる。

 鉄の味、真っ赤な血が唇を伝い落ちた。

 血の泡を吹きながら、下半身の感覚がないことに気付く。

 両足が地面から浮いている。

 杭を腹に打ち込まれたような感覚――腹部から背中まで貫通する何かを目視した。

 足下から映えたガラスの杭に、腹部を刺し貫かれている。

 ぶらぶらと揺れる両足――背骨ごと神経組織を粉砕されたのだ。


 コートが、ブラウスがどす黒い血に染まる。

 デニムのショートパンツに内臓の破片がこびりつく。

 伝い落ちる臓器と体液にストッキングが染まる。

 口を突いて出るのは、潰れた蛙のようなうめき声。


 呼吸すら放棄したいような苦痛と、それ以上の激情が思考を支配する。

 一七〇センチはあろう由峻の躰が、二、三メートル空中へ持ち上げられた。

 六五キログラムの体重が、腹を貫く三本の凶器によって支えられている。

 当然のごとく、皮膚が断ち割れる。筋肉が断裂する。

 ミンチになった臓器を掻き分け、無事だった内臓が圧迫された。

 こみ上げる吐き気――吐瀉物すらなかった。代わりに血を吐き出す。

 肉片混じりの体液を。


 獣のようにうめき、苦しみにあえぐ少女の中のとびきり冷静な部分が、この攻撃が可能な存在をライブラリから探し出す――答え合わせはすぐに出来た。

 舗装道路が盛り上がり、土砂を巻き上げながら、悪夢めいた巨体が姿を現す。


 サソリのような形状、ガラス細工で出来た節足動物の趣――戦闘駆体〈ギルタブルル〉。


 恐るべき蠍人間さそりにんげんの名を冠した、シルシュの作品の一つ。

 ハサミがあるべき両前足から、無数の触手を生やした昆虫もどき――由峻の脳にある設計データが正しければ、全幅一八メートル、全長七〇メートルにも及ぶ巨大なユニットである。

 うねうねと毒蛇のようにうごめく触手の群れと、それに腹を撃ち抜かれたおのれ。

 生理反応としての涙――不思議と恐怖はなかった。

 それ以上の激情が胸を占拠している。

 その濡れた瞳をどう思ったか、ヴァルタン=バベシュがこちらを見上げた。

 片角を切り落とされ、右側頭部を破壊された第一世代亜人種――悪魔的造形の頭部を持った賢角人。

 彼の口元に浮かぶのはサメの笑みだ。


「ご安心を。あなたの脳と神経組織には使い道があります。手足と内臓と五感は切除させていただきますが、導由峻という資源は有効活用できる」


 二ヶ月前、自分を襲った亜人アニラを思い出す。

 ヒフミによって撃退されたあの超人もまた、由峻を殺そうとはしていなかった。

 敵の支援者にして内通者――おそらくはクライアントと言うべき男の言。

 なるほど、それも道理だろう。多くのブラックボックスを残し、暗殺された天才シルシュ。

 その頭脳の中身が手に入るのだから。

 幼い自分を生かした保険が、今度は命を脅かされる原因になっている。

 何もかもが皮肉だった。

 微笑もうとしても、引きつった口元は上手く動いてくれない。

 重力と体重によって絶えず杭のような触手がズレて、少しずつ内臓を破壊しているから、痛みはいつまでも新鮮なままだった。

 まるで気休めのように、男は笑った。



「塚原ヒフミの肉体は完全に機能を停止、これがその証ですな――お礼を申し上げましょう、由峻様」



 そう言って、腰からぶら下げていたそれを放り投げる。

 それが何であるのかわからなかった。


 聡明な彼女らしからぬ反応――全身を支配する苦痛が、洞察と観察と推論をおろそかにさせていた。

 いや、より正確に記述するなら、それは実に人間的な反応で。

 現実逃避だった。


 それには両目がなかった。鼻がなかった。

 上半分が丸ごと消失し、頬の肉が裂傷でごっそりとそげ落ちた顔の残骸だ。

 死後硬直で強ばった口元にだけ、見覚えがあった。

 顎から上を失った生首が、ごろり、と地面を転がる。

 導由峻は、今、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。

 ごぼごぼと血の泡を吹き出し、口元を汚し、もがき苦しむことしかできない。


「私の目的は達成されました――今このとき、東京一号が解き放たれたタイミングで、彼の脳を破壊できた。あなたへの慕情あればこそ、彼はここに居合わせてくれたのですから」


 そう言えば、今着ている服装は、文字通り彼とのデートのために用意したのだった。

 本当にどうしようもないぐらい遠回りで、迂闊で、そのくせ情熱を秘めた青年が好きだった。


 ああ、でも。

 どこまでも人間を守りたいと願いながら、自身を孤独へひた走らせるその生き様を、導由峻は悲しいと思った。

 尊いと感じた。愛おしいと思わずにはいられない。

 その感情の起点が、父母に設計された亜人種としての仕様なのだとしても。

 恋情に嘘偽りはなかった。


――その末路が、こんな。


 ただ、塚原ヒフミに幸せになって欲しかった。誇って欲しかった。その生を尊び、愛おしいと慕うものがいると伝えたかった。

 ぐるぐると渦巻く感情を余所に、頭が冴えていくのがわかった。

 不死なる超常種が、遡航再生を停止させた理由。

 ヴァルタンの言葉が確かなら、それは頭上の東京一号の影響に他ならず――この男は、最初から自分の賭けに勝っていたのだ。


「由峻様……あなたの存在は、地球人類の絶望そのもの。人は最早、ホモ・サピエンスとして歩むことなど叶わないという、シルシュ様の祈りのかたちです。あの御方は、人の愚かさも醜さも弱さも、等しく種の限界に過ぎぬと断じた――人類連合の思想的指導者は、その実、誰よりもホモ・サピエンスに見切りをつけていた。それは人間への裏切りなのですよ」


 ああ、やはり。


「あなた自身に罪はない。しかし、生まれたことが間違っている。〈異形体〉の理想世界が、ヒトを家畜へ変える過ちであるように、正されねばならない」


 何故、わざわざ自分に対してこうも雄弁なのか、ようやく納得できた。

 それは、この超人を悪逆へ走らせた理由と同じもの――彼自身を絶望させた光景への報復だ。

 長い長い陰謀の果てに、ヴァルタン=バベシュはみそぎを行おうとしている。

 シルシュの残した兵器と、その最高傑作を潰し合わせて。

 ようやく彼の断罪は終わるのだ。


「……人間の命はあまりに脆い。死によってあらゆる意味を剥奪される。こうも無惨に蹂躙されるならば、せめて、尊厳が保たれる場所へ導かねばならない」


 男の呟きは、懺悔にも似ていて。

 眼下の怪物を見た。戦闘駆体〈ギルタブルル〉――ヴァルタンの計画に賛同者がいたとは思えない。

 この男の行動原理から察するに、他者に重要戦力を担わせるとは思えなかった。

 そのような状況下で最も安易な運用法を、由峻は知っている。

 母がそれを懸念していたと覚えている。

 人間の脳をえぐり取り、洗脳し、中央算処理装置として組み込めばいい。

 ここにあるのは、貶められ、生を否定され、あらゆる命を暴力装置に利用された犠牲者だけだ。

 激情が、その輪郭りんかくを鮮明にしている。



――嘆かわしい。



この胸の激情は。



――怒りなのですね。



 刹那、魂が水晶に包まれていくかのような錯覚を覚えた。



――思考中枢の機能制限を解除。形態変容を開始。



 亜人種のそれとは異なる、より根本的な変化――脳組織の完全なる結晶細胞化――人間性と全機能の調和のときが訪れた。

 思考が最適化される。

 人の脳を模していた疑似生体が、瞬時に組み変わる――目の前の脅威を打破しうる機能を獲得する。


 結晶細胞によって構築された演算処理装置。思考する神の目。超物理現象を引き起こす最良のファクター。

 数多の宇宙を観測し、認識し、介入する地球外知性体の存在階梯に届いた。


 ああ、今ならわかる。

 これが、シルシュの託した宿題の理由だ。

 見果てぬ夢、人の肉体と精神に収められた万難に打ち勝つ力。


「――何がおかしい?」


 ヴァルタンが訝しみ、首を傾げた。

 損壊したバイザー状視覚器官に、疑念の色が灯る。

 すべての仕事をやり終えた男が、思わず、問うてしまうほどの違和感。

 主要臓器の七割を破壊され、間もなく頸椎を引き抜かれる娘の浮かべる表情ではなかった。

 切れ長の眼を細め、由峻は微笑んでいた。口

 の端から血の泡を零しながら、顔を上げた。

 腹を撃ち抜き、脊柱を断裂させた触手などそしらぬ顔で、唇を血で濡らしながらせせら笑う。



「人間の生に意味などなく、価値などなく、冷厳たる死に抗うことは出来ない――そんな当たり前のことを、賢しげに語って終わりですか?」



 ぞっとするほど静かな声だった。

 怒りでも憎しみでもなく、淡々と事実を確認するだけの口調――釣り上がった口の端は、抑えられない感情の一端であった。


「存外、甘いのですねヴァルタン。あなたの悲観主義は底が浅い。人の躰は容易く壊れ、病に腐り、精神はそれに従属する――それは一〇〇年も前に通り過ぎた絶望です。だから、わたしたちが作られたというのに」


 戦闘駆体はスタンドアローンの兵器であり、賢角人といえど、遠隔操作では制御しきれない。

 そして超物理現象を行使する以上、末端はヒト細胞と融合した中枢と繋がっているのだ。

 由峻の胴体を貫通し、脊柱に接触している触手は好都合な存在だった。

 肉体に食い込んだ触手――分子破壊デバイスから、その構造を解析。

 由峻を構築する結晶細胞と共鳴させ、根本の制御系へと侵入。


「あなたのさえずる尊厳とは、有史以来、この世のどこにもあり得ない夢物語。ただの幻想です。たとえこの世界から〈異形体〉が消え去ろうと、決して人の手には渡ることはないでしょう」


 汚染を開始する。

 ヴァルタン=バベシュによって洗脳を施され、指向性を与えられた犠牲者の脳。

 外部からの入力に従い、憎悪の対象を切り替える報復精神の権化。それが戦闘駆体〈ギルタブルル〉――汚染環境での都市制圧を想定した戦略兵器、動く超人工場を統括するシステムの正体だった。

 結論から言えば、電子的攻防は一瞬で決着した。

 えぐり取られた数十人分の生体脳――精確にはそれと結びついた結晶細胞のもたらす思考速度――程度の計算資源では、今の由峻とは拮抗し得ない。

 純然たる演算処理能力の差異が、制御系を征服。

 戦闘駆体〈ギルタブルル〉を構築する高純度結晶細胞を奪い取り、腹を撃ち抜いた触手をそのまま肉体に取り込む。

 戦闘兵器として設計された細胞群を再定義、失われた体組織へと変換する。

 欠損した肉体を修復し、〈ギルタブルル〉を統括する群体脳たちへクラッキングを仕掛けた。


――眠りなさい。


 異常に気付いたヴァルタンが、棒を構え戦闘態勢に入ろうとした瞬間、分子破壊デバイスの触手が彼を襲った。

 神速の棒術が、飛来した触手すべてを払い落とす。

 重力障壁を展開し、続く第二波を防いだ――彼の手足に、激痛が走る。

 特殊繊維で編まれた燕尾服を突き破り、無数の断片が表皮を貫通、体組織に食い込んでいた。


「結晶細胞の疑似生体……シルシュ様は、まさか!」


 四肢に食い込んでいるのは、結晶細胞の欠片だ。

 えぐり取られ、血と共にこぼれた少女の肉片。

 ついさっきまで、導由峻の臓器として、有機物のように振る舞っていたもの。

 その正体は、〈異形体〉と同じ高純度結晶細胞の塊だ。

 それが本来の姿を取り戻した――宙に散った無数の鱗が、第一世代亜人種の四肢を侵食する。

 皮膚を突き破り、筋肉を変成し、神経を汚染する端末群。


「――戦闘端末〈ドラゴンスケイル〉。あなたを罰するための兵装です、楽しみなさい」


 うねうねとうごめく〈ギルタブルル〉の触手が、急速にその体積を減らす。

 否、消えていく。

 桜の花びらのように薄く、小さな断片へと姿を変えて、空間を埋め尽くしている。


 〈ドラゴンスケイル〉の一つ一つが、意思を持つかのように加速。

 文字通り、視界を埋め尽くすほどの戦闘端末が、極小の刃となって殺到する。

 ヴァルタンは重力障壁を再出力――しかし、手足に食い込んだ〈ドラゴンスケイル〉が、彼の指令に反してシールドを弱めようとする。

 最早、自分のものではないかのように痙攣する手足――弱まった重力障壁の一点目がけて、〈ドラゴンスケイル〉が雲霞のように押し寄せた。


 それは正しく竜の悪逆。

 超絶の武技も、圧倒的な身体能力も、重力と慣性を操る異能も――何の意味もなく切り裂かれ、食い散らかす暴虐である。

 由峻はその光景を、ひどく醒めた眼差しで見つめていた。琥珀色の瞳に宿るのは、祈りにも似た透明な意思。

 人ならざるものの目が、静かに、救済を夢見た男のすべてを踏みにじる。


「尊厳を担保するものは、生命体としての強度です。何故、諦めたのですか?」


 腹を貫いていた触手を完全に吸収し、血で汚れた衣服のまま、地面に足をつける。おのれの臓物と血液で汚れた装束すら、今の彼女の前では些細なことだ。

 口元の血をハンカチで拭い、唇を湿らせて。

 〈ドラゴンスケイル〉を打ち払い、地面を這いずるヴァルタンを見下ろした。


「……強者の論理だ……人間は、この煉獄でそんな余裕を持てはしないッ!」


 手足の肉をえぐり取られ、骨とわずかな生体アクチュエータだけが残った超人――〈ドラゴンスケイル〉によって切り裂かれた肉体は、血も涙も流さない。

 この男が一〇〇年近い時間を生き、そのように自己を改造してきたからだ。

 ヴァルタンの、慟哭にも似た言葉は正しい。



 人が人である限り、能力の差異が、寿命の長短が、容姿の美醜が、新たな差別を生むだろう。新たな迫害を生むだろう。新たな苦痛を生むだろう。

 それでも希望を謳おう。理想を掲げよう。大義を知らしめよう。

 知性体としての不全を抱え、獣性のはけ口を求め、いつか訪れる死の間際まで争う――そのような痛みを背負ってまで、人が人であることの意味を。



「もっと美しく、もっと強く、もっと賢く、もっと豊かに。さらなる高みを目指す浅ましさこそ人間、わたしたちの原型となった種族――その弱さを許せないなら、最初から救済など謳うべきではなかった!」



 たとえば、誰よりも美しくいたいと思うこと。――それゆえに他者を妬む。

 たとえば、誰よりも権力を得たいと思うこと。――それゆえに他者を殺す。

 たとえば、誰よりも賢明でいたいと思うこと。――それゆえに他者を蔑む。

 

 人を愛するとは、醜さを許し、愚かさを赦すことだ。

 百の悪の中から、煌めく一の善を見つけ出すことだ。

 不完全で満たされず、欠落を埋めようと生き続けるカルマの塊――それが人間なのだから。


 ヴァルタン=バベシュは、人間の置かれた境遇を哀れんだ。

 圧倒的上位者の介入により、尊厳すらなく、ただの数として生かされる家畜の未来を否定した。

 この男を突き動かしているのは、凄惨な過去から導き出された絶望の現在である。


 導由峻しるべ・ゆしゅんは、超人に守られた人間の選択に憤った。

 超常種という異能者に、同胞殺しの悪逆を背負わせ、世界を委ねる堕落を拒絶した。

 彼女の誇りと祈りの向かう先は、停滞した現在を打ち砕く激動の未来である。


 塚原ヒフミへ愛を伝えた一人の少女がいるように、地球人類すべてを変えようという怪物がいた。

 亜人種という種族を作り出した天才シルシュ――その記憶と知識と人格のすべてを継承し、必要に応じて管理する超人。

 由峻は、それゆえに立ち止まらない。


 亜人種が、人類種と超常種という二つのヒトの間に生まれた意味を再定義しよう。

 それは〈異形体〉の意図したような侵略、民族浄化と人間牧場のツールであってはならない。

 ああ、もっと鮮烈な理由が必要だ。


 導由峻にあるのは、燃え上がるような情熱と、冷徹な人間存在への眼差しだけでいい。

 無慈悲な誇りが、人の停滞を許さない。

 慈悲深い祈りが、人の尊厳を信じ続ける。

 もし人間のありように、性能に限界があるというのなら、必要な分だけ改良すればいい。

 人を人たらしめるものの定義を書き換えればいい。それが足枷となるときが来たのなら、異性愛も同性愛も家族愛も同胞愛もかたちを変えてしまえばいい。


 より洗練された知性を得ること。

 より至福に満ちた生を謳うこと。

 より完成された善へと至ること。


 今すぐすべての人間を、そのような生きものに変えようというのではない。それが自然な進歩なのだと、誰もが考えるようにすればいいのだ。

 自明の理として選ぶときが来るまで、人間社会を誘導すればいい。

 一〇〇年では無理だろう。ならば五〇〇年かけよう。五〇〇年で無理なら一〇〇〇年かけよう。

 その果てしない歳月の中で、苦しみ、もがき、次代の種の礎となるよう人間を導けばいい。

 そう、きっと人間はこの誘惑に勝てない。

 未知を恐れ、苦痛に怒り、選択に迷い、満たされない貪欲さこそ、人が超克できない欠陥なのだから。


「すべての欲が、祈りが、取るに足らない路傍の石ころになり果てるまで、人のかたちを変えればいいのです」

「そんなものが人間であってたまるか……!」

「いいえ、それこそが人間の定義となるのです――」


 ウジ虫のように地面を這いつくばる男へ、少女は凄絶に笑いかけた。

 おのれの吐いた鮮血を紅のようにして、嗜虐性サディズムをあらわにして。




「――この世のすべてを征服し、理不尽を押しのけ、あらゆる制約を乗り越えて、今日の限界をせせら笑えばいい! それこそが人間賛歌、昨日の絶望を踏み潰し、顧みることなく前に進む人の未来です」




 この世界は、夜に似ている。

 一寸先も見通せぬ暗闇の向こう側に、幸福や未来があると信じられないとき、人は怯え立ちすくむ。

 それでも夜道は恐ろしいから、温かな光を目指して歩くのだ――いつか、死という断絶に追いつかれるその日まで。


――絶望など、死の間際にいくらでも出来ることです。


 ヴァルタンの狙いがなんであれ、この男は嘘を言っていない。

 塚原ヒフミの肉体は機能を停止した。本来、変異脳を破壊されても復元する同調型超常種が、その生態を放棄した。

 塚原ヒフミの異能〈結線〉が、人体を操る不可視の糸であるならば――その糸を束ねる操り手が、彼の肉体である保証もない。

 たとえば、そう、頭上に浮かぶ赤黒い積乱雲。最初の超人災害が、今ここで復活している。


 まだ、塚原ヒフミの死が確定したわけではない。


 機能を停止した〈ギルタブルル〉から、ありったけの結晶細胞を収奪し、由峻はよしとした。

 最早、地面を這いずり回る以外、何も出来ないほど傷ついたヴァルタンを一瞥いちべつ

 全身を切り裂かれ、異能を剥奪された敗残者――ヴァルタン=バベシュは、そんな怪物を見上げる。

 どうしようもなく遠い、畏怖すべき竜ムシュフシュに。

 ただ、呟いた。



「我ら亜人種の悲願……ヒト細胞と結晶細胞の完全なる融合体、造物主の一族へ連なるもの……この星で生まれ落ちた最も新しき〈異形体〉よ。それが、答えか……」









 恐ろしい夢を、見ていた気がした。

 何もかも間違えてしまったような違和感と共に、いつもの日常を始めようと目を覚ます。


 目蓋を開く。

 飛び込んできた視覚情報が信じられなかった。

 何度も瞬きして、それが見間違いでないことを確かめる。


 辻褄つじつまが合わない。

 今の自分がここにあるための前提条件、あの日あのとき、彼の生を規定した憎悪の原点。

 嘘だ、と声を上げようとして。


 涙があふれた。

 そんな『少年』のことを心配して、恋人が顔を覗き込んでくる。





「大丈夫、ひっふみー?」





 この手で殺めたはずの、少女がそこにいた。

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