26話:人間哀歌




 疾駆する。

 風のように、雷のように。

 道路を踏み砕き、雪を蹴立てて、二体の異形が切り結ぶ。


 一つ――髑髏のごとき白い仮面、右手に握ったプラズマ刀、人工筋肉を包むマントのような外皮――この世ならぬ鬼神の類。


 一つ――機械じみた黒い山羊頭、太く長すぎる超高密度杖、特殊繊維で編まれた強靱なる燕尾服――悪魔のような獣頭人身。


 一跳びで一〇メートル、二〇メートルの距離を軽々と舞い、容易くビルを切り裂き、粉砕する。

 神話じみた戦いを繰り広げる彼らは、それでも、人間と呼ばれていた。

 二二世紀の人類の最果て――ホモ・ペルフェクトゥスとホモ・パンタシア。

 超常能力と地球外知性体の申し子たち。


 男は、塚原ヒフミは、そのすべてを憎悪する。


『〈異形体〉にとって、亜人種は損耗が前提の端末です。ヴァルタンを支援しているユニットは、亜人種にとっての拡張身体――全面戦争に備えた兵器としての肉体です。人連で保管されているはずの兵装ですが、彼が不正に入手したと思われます。賢角人のハイヴ・ネットワークは、すでに彼に対する接続を凍結しました。外部からの演算支援はあり得ません』


 少女の声――全身全霊を賭けて守りたいと誓ったもの。

 種族間データリンクによる集合知を強みとする賢角人にとって、システムからの断絶は致命的だ。

 たとえ肉体というハードウェアが無事でも、ソフトウェアを焼き切られたに等しい欠落になる。

 そのうろを埋める装置――空間の歪みに潜伏する電子戦デバイスというべきもの。


 ビルの外壁を蹴って反転、宙を舞いながら周囲をセンシング。

 全身のセンサーを駆使して、ヴァルタン=バベシュの戦闘機動を記憶し続けた――反撃の瞬間を掴むために。

 仮面に埋め込まれた四つの目が光学情報を受信――下方から敵が来る。

 ビルを垂直に駆け上がる山羊頭。


 直後、第一世代亜人種の繰り出した杖が壁面を粉砕した。

 腰部に収めた変異脳へと指令を出し、空間転移を実行。

 予想される敵の現在位置、地上から八メートルの高さへとテレポート。

 プラズマ刀を横なぎに振るう――超高熱で対象を溶断する武装に、踏み込みや体幹の筋肉は不要。

 手首のスナップを利かせ、灼熱の一閃。


 手応えはなし。

 衝撃。

 こちらの側方へと回り込んでいた敵――ヴァルタンの鋭い蹴りが背中を強打。

 外皮の衝撃吸収があってなお、背骨へひびが入るのがわかった。


 姿勢を崩す。

 地上へ真っ逆さまに落下。

 自由落下と地面との激突は、超人同士の戦いの中では致命的なタイムロスだ。

 痛みを無視して空間転移を再度実行、三〇〇メートル先のビル屋上へと逃亡。


 たった二秒ほどで、骨に入った亀裂が消えていくのがわかった。

 超常種の持つ究極の恒常性、遡航再生そこうさいせいの恩恵。

 結晶細胞と人工筋肉で構築された〈天狗〉にとって、一番脆い構成部品はヒフミの肉体だが、脳以外は換えが効く。


『……わたしの言葉がわかりますね、塚原さん。ヴァルタンは、戦闘駆体〈ムシュマッヘ〉と接続することで、あなたの異能を妨害しています。空間転移の出現位置も、一瞬だけ早く知覚しているでしょう』


 通信越しに聞こえる、由峻の声に淀みはない。

 どれだけうろたえようと、戦闘中のヒフミの助けにならないと知っているからだ。

 その自制心が、理性が、何よりも尊いものに思えた。


 そんな感情と裏腹に、対策官としてのヒフミの頭脳は明瞭だった。

 由峻の母が設計したというユニット〈ムシュマッヘ〉の仮想敵は、超人災害――変異脳の集合したレベル4、かつてヒフミが見たあの肉塊たちなのだという。

 それよりも出力の弱い異能を操るヒフミでは、真っ向勝負でヴァルタンの身体を操ることは出来ない。

 対人戦において無敵の力だからこそ、真っ先に封じられたというわけだ。


「そのユニットを切り離す方法はありますか?」

『情報が不足していて断定は出来ません。ですが本来、戦闘駆体は神経中枢との融合なしに完全駆動しない構造です。ヴァルタンの行っている遠隔操作は、本来ありえない不正起動なのです。不正起動の仲立ちをしている超光速通信と、〈ムシュマッヘ〉の制御システムを切り離せば、あるいは』


 やるべきことは明確だ。

 そのための手段も、すでに見繕っている。


「頼りにしてますよ」

『――生きてください』


 万感の思いが込められた一言に、言葉を返す暇はなかった。

 少女とヒフミを繋いでいた結晶細胞間の通信回線が断ち切られ、代わりに獣のうなり声のような雑音が流れ出す。


 強烈なノイズの接近を変異脳が感知。

 激震。

 〈ムシュマッヘ〉の敵対的ジャミングと超常種の追跡――ヒフミの現在位置を特定したヴァルタンの追撃だ。

 秒速二〇〇〇メートル――文字通り砲弾並みの速度――にまで加速した超人の質量攻撃。

 結晶細胞の引き起こす超物理現象、空気抵抗も衝撃波も打ち消しての戦闘機動は、第一世代亜人種の十八番おはこであった。


 重力制御で保持された八〇トンの超高密度ロッド――結晶細胞の杖の一撃は、雑居ビルを文字通り粉砕。

 二階から下を砕かれたビルが雪崩を打ったように崩落する中、斜めに傾いだ足場に踏みとどまる――ヒフミの靴裏で摩擦係数が調整され、強いグリップ力を提供。

 刹那、視界の隅を何かが横切った。


 悪魔じみた機械の獣頭に浮かぶ、嘲弄にも似た笑み。

 速い。

 だが、こう何度も切り結んでいれば手癖もわかってくる。


 ノイズの不快な感覚。

 視認不可能な速度で迫り来る杖――その軌道が脳裏に浮かんだ。

 右斜め上から弧を描いてヒフミの肩を強打せんとする杖、打撃の形。

 振り返りざま、逆袈裟に切り上げた。


 明後日の方向に飛んでいく杖の先端――超音速に達した先端の衝撃波――眼下の道路に接触。

 大質量の超高密度構造体が、路面を粉々に砕いた。

 超物理現象の恩恵――空気抵抗、衝撃波の軽減範囲から外れ、大気が爆裂。

 浅い。


 ほんの三〇センチほど打撃武器を切り取っただけだ。

 棒術の恐ろしさは、間断なき打突の連続にある。

 身を沈めるように振り返り、視界の正面にヴァルタンの姿を捉えた。

 危なげなく杖を円運動で回転させ、次なる一撃に移行済み。

 下方から迫り来る杖先はフェイント、本命は得物を回転させたあとの真っ直ぐな突き。


 だが、遅い。

 ヴァルタンのフェイントに引っかかる素振りを見せた――杖が軌道を変えた瞬間、打突の中心軸に切っ先を振り下ろす。

 プラズマ刀の熱波が視界を埋め尽くした。

 確かな手応えと共に、超高密度ロッドを構成する結晶細胞が剥離、無数の飛沫となって火花と共に舞い散る。

 その粉吹雪の合間から、後ずさるヴァルタンの姿が見えた。


 その手に握られた得物は、大きく破損していた。

 超高密度ロッドの残った二二〇センチのうち、前半分の五〇センチほどを二つに切り裂かれていたのだ。

 ヒフミは、自分の読みが当たったことを確信する。

 彼がプラズマ刀を振り下ろした瞬間、ヴァルタンは攻撃をやめたのだ。


 勢いよく繰り出した一撃を、無理矢理、引き戻すために慣性制御を用い、超高密度ロッドの破損を抑えた。

 砲撃を受けたとき以外、常に重力・慣性の制御を移動と攻撃に用いていた敵の度し難い隙。

 重力障壁が消えていた。


 誘い込まれている。

 だが、ヒフミの勝機は今しかなかった。

 ガンシップの到着まで、この怪物相手に逃げ回ることなど不可能だと悟っていた。

 ならば、プラズマ刀で手傷を負わせ、戦闘駆体〈ムシュマッヘ〉とヴァルタンを切り離すため動くべきであろう。


 人体支配の異能〈結線〉へのジャミングさえなければ、ヒフミははるかに優位に戦える。

 加速する思考――敵の間合いへ踏み込むと決めた。

 塚原ヒフミは超常種だ。

 同調型サイキックの異能、人体支配の操り糸が、電気信号よりも速く人体を駆動させる。

 全身の人工筋肉を連動させ、前に踏み込んだ。

 エクソスーツの人工筋肉が生み出す爆発的加速――生身の間接が悲鳴を上げる。


 筋肉が断裂する。

 骨が軋む。

 構わない。


 一秒あれば治る程度の損傷だ。

 弾丸のように直進――ヒフミを襲うはずだった杖の三撃目が、空を切った。

 狙うのは刺突。超高熱のプラズマ刀を胴に叩き込まれれば、如何なる亜人種といえど肉体が破綻する。

 ヴァルタンの対応は迅速であった。

 二メートル近い体躯から繰り出される回し蹴り――それ単体で機関砲弾並みの必殺が、側頭部目がけて飛来。

 回避できない、と悟った。


 エクソスーツのマント状外皮で受け止めれば、弾き飛ばされるのは必定。

 まだだ。

 焼け付くような錯覚。

 頭蓋骨に収まった脳組織が、異様な熱を灯し、エクソスーツ〈天狗〉に組み込まれた変異脳へと〈結線〉を行使。


 空間転移。

 常のそれを凌駕する行使速度――戦闘開始以来、初めてヴァルタン・バベシュの口元から、サメの笑みが消える。

 空間と空間を入れ替える権能が、今まさに頭蓋骨を砕かれようとしているヒフミと、ヴァルタンの背後の空間を繋いでいた。

 ヴァルタンが視界から消える。

 否、その背後へとヒフミが移動したのだ。

 回し蹴りの勢いそのままに躰をひねり、円を描くように結晶細胞の杖を叩きつけんとするヴァルタン――空を切る棒先がその答えだった。


 ヒフミは空中へと飛び上がっていた。

 足の骨が軋む。

 だが、今や彼は必殺の間合いにいる。

 獣頭人身の頭上、プラズマ刀の射程範囲。

 燃えさかる炎の剣を、裁きのように一閃。


 火花と共に絶ち切られたもの――宙を舞うねじくれた山羊角。

 細胞結合を破壊され、どろりと溶け落ちる黒鉄色の表皮が見えた。

 敵のバイザー状視覚器官が、瞠目どうもくしたように青年を捉えていた。

 全身が総毛立つ。



 仕留め損ねた。



 ヒフミがプラズマ刀を頭部目がけて振り下ろした瞬間、ヴァルタンは頭を逸らし即死を免れたのである。

 超高熱を全身の結晶細胞を用いて分散、右角を全損、頭の右半分を犠牲に生き延びた。

 この怪物の戦闘センスを見切れなかった。

 否、ヒフミの見切りに、敵が対応してみせたのだ。


 空間転移の再実行――間に合わない。

 刹那、超高密度ロッドがヒフミの胸をしたたか打ち付けた。

 無造作な打突が、エクソスーツの衝撃吸収機構を凌駕りょうがする。

 衝撃――破裂した肺臓に折れた肋骨が突き刺さる。呼吸など出来るはずがないのに、変異脳の遡航再生そこうさいせいが血中の酸素濃度を維持。

 ならば、内臓が壊れようと戦える。


 数秒に満たない攻防が終わる。

 崩落していくビルから、地上へ投げされようとする青年の正面。

 そこに、燕尾服を着た悪魔がいた。

 片角を切り落とされ、右側頭部の金属表皮を溶解させられてなお健在のヴァルタン――生まれついての戦闘生命体。


 超人同士の白兵戦において、自由落下は致命的な隙になる。

 それを見逃すほどヴァルタン=バベシュはお人好しではなかった。

 悪魔じみたバイザー状視覚器官が明滅。


 全身の結晶細胞を励起、重力障壁に用いられていた全リソースが、化け物じみた筋肉へと注ぎ込まれる。

 かつて猛威を振るった第一世代亜人種、その暴威の顕現。

 数十トンの超高密度ロッドを振り回すための重力制御――繰り出されるのは体幹の筋肉が注ぎ込まれた必殺。




 それが、いつ繰り出されたのかすらヒフミにはわからなかった。




 目が見えなくなった。

 耳も聞こえない。

 眼球が潰れ、鼓膜が破壊されたのだと気付くのに数秒かかった。


 エクソスーツの光学センサーへと視神経を再接続。

 壊れた眼球が再生するよりも、そちらの方が早い。

 横向きの視界、どうやら地上に叩き付けられてしまったらしい。

 起き上がろうと腹筋に力を込めた――何の手応えもない。


 遠く、崩落するビルの手前。

 腰から上を失った自分の両足が、地面に激突するのが見えた。

 上半身と下半身を真っ二つにされてしまったのだ、と理解。


 動けない。

 エクソスーツの人工筋肉も、その大半が破壊されていた。

 違和感。


 視界の隅で瞬く点、黒い影が迫ってくる。


 〇・〇九秒後、投擲された超高密度ロッドの断片が、塚原ヒフミの頭蓋骨を粉砕した。

 ピンク色の脳組織が瓦礫の上にぶちまけられる。

 ひび割れたマスクの残骸に、男の思考と人格を司る体組織の断片が付着し、粉じんに汚れていった。









 無意識に動作した〈結線〉の効能――他者の脳組織に集積された情報を読み取る――ほとんど思考することなく、接続は保たれている。

 脳組織を破壊された自分が、どうやってそれを行使しているのか疑問に思うことすらなかった。


 不可知の糸としてあらゆる知性へ這い寄るもの、胎児のごとく夢見るもの。


 彼が覗き込むと、そこには絶望が刻まれていた。

 一〇〇年近く昔のこと、〈異形体〉の侵略によって人類が脅かされていた時代。



 それは、痛みの記憶だった。



 第一次東アジア紛争、一〇〇〇万人を超える餓死者、加速度的に崩壊していく国家群。

 すべての悲劇が新たな悲劇を生み、死者を産み落とす母胎であった。

 二四発の戦術核でクレーターに変わったオキナワ本島――最早、人の営為もその痕跡も消し飛んだ廃墟。

 その真っ直中を駆け抜け、無数の同胞を――敵方の亜人種を、あるいは彼らに脳改造された兵士たちを殺めてきた。


 自由意思を奪われたゾンビのような軍隊もあれば、国家の統制を離れ、自由意思の元に略奪者と化した軍隊もあった。

 皆、討つべき敵だった。


 彼は誰よりも速く、屈強な兵士だった。

 精密爆撃をゆうゆうとしのぐ重力障壁、砲弾並みの速さで動き回る機動力、八〇トンの重力杖を振り回す打撃力。

 降り注ぐ砲火の雨をはじき返し、逃げ回る戦車を叩き潰し、海上の艦艇を殴り壊した。

 極超音速で戦闘機動を取る彼に適う人間の兵士などいなかった。


 何千人もの命をその手で奪っても、苦悩はない。

 彼は〈異形体〉トリニティクラスターに作られた戦士、道を誤った同胞を粛清する使命を帯びた勇者なのだから。


 指導者シルシュは言った――人類にあるべき未来を、と。

 戦友イオナは言った――人々の希望を守れ、と。

 賢角人とは、その能力のすべてを人類救済に用いる誇り高い亜人なのだ、と。


 そのはずだった。

 インド洋東南アジア地域はシンガポール島、シンガポール市周辺――敵勢力の軍事侵攻によって陥落寸前の都市。

 彼の地を奪還すべく送り込まれた男を待っていたのは、断じて、正義などではなかった。


 逃げ遅れた市民の保護と、脱出路の確保。

 その使命を阻むものは、人間の軍隊でもなければ、過激派亜人の戦士でもなかった。

 人類史上、初めて実戦投入されたサイボーグ兵士たち――虐殺の限りを尽くす異形のものども。

 最適化された憎悪と戦術アルゴリズムの詰まった電脳が、悪夢のような殺人機械たちを駆り立てる。

 異種起源テクノロジーの成果物、シルシュが人類へ与えた技術が、最悪の形で転用されていた。


 国境に押し寄せる難民が、その日を生きることすら危うい貧困層が、その脳組織をえぐり取られ、傀儡として作り替えられた成れの果て。

 敵対民族の殺戮、殺された犠牲者の脳から作られる新たな兵士。

 全身義体の動力源として、改造された生体脳が収められた心臓部――その胴体を粉砕し、飛び散る脳漿を重力障壁で弾き飛ばす。怒りに打ち震えながら、彼は叫んだ。


「――馬鹿な。これは、人間を守るための技術ではなかったのか」


 一一八体目のサイボーグ兵を砕き終え、後方へ目を向ける。

 数え切れない生存者を乗せた車列は、彼の稼いだ時間でずいぶん遠くへ離脱していた。

 戦友たちが火砲と航空戦力を掌握している以上、砲撃や爆撃で彼らが脅かされることはない。


 人を守るため与えられた技術で、同胞を殺す怪物を作り上げる。

 そんな途方もない悪意に背筋を凍らせながらも、男は満ち足りていた。

 それでも、守るべきものは守れたからだ。


 ゆえに。

 次の瞬間、シルシュから送られてきた新たな指令は、彼の理解を超えていた。

 圧縮言語で記述され、大量の添付データと共にハイヴ・ネットワーク経由で送られてきた情報。

 足下が崩れていくような喪失感。


――難民とされていた人間たちの大半が、敵によって改造された自律ケミカルプラントであること。


――彼らの自己認識の如何に関わらず、その国外脱出は被害を拡大させ、治療方法は存在しないこと。


――ゆえに〈異形体〉トリニティクラスターは、この地を焼却処理すること。


 最早、作戦目的そのものに意味がないのだ。

 冷淡な事実に感情が追いつくよりも早く、理性が新たな指令に対応。

 全速力で当該エリアから離脱しながら重力障壁を展開。

 全身の結晶細胞が、〈異形体〉の励起した細胞の放つ情報信号に共鳴し続けていた。

 寒気の走るような感覚の中、不意に景色が真っ白に染まる。


 彼の背後、先ほどまで避難民を守っていた地域。

 思わず振り返った。

 遮光モードに切り替わった視覚でさえ、眩しいと感じるような光量。


 天へ昇る光が見えた。

 半径二〇キロメートル圏内を焼き尽くす、熱核プラズマの火柱だ。

 シンガポール市周辺の生存者を、敵に悪用された義体兵士ごと殲滅する神の炎。

 文字通り、地上に降臨した絶対者――〈異形体〉による環境改変能力の最たるものであった。


 この光の下で、何十万人もの命が灰燼へ還っているのは誰の目にも明らかだった。

 プラズマ焼却。

 敵〈異形体〉の侵略行為――人間を生きた毒ガス工場、生物兵器の散布装置へ作り替え、家族の元へ帰す――に対する防疫処理だ。

 後世で文明崩壊〈ダウンフォール〉と呼ばれる地獄の中、幾度も繰り返されることとなる虐殺。


 ぞっとするような光景だった。

 数十秒の間、大地を跡形もなく溶解させ、あらゆる地表の構造物を気化させる熱の嵐。

 音もなく、衝撃波も熱波も伝わぬまま、〈異形体〉の指定した空間だけが灼熱地獄と化していた――超物理現象の熱量は、汚染された有機組織を跡形もなく蒸発させ、人の営為諸共、消滅させていく。

 悪しきものも善きものも、等しく焼き焦がす裁きの炎を背に、彼は――ヴァルタン=バベシュは声を荒げた。


「イオナ……我らは、彼らを救うために戦っていたのではなかったのかッ!」

『この作戦はシンガポール亡命政府と国連からの依頼だった。我々が後手に回ったのは、この状況を理解しないまま武力介入を始めたせいだ……君の責任ではない』


 苦虫を噛みつぶしたかのようなイオナの声――熱光学迷彩と卓越した電子戦能力によって、戦場に存在するセンサーと通信を支配する賢角人。

 超光速ネットワークによって繋がれた彼らは、あたり一帯を覆い尽くす電波障害の影響をものともしなかった。


「〈異形体〉は、トリニティクラスターは……人間たちを救うものではなかったのか。愚かな同胞の魔手から、彼らを守るのでは……」

『我々の敵もまた、立場の違う〈異形体〉とその尖兵だ。戦力的優位はあっても、絶対的戦力差はない。我々の戦いは、錯誤と失敗の中で一人でも多くを生かすことだ』


 そうして繋がった未来に、人間の生きる意味はあるとイオナは言う。

 それが友なりの優しさなのだと、ヴァルタンは知っている。

 生まれて二〇年と経っていない改造人種、〈異形体〉トリニティクラスターに仕えるため設計された生命として、互いに協力してきた兄弟。


 その言葉が信じられなかった。

 今、彼の背後で起きている惨劇は、顔を覗かせたグロテスクな現実そのものだ。

 大多数の人間の意思も営為も、〈異形体〉の都合一つで不要なものとして抹殺される。


 神話主義者や過激派〈異形体〉による侵略行為で何億もの人間が死んでいったように。

 あるいは、あの哀れなサイボーグたちのように、人格すら奪われ、同じ人間の道具として使われるのが関の山。

 こんな形で生き続ける種族に、どんな望みを見出せばいい。

 彼は怒りを覚えていた。


『君の怒りは傲慢だよ、ヴァルタン。神ならぬ我らの無力は今に始まったことでもあるまい。――ましてや、人ならぬ亜人デミ・ヒューマンが、人の未来の是非を語るなど見当違いだ。生き延びた命を一日でも長く生かす。彼らが幸福に生きられる世界を作り直す。それが、我々の使命ではないかね』


「この虐殺に荷担した我らが、彼らの未来を作るとでも言いたいのか――何様のつもりだ」


 沈黙――おそらくイオナも自覚していた欺瞞ぎまんであった。

 それでも彼らは、地球外知性体に作られた亜人種、奉仕種族でしかない。

 属する陣営に違いはあれど、本質的には〈異形体〉が人類に干渉する上での道具なのだ。


 選べる生き方など、そう多くはない。

 だから、イオナは欺瞞へと身を委ねようとしている。

 ヴァルタンには選べない生き方だった。


 身を焼くような怒りが、彼の胸を支配している。

 あの炎の下で死んでいく人々の姿は、明日、地球全土で繰り広げられる殺戮の前触れかもしれないのだ。

 それが造物主ライフメーカーの審判であろうと、受け入れられるものか。


 強く、こいねがった。

 人間の生には、如何なる末路であろうと、最後には救いがあるべきだと祈らずにはいられなかった。

 超高密度ロッドを握りしめ、天を見上げた。


「――私が見つけよう」


 疑いが、彼の眼を覆う盲信をぬぐい去っていた。

 信ずるに足る結末は、たしかに存在した。

 それは定められていたかのごとく、彼の眼前に降臨してみせたのだから。



――超人災害・東京一号という奇跡が。









『下がりなさい。この人は、あなたなどに触れさせはしない』


 凛とした声が、塚原ヒフミを現実に引き戻す。

 粉砕された頭蓋骨とその内容物が、辛うじて意識を保てる程度に回復した証左。

 おそらく、傍目には肉塊と言っていい状態のはずだ。


 下顎より上はほとんど機能していない。

 それでも、辛うじて回復した鼓膜が、あの娘の声を聞かせるのだ。


「ご心配には及びません。彼はたしかに、私の角を切断し、私の情報処理に過負荷をかけた。おかげで〈ムシュマッヘ〉の制御権は半ばあなたに奪われてしまっている――由峻様、あなたの勝ちです」


 状況を把握する。ヒフミの一撃で、ヴァルタンと敵性ユニットの接続は切断された。

 通信妨害も止んだことで、由峻は戦闘駆体〈ムシュマッヘ〉に対して電子戦を行っているのだ――何らかの電子機器を通して通話しながら。


 今ならば、〈結線〉でヴァルタンの躰を支配下に置くことも出来るはずだった。

 まだ変異脳は十分に回復していない。

 それまで、ヒフミの復活を悟られるべきではなかった。

 声しか聞こえないおのれが恨めしかった。


『〈ムシュマッヘ〉の起動権限は、本来、わたしだけが占有するものです』

「由峻様、それは事実の誤認ですな。この異種起源テクノロジーの申し子たちは元々、人類連合の所有物。組織の想定する、最悪の絶滅戦争に備えた戦略兵器なのです――如何に組織の創設者と言えど、シルシュ様個人の財産ではない」


 それに、とヴァルタンが笑う。


「あの御方自らの遺伝子から設計され、その技能と記憶を複写されたあなたは、確かに唯一無二の作品だ。しかし、それだけでシルシュ様の遺産と責務を継ぐ必要などない」

『それは、あなたが決めることではありません』

「実に、仰るとおり。しかし、わかりませんな――何故、あなたはそうまでしてホモ・サピエンスの存続にこだわるのです? 彼らとて、下位互換の種に生まれたかったわけではありますまい」


 妙だった。

 常ならばあり得ないほど、ヒフミの遡航再生の速度が遅い。

 ヴァルタン=バベシュとの戦闘の最中、変異脳に生じた焼けるような熱。

 もしかしたら、ヒフミの脳組織に何らかの異常が生じているのかもしれなかった。


 焦りが生じ始めていた――緊張感なく喋り続ける敵の言動自体が、あまりにも不自然なのだ。

 ここにガンシップが来るまで、もう時間はない。

 一体、何が狙いだ。


「優れた容姿、増強された身体能力、規格化された知性――我らはすでに人の宿痾しゅくあを超克しているではありませんか。思い通りの美しい躰も! そこにあるべき機能美も! 賢く理性的な人格も! すべての亜人種は生まれながらにその恩恵を選べる! 我らはとうの昔に、人の夢の一つの結実としてここにいる。そうでなければ、シルシュ様が、第二世代たちの人との交配機能をつけた理由がない」


 ヴァルタン=バベシュは高らかに謳う。

 人の未来に夢など見るなと、到達すべき幸福など、とうの昔に受肉し底が見えていると嘲り笑う。


「あらゆる犠牲は歴史になり果てる。二一世紀の蛮行、数十億の断末魔さえも、いつか、相対化された価値観の問題へ落ち着くでしょう。民族意識や亜人憎悪が、たしかに隆盛していながら世界の総意となり得ないように。――あと二〇年もすれば、古くさい老人の物言いと一蹴されるでしょう。人連の文化保護など、単なる偽善です――我らは国家を解体する。諸民族を解体する。不都合な価値観を葬り去る。人連の素晴らしき新世界は、あらゆる旧時代の屍の上に築かれる。地球という名の動物園で、少しばかり種類の違う動物に文化や民族のラベルを貼るに過ぎない」


『そうまでして、人間を憎まなければいけなかったのですか』


 違う、とヒフミは声にならぬ声を上げる。

 〈結線〉で、この怪物の過去を覗き込んだ彼にはわかってしまう。

 この男は心底、人間を愛している――それでいて、その犠牲と無意味を冷笑する意図が理解できなかった。

 神話主義者のように、人類種を侮蔑しているなら、まだよかった。


 しかし、この男にあるのは、人の尊厳なき世界への怒りだ。

 恐ろしい共感があった――その激情は、ヒフミの胸中にあるものと同質であった。


「ほぉ……らしくないことを仰りますな、由峻様。ではお尋ねしますが、人間の集まりである日本政府は、あなたをどう遇しましたかな?」


 沈黙があった。

 塚原ヒフミは知っている。

 導由峻しるべ・ゆしゅんが、その手を汚してしまっていることを。

 軟禁同然の生活を強いられ、幾ばくかの自由の交換条件として数多の兵器を作り上げたことも。

 その境遇から脱するため、悪辣な陰謀を組み立て、それによって生じる人死にを許容したことも。

 彼と彼女の再会は、そういう薄暗い事情抜きに成り立たない血塗れの事件だった。


「人を死へ追いやる陰謀に荷担してでも、自由を得たいと願ったのでしょう? ――そこまでご自身を追い詰めた生き物のさがに、まだ希望を持っているとは」


『人の愚かさも、醜さも、わたしは許しましょう』


 少女の声は、ぞっとするほど冷たく澄み渡っていた。

 迷いのない言葉が、これほどおぞましく聞こえるものだと、塚原ヒフミは信じたくなかった。

 なぜならば、それは。


『ヴァルタン=バベシュ。あなたが、わたしの未来を阻むなら――その命、ここで失うものと覚悟しなさい』


 その傲慢は、どうしようもなく、彼が殺してきた怪物たちと同じ物言いなのだから。

 目が見えない。

 脳すらも十分に回復していない。

 こうして思考している自分が何者なのか、わからなくなるほどに。

 それでも、塚原ヒフミの心臓は動き出している。



「私の目的は、もう叶えられているのですよ――我らの同胞よ、刮目かつもくしなさい。そして知りなさい」



 どくどくと脈打つ音を聞き取り、ヴァルタン=バベシュは穏やかに微笑んだ。

 愛し子を想うように。





「――この煉獄に、光差すときを」





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