第21話 ある日、森の中

 川沿いを歩いての移動は、困難と言わないまでもやはり大変だった。特に悪路と、夜間の対応が想像以上にきつかった。

 玉ねぎ探しの時もそうだったが、どこに行っても整備された道などなく、どうしても歩きづらいから仕方ないことではあるんだが。


 今回はそれを見越して靴も用意してきたので、あの時に比べれば負担は軽減されているはずだが、川沿いという地形が条件を悪くしているようだ。転がっている石が多いんだよなぁ。

 おまけに靴は俺の知識および力量不足で、決して頑丈とは言えない。作っておいて正解ではあったが、道中何度も悲鳴を上げてたびたび応急処置を繰り返すことになった。革と樹皮だけでは足りないのかもしれない。これは今後の課題だな。


 だが何よりきつかったのは、夜だ。近くにほとんど誰もいない夜があんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。

 遠くから聞こえてくる夜行性動物の鳴き声はもちろん、風で揺れ動く草木のさざめきですら、神経を削るのだ。原始時代の生活にも大概慣れてきたとは思っていたが、元二十一世紀の民には相当辛い。


 あと、夜営で感じたことは、やはり原油が好き放題使えるありがたさか。常に湧出し、それによっていつでも火が焚かれている状況がどれほどありがたいか、よくわかったよ。

 何せ棒と板切れだけで着火するって、バカみたいにしんどいのだ。帰ったらあの火に出会えたことを感謝して、何かしらの神様を祭ってもいいなと思うくらいにはありがたい。


 これでメメの目と耳がなかったら、野生動物とも出くわしまくってとんでもないことになっていただろう。

 彼女の索敵能力はやはり抜群に優秀で、危険そうなやつがいたらできるだけ避けて行動できていた。これは本当に大きい。


 なお、ディテレバ爺さんの機嫌は、互いの体力消耗を加味して、一定時間ごとにメメの肩車を交代するということで治った。チョロいじじいである。


 まあそれはともかく。


 いかにメメの能力が優れているとは言っても、結局は一個人の範疇でしかない。人間に絶対はなく、そこに不運という要素が絡み合ってしまったら、予測や警戒などあっさりとひっくり返されてしまう。


 つまり何が言いたいかというと、今まさに俺たちの目の前に臨戦態勢のクマがいて、かつてないピンチだということである。


「…………」

「…………」


 全員言葉もなく、かといって動くわけにもいかず硬直している状態。

 一方のクマは、誰かが動いた瞬間にでもとびかかってきそうな状態である。どう考えてもこちらが不利だ。


 出会いは不幸な事故だった。

 出発三日目の昼過ぎ。差し掛かった川が極端なS字を描いていたから、ここは川に沿わず突っ切ればいいだろうと判断して進んだら、木立ちとそれに伴う草むらの影からのそりとクマが起き上がったのだ。

 そのサイズは、余裕で二メートルを超える。というか、普通に三メートルくらいはあると思う。見た目はヒグマに似ているが、同じではない。もちろん時代が時代なのでヒグマでないことは間違いないが、問題の危険度で言えばどっこいだろう。


 そんなやつにどうして気が付かなかったのかと言えば、メメの警戒網にぎりぎりで引っかかっていなかったからだと思う。

 メメの超視力は、透視ではない。遮蔽物があればあるほど遠くは見通せない。そして耳も、反響定位に頼っている以上は、遮蔽物が大量にあると精度が落ちる。だから木陰の草の中で寝そべっていたクマを見落としてしまったのだ。


 で、うっかり見落としたおかげで至近距離になってから互いに気づいたわけなのだが。彼我の距離、実に三十メートル未満。既に殺る気のクマにしてみれば、あっという間に詰められる距離だ。

 ついでに言えば、その距離もじりじりと詰められてきているので、ぶっちゃけるまでもなくヤバい状況である。


 そんな中、我が言語自動修得能力さんは寝ている。爆睡中のようだ。

 動物と会話できたらいいなと、能力を自覚してからほんのりと考えていたのだが何の反応もない。あわよくばクマと会話して危険を回避! と遭遇直後は思ったんだけどなぁ……。

 動物は対象外なのだろうか。いやいや、単に距離が足りないだけだと信じたい。ディテレバ爺さんとの遭遇時は十メートルなかったから、そういうことなんだろう? なあ、そうなんだろう?


 それはさておき、こうなったからには突如俺に新しい能力が目覚める展開を期待したいところだが、もちろんそんなことがあるはずもない。

 ついでに言えば、特に名案も浮かばない。物語の主人公ならこういうときとっさにいいアイディアを思いつくのかもしれないが、あいにく俺の主人公力はモブ並みだ。何も思いつかない。現実は非情である。


「グルアァァ!」


 そしてどこまでも非情な現実さん……もとい、クマが遂に牙をむいた。猛烈な勢いで突進してくる!


 ターゲットは……俺か!?


「どぅおわあぁぁっ!?」

「ギーロっ!?」


 クマのタックルを、ぎりぎりのところで横に跳んで回避する。と同時に、背後で何かがちぎれる音が聞こえた。

 音と同時に、跳躍とは別方向のエネルギーによって狙った方向に跳べなかったこと、次いでごろごろと地面を転がることができたあたり、恐らくは背負っていた籠が直撃を食らったんだろう。


「ギーロ、大丈夫か!?」

「ギーロさん!」


 みんなが口々に声をかけてくれるところを聞くに、俺以外は無事か?

 それは嬉しいが、そんなことよりクマは一体……って、むむっ?


「がふがふ、がふぅっ!」

「……あー、なるほど?」


 俺から籠を引きちぎったクマは、その籠を抱えて中に入れていた保存食の肉をすごい勢いで食べていた。

 なるほど、大体わかった。どうやら敵対しそうな俺たちを蹴散らすより、図らずも転がり込んできた肉のほうがやつにとって優先度が高いらしい。

 よほど腹が減っていたのか、こちらにはもう見向きもしない。今なら不意を突けそうだが……銃もなしに人間がクマに挑むのは危険すぎる。あとあとのことを考えればこのままにするのも怖いが、ここは逃げたほうがいいんだろうなぁ。


 というわけで身振り手振りで逃げることを伝えながら、ゆっくりとクマから距離を取る。みんなとなんとか合流しても特にこちらに対してリアクションがなかったので、一目散に逃げることにした。


「走るぞい!」

「わかってる、足がちぎれるまでやるよ!」


 乗せていたメメを抱きかかえる形に移した爺さんが言うので、全力でダッシュしながら応じる。

 うっかり大きめの声で応じてしまったのだが、そこまでしてもクマが追いかけてくる気配はない。その事実にほっとしながらも、できるだけ距離を取るべく俺たちはしばらく走り続けた。


 そうやって誰もろくに話すことなく、走りと早歩きを交互に繰り返しながら移動し続けておよそ一時間。俺たちは見通しのいい川べりに辿り着いた。

 そこで一斉に緊張の糸が切れる。全員がため息と共にその場に座り込んだ。


「……うひぃー、怖かったァー!」

「死んだかと思ったッスよー!」

「俺たち生きてますよねー!?」


 三人組が口々に言うが、今回ばかりは全力で同意する。


「ああ、生きているよ。全員無事だ。……メメ、大丈夫か?」

「だだだ、大丈夫じゃないのじゃ……」


 震え声で答えたメメをよく見れば、爺さんの腕を締め付けるようにしてしがみついている。爺さん、それでよく平気だな。愛のなせる業か。


「……爺さん、さすがにしんどいだろ。代わるよ」

「…………」


 それでも痛くないわけではないらしい。爺さんは無言で頷いた。


「うわぁぁんギーロー!」

「おうおう。よしよし」


 爺さんから降りたメメが、砲弾のような勢いで飛び込んできた。よっぽどクマが恐ろしかったようだ。


 まあ無理もない。爺さんはもちろん、バンパ兄貴より大きかったのだ。そんなものが突進して来たら、誰だって恐ろしいに決まっている。

 氷河期で全体的に生き物のサイズが上がっていることを考えると、あれでも最大級ではないと思うが……それは言わないほうがいいのだろう。


 ところでメメさんや? 俺の下半身がやたら生ぬるいんですが、これは一体何なんですかね?


「……このまま川で水浴びしようか」

「…………」


 ごめんと言いたげに、メメが真っ赤な顔でこくりと頷いた。


 うん。


 仕方ないさ。安心して、色々と緩んだのだろう。

 仕方ないさ……。


「お疲れさん。災難であったな、ギーロよ」


 水浴びの振りをしながらメメをくまなく洗って、ついでに自分も洗って川から戻ってくると、火を焚いて待ち構えていた爺さんに早速声をかけられた。

 彼に軽く礼を言いながら、その火にメメと一緒に当たる。


「いや本当に。こんなに怖い思いをしたのは久しぶりだ」

「そうじゃろうなぁ、お前さんは狩りには出んしの」

「そうなんだよな……」

「もう少し距離があったら、返り討ちにできたんじゃがなぁ」

「えっ、ウッソだろ爺さん……相手はクマだぞ?」

「え?」

「えっ」


 お前は何を言ってるんだ、と言いたげな爺さんの顔を向けられて、俺は言葉を失った。

 え、いや。え? マジで? マジで言ってるの?

 だってお前、クマだよ? しかもツキノワグマじゃなくて、三メートル級のやつ。そんなやつ相手に生身で返り討ちって、本気で……。


 ……言ってる顔と目だ……。


「丸太がなければちと苦戦したじゃろうが」

「……俺はもしや、トンデモ種族にトンデモ武器を供給してしまったのか」


 丸太があるだけでクマと戦えたのか、アルブス……。いや爺さんの口ぶりだと、もしやなくてもなんとか戦えるくらいには戦力があるのか。

 ……ゴリラかな? いや、ゴリラよりヤバいのでは……?


「…………」

「…………」


 妙な沈黙が広がった。なんというか、なんも言えねぇって感じ。


「……ところで、食料が減ってしまったわけじゃが、日程はどうする?」


 それが耐え切れなかったのか、爺さんが話題を切り替えてきた。

 もちろん、俺は全力でそれに乗っかる。


「そうだな、一日早く切り上げて戻ることにしよう」


 幸い、こういうこともあろうかと食料は全員で分けて持ち運んでいた。俺一人が籠ごと食料を失っても、一日、二日分程度の食料が消えたくらいのものだ。これくらいなら、引き返すタイミングを一日早くすればなんとかなるだろう。

 それに準備しているときに触れたが、いざとなれば川で魚を獲って食べればいい。釣竿や網の類はないが、水面に出ている岩に向けて石をぶん投げれば魚が獲れるはずだ。


 ただし、これを現代日本でやってはいけない。無差別に周辺の魚を仕留めてしまうから、基本的に禁止されているのだ。原始人との約束だぞ。


「……と言ったところだな。ただこれをやると、たぶん大量に獲れるだろうから最後の手段かな? 獲れ過ぎた場合、間違いなく余って腐らせることになるし」

「なるほど、それもそうじゃの」

「というわけで、大筋の予定には変更なし。ただし、予定より一日早く、明日湖にたどり着けなかったら戻るということでどうかな?」

「「「ウィーッス!」」」


 既に元気を取り戻していた三人組に対して、メメは少し遠慮がちに頷いた。

 先ほどの粗相を気にしているのかもしれない。それともクマと遭遇したこと自体を気にしているのか。


 何はともあれ、後でフォローしておくかな……。

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