第16話 もじ○ったん
初めて土器を作ってから一ヶ月が経った。早いもので、俺が原始人に転生しておよそ七カ月が過ぎたということになる。
あの日を元日として基点にしているので、今はちょうど七月の上旬だろうと勝手に決めているのだが……季節や気温の移り変わりを見るに、わりと適切な気がする。
つまり何が言いたいかというと、今は夏! ということだ。
夏と言っても、現代日本のような暑さではない。最初の頃に比べれば格段に気温は上がっているが、あの高温多湿な夏とは比べるのもおこがましい。湿度については地域的な違いもあるだろうが、だとしてもこの差はひどい。氷河期とはよく言ったものだ。
まあそれはともかく、この一ヶ月何をしていたのかだが……焼成待ちだった土器を順次野焼きしつつ、基本的には文字の普及に時間を割いていた。
以前、俺に好意的な女たちにカルタ用の絵札を作らせていたと言ったことがあったと思うが、あれが完成したのだ。
文字という概念が神々の世界で用いられている伝達手段であり、俺があちらで勉強してきた情報を効率的に伝えるためのものだとわかってもらうのに時間はかかったがな。どうにかこうにか、文字を学んでもらう体制が整いつつある。
今はまだ、大半がカルタという最新の娯楽に親しんでいる程度だが……これについては急いでどうにかなるものではないし、まずはしっかり普及させることを優先したほうがいいかと思っている。
一番文字の習得に熱心なのは、バンパ兄貴だ。驚くことに、兄貴は文字の重要性をその場で理解したのだ。
「ギーロが学んだ神様の知識を文字にしておけば、ギーロに万が一があっても俺たちはがんばっていけるだろう? これは素晴らしいことじゃないか!」
と、当たり前のことのように言った兄貴は、原始人にしておくのがもったいない出来人と言っていい。
俺が文字の普及を意図したのはまさにそのためだったので、理解してくれたことが素直に嬉しかった。兄貴は本当に俺の良き理解者だ。普通、新しいことを始めればそもそも理解されないものだろうに。
文字の普及に舵を切れたのも、そんな兄貴が各方面に調整してくれたおかげだ。まったく兄貴には頭が上がらない。
「ギーロ、ギーロ」
「ん? どうした?」
この先のことに思いを馳せつつあることをしていた俺の下に、ス・フーリが駆け寄ってきた。
俺がそちらに目を向けると、彼女は言葉では応じず、手にした小石で地面に文字を書き始める。チチチ、と小刻みに舌打ちをしているのは、書いている場全体の確認をしているのだろう。
ほどなくして、そこに「モリヤ・メメコ」という文字ができあがった。歳相応の拙さが目立つ文字ではあるが、それは間違いなくカタカナだ。
「どうじゃ?」
そして期待に満ちた目を向けてき……ああいや、相変わらずのメカクレさんかつ常時瞑目しているので、この表現はちょっと奇妙なのだが。それらしい表情を浮かべて俺の方を向いてきた。
彼女の意図するところを理解した俺は、一つ大きく頷いて、彼女の頭をなでる。
「ああ、完璧だ。よく覚えたな、偉いぞ」
「やったー!」
俺の答えを受けて、彼女は勢いよく万歳。そのままの流れで俺の身体に飛び込むようにしてぎゅっと抱きついてきた。
それを正面から受け止めながら、うんうんと何度も頷いて見せる。
「メメは頭がいいな。あまり長く目を開けてられないのに、よく覚えられるし書けるものだ」
「へへへー」
顔の筋肉という筋肉を緩めきったかのような笑みを浮かべるス・フーリ――改め、目々子。
森で話をしてからというもの、それなりに話ができるようになった。そして今日までの一ヶ月で俺はス・フーリとは別に、彼女に名前を与えている。それが目々子だ。
名づけた理由は単純で、氏族名の時と同じくややこしいから。何せ扱いの上では俺もス・フーリなので、たまにそう呼ばれるのだ。モリヤ一族からは高確率で呼ばれていた。連中、二人でいる時でも容赦なく呼んでくるから本当にややこしかったんだよ。
なので、ス・フーリという言葉はあくまで特殊な力を持った存在を指すためだけに使うことにして、俺たちのことはちゃんと名前で呼ぶように周知したわけだ。なので今後、「ス・フーリ」は称号のような感じになる。
もちろんすぐに徹底はできないから、今は違う呼び方が混在しているが。
目々子の意味は、日本人の皆さんにはあえて説明するまでもないだろう。名は体を表すということわざがあるが、それにならうように表していた性質をそのまま名前にしたわけだ。
名づけておいて、メメと縮めて呼んでいるのはご愛嬌である。もっとも、このニックネームで呼ぶのは俺だけだが。
「それとー……」
「ん?」
また新しく、メメが字を書き始める。今度は多い。そして一定の規則が見て取れる……って、これ。
「できた! どうじゃ?」
「お前……本当にすごいな。もう五十音全部覚えたのかよ」
「えへへー。カルタ、面白かったからのー!」
そこには、しっかりと五十音が並べられていた。しかもひらがなとカタカナ両方である。
天才かこの子。いくらまだ子供で柔軟性があるとはいえ、たった一ヶ月程度で百文字も覚えられるか?
カルタは確かに作ったが、そこまで劇的な効果を発揮するとは思えない。確かに娯楽を兼ね備えた優秀な道具ではあるが……つまるところこれも、
「さーギーロ、約束通り神様の言葉を教えとくれっ」
「はー……わかった、わかったよ、教える。まさかこんなに早く教えることになるとはなあ……」
ぽりぽりと頭をかきながらも、俺はそこらへんに転がっていた小石で地面に文字を書いた。
ひらがなでもカタカナでもない。漢字で「目々子」だ。
「なんか、ひらがなカタカナより細かいのじゃ?」
その文字を、メメは何度も目を瞬かせながら凝視する。
「そうだ。何せひらがなとカタカナは、神様の文字を簡略化したものだからな。本来の神様の文字は、それ一つで意味を持つ文字なんだ。これが……」
言いながら、「目」の字を丸で囲う。
「……目という意味の文字だ。それからこれは、同じ文字が続く時に使われる繰り返し用の文字」
正確に言えば、おなじと読む「々」は記号扱いだったと思ったが……面倒だし漢字にしてしまっていいだろう。
「で、これが『子』。子供という意味だ。つまり、俺がお前につけた『目々子』という名前は、単純に言えば目の子供という意味になる」
「へー、そんな意味があったのか。わしにぴったりじゃのー」
「だろう? そういう名前をつけたからな」
俺の説明を聞いたメメは、早速地面に向かう。そのまま舌打ちを刻みながら字を書き写し始めた。
今までの感じから言って、この状態になるとしばらくは没頭することになるだろう。俺は彼女に一言断りを入れて、やりかけていた作業に戻ることにした。返ってきたのは生返事だったので、いいということだろう。
……思えば俺も小学生の頃、ああやって一生懸命漢字の書き取りをやったものだ。今となっては懐かしい思い出だな。
しかし……漢字というものは膨大な量があるんだよなぁ。常用漢字だけで二千以上、日常でわりと使うがなぜか常用漢字に入っていない文字を含めるととんでもない量になる。
ましてや漢検一級に出てくるような難読漢字、ほぼ使われない漢字なども含めるとなぁ……。確か、全部で十万文字以上あるんじゃなかったか。人類史上、最も字数の多い文字だった気がする。
そんなものを全部覚えさせるのは無理だから、漢字の使用範囲は常用漢字を想定していたのだが……まだ考えがまとまっていないうちにメメがひらがなカタカナをマスターするとは、想定外だ。
「……まあ、こうなったら覚えられるだけ漢字を覚えさせてみるか。そうすれば漢字は神聖文字、ひらがなとカタカナは民衆文字みたいな感じでうまいこと区別がつくだろう」
考え方のモデルは古代エジプトのヒエログリフだ。
ロゼッタストーンに記されていて、ナポレオン一世が持ち帰ったことで解読に繋がった逸話で有名なヒエログリフだが、実はかの石に記されていたのはそれだけではない。この他に、ヒエラティックとデモティックという文字もあったのだ。
このうちデモティックは民衆文字と呼ばれ、簡略化された形態の文字と言われている。その名の通り大衆の間で日常で使われていた文字らしい。一方のヒエログリフやヒエラティックは、神官やファラオなど権威ある者が主に使っていたという。
これにならって、漢字を神聖文字として一部の人間に、ひらがなとカタカナを民衆文字として全員に教えようと思うのだ。ひらがなカタカナの成立から言っても、これは無理な話ではないはずだ。
個人的には、最上位の言葉として、漢字ひらがなカタカナ外来語、すべてが混じり合う現代日本語をそのまま設定したいところだ。あわよくばそのまま群れの言語を日本語に染めてしまいたいが……どちらも実現性はかなり低いだろうから、あくまで野望だ。
なぜそんなことをするかと言えば、秩序がオブラートよりも薄っぺらいこの時代に、権威を基にした秩序を構築しようと考えているからだ。特定の者しか使えないということは、それだけで権威を産むからな。ましてや俺とメメは
そしてそういう秩序が、今後群れをまとめていく時には絶対に必要になるはずだ。前世での人類史からして、それは確信と言っていい。もちろん、それまでに俺が死んでいる可能性が圧倒的に高いが……次に繋げる準備をしておくに越したことはないと思うのだ。
「ま……漢字は書き取りだけでなく読み方でもコケるだろうから、少しずつやっていけばいいだろう」
黙々と書き取りをしているメメだが、まさか一つの文字で複数の読み方が存在するとは露ほども思っていないだろう。
外国人が日本語を習得する際のネックの一つでもある読み方の豊富さは、この時代でも間違いなくネックになると思う。日本人だった俺だって、全部は覚えていないしな……。
「おーいギーロ!」
「なんだ爺さんか。どうした?」
メメを尻目に作業を再開しようとしたのに。やりたいことがある時に限って人に呼び止められるのはなぜなのだろう。
声のした方に顔を向ければ、そこには今まさに狩りから帰ってきたらしいディテレバ爺さん。獲物が見当たらないが……今日は不発だったのだろうか?
「おかえり、お父!」
「ああ、ただいま。おー、文字、がんばっとるんじゃな」
「うん、がんばって神様の文字、覚えとるぞ!」
「うんうん、いいことじゃな。……っと、そうそう、ギーロよ。今日の狩りでな、こんなものを見つけたんじゃ。どうじゃろか、食えるかの?」
爺さんはそんなことを言いながら、背負っていた籠からあるものを取り出した。
「これは……これはまさか!?」
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