第6話
「さて、なにから話したものかな」
一対のソファーに向かい合って座る。間にはローテーブルがあって、マグカップに注がれたブラックコーヒーが湯気を立てていた。コーヒーの少し酸味がかった香りが部屋中に満ちる中、僕は思わず部屋を見回していた。
――あまりにも生活感がない……。
右手側はコンクリート剥き出しの壁があるだけで、絵が飾られていたりポスターが貼られているわけでもない。飾り気が一切ない。それに比べて、左手側にはカーテンの仕切りがある。その向こうは、おそらく風呂やトイレだろう。
正面には木製の玄関があって、その隣には申し訳程度の台所がある。シンクに目立った汚れは見えないし、使用済みの食器類も見えない。本当にここで生活しているのか、それとも几帳面なのか。でも、玄関から入ったとき。三和土と居間の区切りがなく、どこで靴を脱げばいいか迷っていたとき。
「細かいことは気にしなくていい」
と言って、彼女はさっさと室内に入っていってしまった。一応靴は脱ぐみたいだから、僕も彼女が脱いだ手前で脱いでおいたけど。それを考えると、決して几帳面な性格ではなさそうだ。
やっぱりどこを見ても装飾なんてなにひとつない。それに、すべてが灰色に染まっていて、余計に殺風景に感じてしまう。
「なにか珍しいものでもあったか」
「あ、いえ、なんでもないです」
言いながら、慌てて体を正面に戻す。あまりの殺風景さに思わず見回しちゃったけど、他人の部屋をじろじろ見回すなんて、あまりいいことではない。異性ならばなおさらだ。
「そういえば、自己紹介がまだだったな」
猛烈に反省していた僕に反して、彼女は朗らかに名乗った。
「
言って、目線で促してくる。
「
名前を言うだけにしようと思ったけど、思わず敬語になってしまった。
「そう固くなるな。敬語も使わなくていいんだぞ」
彼女、麻倉さんが微笑みながら続ける。
「どうも……」
でも、僕はなんとなくかしこまってしまう。さっきまでの威勢はどこへ行ったんだろう。麻倉さんが悪い人ではないとわかった途端、僕の人見知りスキルが遺憾なく発揮されている。
「ともあれ、とりあえず話を進めようか」
麻倉さんが背を離して、身を乗り出す。
「芦原は、こちら側に来た原因に思い当たりはあるか」
そして、質問が来た。しかし、それに対する答えを、僕は持っていない。なにしろ。
「突然だったから、なにも」
気付けばここにいた。紗英も、僕も。
「それより、こっち側ってどういうこと」
その基準がわからなければ、こっちもあっちも判断できない。
実際、今僕がいるこのビルは、麻倉さんの言うこっち側ではない、僕が元いた世界にもあったものだ。人が住み着いているなんて噂は聞いたことがないけど、幽霊が出るなんて噂がある地元限定で有名な廃ビルだ。
「こっち側、か」
麻倉さんが、僕の問いに腕を組む。
そして、そうだな、と前置きして、
「こちら側は端的に言うと、時が止まった世界だ」
続けて、
「光速に近い速度で移動する宇宙船。それに乗って旅した人間が地球に戻ったとき、地球ではその数倍の時が経っていた。なんて話を聞いたことがあるだろう。元はアインシュタインの特殊相対性理論だが」
と、問うてきた。
それなら、聞いたことがある。SFの題材としてよく取り上げられるネタでもあり、もっともポピュラーな、
「タイムスリップの原理」
その通り、とでも言うように、麻倉さんが顎を引く。
「理論の詳細は置いておくが、簡単に言うと、私達ひとりひとりがその宇宙船だと思ってくれていい。こちら側と言っているが、なにも別々の世界ってわけじゃない。あちら側も同じ場所に、同じ時間軸に存在している。ただ、あちら側からは私達を知覚できないだけだ。
しかし、観測されないだけで、私達は確かに存在している。だから、体感時間はなにも変わらないが、実際は私達だけが時に取り残されている」
なんだか超常現象のような話になってきた。僕らの日常からは考えられない。僕だって、平時なら信じなかっただろう。けれど、麻倉さんの、弘也の常識から外れた瞬間移動や、色のない風景を見てしまっている。だから、否定しようにも、否定しきれない。
だから、代わりに問うてみる。
「さっきやってた、瞬間移動みたいなもの、あれはなんなの」
その問いに、麻倉さんは短く唸った。何事かを思い悩むかのように眉間に皺がよる。口元に手を寄せて、そのまましばらく黙り込んでしまった。
1分か、5分か。考え込んだ後、麻倉さんは答えをくれた。うまく説明できるか自信はないが、と前置きして、
「私達は、こちら側の人間は、光速で移動することができる。光の反射に近い速度で動けるのだから、初見では視認することすら難しいだろうな」
「どうしてそんなことが……」
「どうしてだろうな。それは私にもわからない。だが、こちら側の時間の進みは、ほとんど止まっているに等しいほどに遅い。引き伸ばされた時間の中では、今と1秒後では体感で何十時間もの開きがある。光は1秒間で地球を7周半するそうだが、光には及ばないまでも、私達もそれに近い速度で動けるのだろうな。こんなふうに」
言った瞬間、目の前から麻倉さんが消失した。瞬間的に左手側に圧力を感じるも、振り向いたときには、その圧力さえもすでに消失していて。
「こっちだ、芦原」
背後から声をかけられた。ソファーの背もたれに身を預けるように振り返れば、灰色の陽光が差し込む窓を背に、腕を組んで立っている麻倉さんがいた。
「どうやって……」
「どうやって、か。それは難しい質問だ」
今度は普通に歩きながら、麻倉さんが対面のソファーに戻る。
「特別な方法や技術はない。こちら側にいる以外、私もただの人間だからな」
「ただの人間には、そんなことはできないでしょ」
「だからこそ、説明が難しいんだ」
僕の疑問に、麻倉さんが頷く。
「芦原。君は立って歩くとき、どうやって歩くのだ」
「どうって言われても……」
問われ、しばし黙考する。
立って歩く。普段、何気なく行っているその行為を、どうやってと改めて問われると、どうにも答えづらい。右足を出して、次に左足を、なんて当たり前過ぎて答えとは異なるように感じる。
「それが、私がただの人であり、光速で移動できる理由だよ」
答えに詰まる僕を見て、麻倉さんが答えてくれた。
「当たり前過ぎて、答えに困る……」
「そういうことだ」
麻倉さんは、僕の返答に笑みを浮かべながらソファーに背を預ける。
「こちら側の奴らは、全員が私と同じことができるからな。これが普通のことなんだ。こちら側ではな」
一拍の間を置いて、マグカップを手に取る。
「さて、話を戻すが、私達は基本的に、そちら側に干渉することができない」
「干渉できない……」
僕の疑問符に、麻倉さんが頷いた。
「そうだ。干渉する、すなわちその物に変化を与える行為には、時間の進行が伴う。だから、それを持たない私達には、なにかに影響を与えることなんてできないんだ。何物からも傷付けられず、何物も傷付けることができない。私達はそんな存在だ。まるで亡霊だな」
その言葉が、自嘲気味に告げられる。どこか引っ掛かるような物言いだった。でも、それがなにを意味するのか、的確な答えが見付からない。思わず言葉を探してしまう。
「しかし、例外がある」
そんな僕に構わず、麻倉さんは話を続けた。
「何物にも干渉できない私たちが、そちら側に干渉できる唯一の方法。それは、対象に私達を知覚させることだ。だから、物に対してはどうやったって干渉することは不可能だ。物は私達を知覚してはくれないからな。だが、人間ならば、話は別だ」
そこまで言ったところで、麻倉さんの表情が険しくなった。険のある雰囲気が漂う。
「どういう、ことですか」
「芦原。そちら側では通り魔事件が続いているだろう」
「はい」
「その犯人はこちら側の人間だ。だが、そんな芸当ができる奴だって多いわけじゃない。今それができて、その力を行使する人間は、ただ一人」
なんとなく、嫌な予感がした。
「
麻倉さんの表情が苦しげに歪む。
「そんな危ない奴だったなんて……、このままじゃ、紗英がっ」
慌しく立ち上がった僕に、麻倉さんが静止をかけた。
「その点は、安心しろ。渡の目的は、あの紗英って子じゃない」
「それって、どういう……」
「今、渡の目的はただひとつだ。自分よりも強い奴と戦いたい。ただそれだけだ」
「戦うって、物騒な」
「今、こちら側ではその速度と性質ゆえに、危険なゲームが日常的に行われていてな」
「……ゲーム」
「あぁ、奴らはそう称していたな。私から見れば、もはやただの殴り合いでしかないが」
コーヒーを一口啜る。
「元は単なるチキンレースだったんだ。速度があれば回避ができる。だから、ビルの屋上から地上目掛けて落ちる中、どちらが先に逃げるかを競うものだった。だが、それでは飽きてしまったんだろうな。次第に、相手を突き落とす競技に変わっていった。それが今や、単なる殴り合いに姿を変えているんだ。最後まで落ち続けた者が勝ちから、最初に地へ叩き落した者が勝ちを経て、今は最後まで立ち続けた者が勝ちだ。
そして渡は、今やその頂点にいる。不動のトップだ。ここに、渡より強い奴はいない。内に強者がいないなら、外に求める。そうして、通り魔を繰り返していたんだ」
「通り魔とそれがどう繋がるの」
「私も、それは疑問に思っていたんだ。だが、それをお前が証明したんだ。
この世界では、速度が優劣のすべてを決める。ゲームがまさにそれだ。そして、渡はこの世界では最速。渡の動きについてこられる者はいない。だが、お前は違った。お前は、渡の動きを見て、攻撃をかわした。思い当たりがあるだろう」
言われてみれば、確かにあった。通り魔の犯行に遭遇したとき、妙な違和感を感じて横跳びに回避行動をとった。加えて。
「麻倉さんが止めに入ってくれたとき」
「あぁ、お前は渡の攻撃を避けた。それを見て、渡はやっぱりと言った。私は知らないが、以前にもお前は渡の攻撃を見切ったことがあるんだろうな」
「じゃあ、強い奴と戦いたい、その対象となるのは」
「そう、芦原、お前だ」
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