審理ノ参:宋帝

「墨田さん。おーい、墨田さん」


 ハッと気がついたのは、見慣れた教室だった。もう通い続けていると言っていい生徒指導室。いや、昨今はお仕置き部屋として悪名が高くついているので、カウンセリング室と名を変えているのだが。


 眼の前には男がいた。半袖の白シャツを来た、身長の高い好青年。知的な顔で、柔らかな微笑みは誰もが心安らぐようなそれ。


「あ、れ? ナビ……」


 そこまで言葉が出て、涼子は


「墨田さん、そんなに僕のカウンセリング退屈?」


「ここは?」


「ここはって。カウンセリング室でしょ。おかしいな、昨日は良く寝たって聞いてたけど。もしかしてお母さんとまた喧嘩した?」


 キョロキョロとあたりを見回す涼子。何か、とてもひどい場所にいたような気がするのだが、彼女は何も思い出せないでいた。


「私、ここにずっといた?」


「君にしては珍しいね。寝ぼけてるなんて」


 にこやかに微笑む顔。確かにそれは、涼子が夢中になった男の顔。


 涼子は「私、何言ってんだろ?」と言いながらつられて笑う。だがチクリと、心に刺さるものがあり――もやもやする。


「君がカウンセリング受けたいって言うからここ使ってるのに。無いならやめるけど」


「そうだったっけ?」


「――。大丈夫墨田さん? そういう子じゃなかったと思うけど?」


「何よ、かまってちゃんとでも言いたいの?」


「違うのかい?」


 そう言われて、涼子は悔しさを隠してプイ、とそっぽを向く反面。心の何処かで、彼には敵わないなと思ってしまっている。


 この竹下颯馬は涼子から見てとても知的な男に見えた。


 どこか抜けているような顔の優男だが、言葉の端々に知性が見て取れる。それでいて嫌味はなく、誰にも好かれるような人間だった。


 教育学部の出身で、今は涼子の高校に実習生として来ている。スクールカウンセラー実習も――この実習については、なかなかに高いハードルを越えなければならないようだが――兼ねているようで、一応問題児扱いされている涼子のカウンセリングを買って出ていた。


 涼子としては、最初こそ毛嫌いしていた。どうせこの体目当てなのだろうと。そうやって手を伸ばしそうになった男性教師に対して椅子を投げ、写真も撮ってバラすと脅したほどだ。


 だが颯馬は開口一番に「正直、こんなに綺麗な子と二人っきりだと間違いを起こしそうだ」と冗談のように言っていた。


 まさか、その言葉で心を開くなどとは。涼子自身も自分のことを馬鹿だなぁ、と思っていた。


 涼子はそもそも女の子である。他の女子たちがキャアキャアと黄色い声をあげるほどのイケメンが、爽やかな口調で冗談めいたことを言う。しかも、涼子だけへの言葉で。


 それからは急接近だったとも言える。一抹のプライドを保つために涼子はナメられないようにツンツンした口調であったり態度だったりするが……。


「そうだよ。かまってちゃんだよ」


「案外簡単に白状するんだな、


 名前を言われるだけで、顔が赤くなる始末だった。


 思わずコロッといきそうだ。今まで男など、イチモツをイキり立てるだけの肉棒野郎としか見てこなかった。実の父が不倫して家を出たのだ、涼子の心中たるや察するに余りあるものがある。


 涼子の住む街は片田舎の都市であるからか、学区内ではその悲惨な家庭状況は知られていた。とりわけ彼女は美しい上に、他者に優しいところもある。故に、学校でも男子と同じぐらい女子から黄色い声援をもらうほどの――ようは、静かな人気者だった。


「学校では名前で呼ばないでっていったじゃない竹下先生? 誰に聞かれてるかわからないよ?」


「この時間は生徒たちはほとんどいないさ。といっても、あんまり不審なことしてると先生たちがすぐに飛んでくる。なんせ、男と女。一つの空間に二人っきりだから」


「前の例もあるしね」


「あれを聞いた時は痛快だった。先生たちは君のことを怖がってるよ。そうとうやったみたいだね?」


「ここで引き下がったら、他の子もやられるでしょ? 現にあのクソエロ教師、他の子にも手を出しそうになって問題になったのに隠蔽されてやんの」


「でも君のセンセーショナルな行動は隠し事大好きの教育委員会もさじを投げた。結果、あの人は栄転という名の現場追放。だけど――これでますます日本教育の現場は上がクズで埋まると」


「これからセンセーになる人がそんな事言っていいの?」


「いいのさ。どうせ二年後には君のような問題児の面倒を見て胃をキリキリさせる。今から人を笑い飛ばせるような精神養ってないとね」


 涼子は「呆れた!」と大笑い。指を刺されて笑われている颯馬は、「今日の実習は成功かな。君が笑った」と言いながらサラサラと用紙に色々と書き留めている。


「ねえ」


 涼子が机の上に座る。颯馬の書いているのを上から覗き込むように、ちょっとだけ大胆に。


「今日はどうすんの?」


「どうもこうも。教育実習生は忙しいんだよ。またドライブつれてってあげるから、今日は帰りなよ」


「嫌よ。早く帰ったところでまた母さんの小言よ?」


「なら図書室っていう人類の英知が詰まった場所がある。そこで勉強するといい。最近は君の商店街にもスタバとかカフェできたんだろう? そこでもいいじゃないか」


「勉強ねえ。この問題児がやると思うの?」


「君は成績優秀だよ。案外やってるのは知ってる」


 涼子は肩を竦めて「ちえー」と頬をふくらませる。颯馬もその様子に肩を竦め、にわかに立ち上がり――涼子の頬にキスをした。


 突然のフレンチキスに涼子は目を丸くして、そしてすぐに顔が赤くなる。


 涼子と颯馬は付き合っていると明確に立場を示したことは無い。


 だが涼子にも、そして仮に他の人から見られたら明確に恋人状態であるかのような振る舞いをすることに、彼自身は躊躇無いようだ。


 そんなことをされてしまえば。いくら涼子であっても――恋を意識してしまうことだってある。現に、涼子はその顔を払うこともなく追撃してぶん殴ることもせず。ただただ唇が触れた場所に手をあてて、目をまんまるに開けている。


「ちょ……」


「また色々つれてってあげるから。今日は終わりな?」


 顔を赤らめながらムスッとする。颯馬はフフフと笑うと、書類をぱぱっとまとめて席を立った。


「スケベ野郎。いいつけるぞ?」


「君はいいつけないよ。それと墨田さん、帰りは気をつけてね? まだ君の事をパパ活の援交女子だか何だかって見る奴は大勢いる。街歩きもほどほどに」


「うっせ!」


 さわやかな笑みを浮かべて、颯馬はカウンセリング室を後にする。


 残された涼子はしばらく天井を仰ぐと――


 バッ、と。


 椅子の上で膝を抱えてプルプルと震えた。


 顔をあげられなかった。上げたら、蕩けているだらしない顔を晒してしまう。嬉しさと愛しさに心臓が爆発しそうだ。


 涼子は自分でも馬鹿だと思っている。


 あんなヒョロヒョロの単なる実習生に。顔だけいい馬鹿に。どこか斜に構えてるのがカッコいいだとか思ってる阿呆に。ぼんぼんだか帰国子女だか知らないけれども、こうやって気を許す奴にホイホイとキスをするような、ただの大学生の甲斐性なしに。


 夢中になる、などとは。



 ☆



 母親は癇癪玉のようだと常々思っていた。基本は良い人だということは理解している。


「ただいま」


「お帰り。ごはんできてるから食べてて」


「お母さんは?」


「食欲ないの」


 そう言って疲れ果てた体をソファーに投げ、テレビを見ながら死人のような顔をしている。


 今日はまだまともなほうだ。職場で何かがあったり、それこそ何かよくわからない地雷を踏んでしまうといきなりスイッチが入ってしまう。


 極力、当たらず触らず。それでいていい感じの加減を探りつつつ。まるで家庭での会話は、ジャングルの中で地雷撤去作業をしているようなものだった。


 涼子は言われるまま用意されたご飯を食べると、すぐに食器を洗って風呂を洗う。コインランドリーで乾燥機まではかけて力尽きた家の洗濯物をパパっとたたむと、頃合いになった風呂に一人で入る。


 湯船に口まで漬かりながら、今日のことを思う。水面にはあのいけ好かない――大好きな颯馬の顔が浮かんでくる。


「舐めんな」


 水面をはたくようにして、ぴしゃり。


 そうしてまた沈み込んで、ぶくぶくと泡を吹く。


 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。涼子は「らしくないぞ!」と自分に叱咤しながらも、その胸にある熱が自分自身を焦がしきっていることに情けなさすら感じている。


 母親の影響かもしれないし、父親のこともあるかもしれないけれども。これからは男に媚びない生き方をと心に誓ったはずなのだ。


 それなのに。


 それなのに――


 母に言ってみたら、どうなるだろうか。男に惚れてしまったと言ったならば……またヒステリックを起こして家じゅうのものというものを投げつけてくるのだろうか。


 愛なんてまやかしだと母は口癖のように言っていた。でもそれは、涼子に対しての愛もまやかしなのだろうかとずっと疑問に思っていて、母の思う愛と自分の考える愛に乖離が生まれ、別物に思えてきた。フィクションの中の創造物だとも思ったこともある。さもありなん、それまで涼子は男に惚れたことがなかったからだ。


 だが、今は。


 面と向かっては言うことはできないけれども、母親にノーを突き付けることができる。今ならできる。





 ――涼――――――





 ズキリ、と胸が痛んだ。


「??」


 これは颯馬のことを思ってとかそういう類ではない。すぐにそう思えた。外から耳元で言われたような、そうでないような。


 でも、とても頼もしくて、せつない声。


「どうしちゃったんだろう、私」


 ハッとして「いけない、あんまり長湯すると母さんが不機嫌になる!」と急いで体を洗って風呂場を出る。


 ドライヤーで髪を乾かし、颯馬にそれを撫でてもらうことを考えると、先ほどの違和感はすっかりどこかへと消え去ってしまった。

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