羈絆ノ八:鍵

 涼子が思わず眉間にシワを寄せるが、すぐにフッと笑っていつもの顔に戻る。怒りは一瞬のものだったらしい。


 それはいつも感じていたから慣れているものなのか。それともその母親に向ける感情すら諦めてしまっているのだろうか。ナビ助はなんとなく、その両方なのだろうなと思った。


「母親とは、そこまでうまく行かなかったのか」


「そうだよ。何かあるとすぐに私のせいにする。出ていこうとすると半狂乱になる。時々、思い出したかのように優しくなるし」


「不安定な母親だな。翻って言えば、両子の母親は押し潰されていたのだろう。心が折れていたのだろう」


「今ならそう考えられるかもしれない。冷静になって言えば、お母さんは私をかかえて一人で世の中に出て。不況の真っ只中、安いお給料でカツカツの生活だった」


「涼子。君の世界は貧しいのか?」


「え?」


「君の世界はとてもモノに溢れているように見えた。小生の知らぬもの、想像しえない便利なものが沢山だ。だが、涼子。君を見ていると、どうしても豊かとは思えない」


「そうかもしれない。何かが欠けたりしたら、もうその家は普通じゃない、みたいな。ウチは父親がいないだけで破綻してた。つなぎとめるのに精一杯」


「哀れとしか言いようがない。支えるべきものに支えを与えず、欲だけを答えるのみに注力される世の中と小生は認識した」


「ナビ助の時代もそんなんだったの?」


「ああ、大体は同じだ。だから哀れだ。時間が経てば幸せな世界があると思ったが。いやはや」


「哀れ、か。そう、私もそう気づいたのかも」


「気づく?」


「そう。気づいたの。引きつった顔のお母さんが突然小さく見えた時があってね、気づいたの。ああ、この人は哀れなんだって」


「母が哀れ、か」


 涼子が棚に乗っていた写真建てを手にとった。幻想的な、明らかに日本ではないが撮影された写真。これもまた、この本が脚色した歪みなのだろう。もしかしたら取り込んだ誰かの記憶がノイズのように入り込んで、こうやって説明のつかないものに差し込まれているのかもしれない。


「多分、いや信じたいんだけど……時々見せる優しいのが、本当の母さんだと思うの。真面目な人だったから今の自分を認めたくなかったんだと思う。だからああやって、ヒステリックに喚き散らしたんだ」


「大人になると非を認めるのは難しいものだ。引き難い歳になればなるほどそうなる」


「私の歳だって認めるのが嫌だよ。でも、だから私――ああそうだ、思い出した。この店、来たことがある!」


 涼子はそう言うとキョロキョロと見回す。そして壁にかけられている一枚の額縁をみつけると、それを徐に外して眺めた。


「あった」


「それは」


 ナビ助が近寄って覗き込むと、そこには涼子と、おらくはこの商店街の人たちが一緒になって写っているものだった。


「これ、母さんと大喧嘩して――ここの人たちに慰められて取ったやつ。ほら見てよ、私目を腫らしてる」


 たしかにそこには、黒髪だが今の涼子の面影のある少女が、むっつりした顔で写っていた。


「涼子の世界の写真は色がついているのか」


「ああそうか、白黒の時代の人だもんね。このとき、母さんが皆に宥められて――そうか」


「どうした?」


「たこ焼き屋。とりあえず美味しいものを食べろって言われて貰ったんだ。その時母さんは久しぶりに笑ってくれたっけ」




「涼子。それは金の卵だぞ」




「え?」


「何度も言うぞ涼子。ここは君の世界だ。小生が歪めて脚色したとはいえ、その中の全てが涼子に起因するものだ。そのたこ焼きなるものは、ここで売られているものじゃないか?」


「え、ええ。まあ。この商店街のたこ焼き屋さんだもん」


「つまり、ここにあるんだな?」


 涼子が頷くと、ナビ助はぴょんとカウンターから降りると、玄関マットの上で二足歩行のように立ち上がった。


「ナビ助立てるんだ。なんだか猫が恩返ししそう」


「よく解らぬが――そう、説明するなら興奮してしまったというのが正しいか。久しく支配者を倒す可能性のある主人公が現れたと」


「全然わかんない。それとたこ焼きと何が関係あるのよ」




「気づかないか? この世界――その、涼子が喧嘩したその時を、この曲輪は再現していると思うのだ」




 涼子はハッとした。


 確かに、あの時。大喧嘩して、この商店街の人に迷惑をかけたあの日。あの日も最初は夕焼け空で、影法師のように人が多くいた気がする。母親が恥ずかしさと怒りで、のしのしと商店街を歩いていたのをギャンギャンと泣きながら逃げた思い出が今、涼子の脳裏にありありと再生される。


 つまり、ナビ助は言いたいのだ。


 涼子と母親が仲直りになったきっかけのキーとは。その温かなたこ焼きにあるのではないのかと。


「ええ!? そんなのでいいの!?」


「考えうるにそれしかない! 涼子、そのたこ焼き屋はどこにあるんだ?」


「ここから出て右。四つ目のお店! でもどうしよう、私お金持ってないよ!?」


「それは多分なんとかなるだろう。ここは君を閉じ込める楼閣であると同時に、君を包み込む揺り籠のようなものなのだ。大丈夫だ、自分の人生を信じろ涼子」


「解った!」


「おっと、ちょっと待った!」


 涼子がドアに手をかけようとしたその時、ナビ助が邪魔をするようにして脚にまとわりついてくる。


「ちょっと! 踏むよ?」


「飛び出さん勢いだったからな。涼子、また追いかけっこはこりごりだ。慎重にだぞ?」


「……わかった。出会い頭に見つかったらそれこそ一巻の終わりだからね」


 涼子が一呼吸置くと、慎重に、音を立てずにゆっくりと扉を開ける。周囲を伺うが、あの支配者の気配は無かった。


 続いてナビ助がとてて、と道に出る。両側の道を見渡して、大丈夫だと尻尾を振った。


「急げ涼子。さっきの事もある。たこ焼きがなければ、いきなり襲いかかってくるかもしれないぞ!」


「解ってるって。焦らせないでよ!」


 そのままダッと走り出す涼子。影法師達が驚いたのか、涼子に道をゆずるようにはけ始める。


 だんだんと涼子の記憶が再生される。それと同時に、周囲の人だかりから人間のような声が聞こえてきた。僅かにだが、影法師達の輪郭がさっきより人らしく象られている。


 ナビ助の言う通り、ここは涼子の世界だ。涼子の頭の中の認識が強まれば強まるほど、それ通りに作用する。


 記憶の奥底に埋もれていた、涼子と母親と、そして外の世界のつながり。その細い細い糸を辿り、世界の見え方が変わってくる。今までぼやけていた輪郭がハッキリと浮かび上がる。何屋なのか解らなかった店構えが、どんどんと思い出と合致してゆく。


「もしかしてアレか?」


「多分そう! でも……うわ、何このデザイン」


 たこ焼き屋はすぐに見つかったが、そこは周囲の看板よりもさらに異質なものになっていた。


 その店だけが巨大なデフォルメされたタコをくり抜いたような店構え。ファンシーなのか不気味なのかわからないそこは、涼子の記憶が正しければあの時のたこ焼き屋だった。


 店を覗いてみる。


 涼子は「ここだ!」と叫ぶ。その内装は涼子の記憶と完全一致したのだろう。


「た、たこ焼き! たこ焼き下さい!」


 涼子がそう言うと、カウンター越しの影法師は一旦は首をかしげていたが、ああ、と言わんばかりに手を打った。やがて涼子に指をさしたガラスケースだけが、ひとりでにパカっと開いた。


 涼子がケースから取り出したのは、「涼子専用」と書かれたたこ焼き屋のパックだった。何故自分の名前が書いてあるのかはわからないが、手にとった時点でこれが求めていたものだと瞬時に納得できた。


「これ……? くれるの?」


 涼子がそう言うと、影法師は「もちろん」とばかりにサムズ・アップする。そして「はやく行け、あっちだ」と言わんばかりに指をさしはじめる。


 そして周囲の影法師もいきなりピタッと立ち止まり、皆一様に指を指した。


 その顔は、目も口も何もない、輪郭だけがハッキリしたのっぺらぼうだったのだが。どことなく、涼子を慈しむような表情のような、そんな気がする。


 それこそが、涼子が感じた商店街の人々への感情なのだろう。同時に、商店街の人々が涼子に向けた感情なのだろう。


「多分そっちに支配者がいるのだろう。気をつけろ涼子」


「解ってる。みんなありがとう!」


 涼子が手を振ると、影法師達が皆手を振って――次第に消えていった。


 涼子が走ると、その後を追うように影法師達が消えてゆく。邪魔者はいなくなったほうが良いと言わんばかりに、皆手を振って消えてゆく。


 何だか急に切なくなってきた。振り返れば、あれだけ歩いていた影法師達が一人、また一人と消えてゆく。涼子の心の中にいた他の世界のつながりが強く結びつき、形など不要になったからこその忘却。


 そうやって人は現実に立ち向かってゆく。


 影法師は揺り籠を揺らす人々だったのだ。


 どんどんと消えてゆくのは、これから対峙すべきは涼子自身が行わなければならない試練であり、業であり、そして救いであると言うように。


「クソ……ようやく解ってきた! 解ってきた!」


「涼子?」


「もう! このクソ猫! なんてもの書くのよ!」


「!?」


 振り向きながら走るナビ助に八つ当たりするようにそう言って、涼子は走り続ける。



 チクリ、と。


 心に鈍痛。



 初めて、辛いと涼子は感じた。


 現実と対峙することの、何と重苦しいことか。何と厳しいことか。


 ああ。そうか。


 もしかしたら。


 母は、自分と娘を護るために。


 常にそれと対峙して。


 たった一人で対峙してしまったからこそ。


 心が、折れたのだろう。


 何故それを、自分は理解しなかったのだろうか。



「も、もしかして……もしかしてあの怪物は」



 嗚呼。


 嗚呼。


 涼子の目に涙が浮かぶ。





 





「いたぞ、支配者だ」


 ナビ助が言うその先には、確かに支配者がゆっくりと歩いていた。手をダランと垂らし、そして涼子に銃撃された血を流しながら歩いていた。


「母さん!」


 涼子が叫ぶ。


 すると支配者はピタッと止まり、ゆっくりと振り向いた。


 まばらに並ぶ目は先ほどのように充血はしていないものの、涼子を見るその視線は複雑だった。


 仄かな怒り。


 後悔。


 そして懺悔。


 様々な感情がゴチャゴチャと混じり合って、そしてどの目玉もちぐはぐな斜視になっていた。


「知ってた。母さんが苦しんでいたのを知ってた。許されないことだと思っても、私に当たるしか無かった事も知ってた!」


 支配者がその言葉に唸り声を止めた。


 銃撃された時よりも、遥かに苦しそうな声を上げて。ゆっくりと自分の手を、喉元にあてて、かきむしるように。


『ア……ア…………』


「母さんは私しかいなかったから、そうなったんだって思ってる。私は逃げるべきじゃなかったんだ」


 涼子はそう言ってたこ焼きのパッケージを開けた。それはただのたこ焼きのはずなのに、何故か仄かに光っているようにも見える。


「覚えてる?」


 涼子はそう言いながら支配者へと近づいてゆく。


 涼子の認識が、独立している存在であるはずの支配者へと干渉してゆく。


 腐った肉の臭いは無くなった。


 腐肉を貪ったようなひどい口臭は感じない。


 何日も洗っていないような汗の匂いは、懐かしいものへと変化している。


「ほら、仲直りのとき食べたでしょ。あのときの母さんの顔素敵だった。だから、私は家を出なかったの」


 支配者の腕がぐぐっと伸びてくる。ナビ助は身構えていたが、涼子は臆すること無くそれを差し出している。


 支配者の汚れた指がたこ焼きをつまんだ。温かい湯気をあげるそれは、ゆっくりと光を強める。


「私は捨てないから――だから、静まって。誰も責めてないのよ。私も責めてないの」


『ワタ……シハ……』


「母さんは、頑張ってるよ」


『アア…………アアア』


 まばゆい閃光。


 気がつくとそこには怪物はいなくなっていた。


 代わりに涼子の目の前には、いつの間にか涼子のたこ焼きのパックを持った影法師と――少女の大きさの影法師が、手をつないでいた。


 紛れもなくそれは、あのときの涼子と母の姿だった。


「母さん……」


 母と思わしき影法師はたこ焼きを爪楊枝で指すと、ゆっくりと少女の口へとそれを運ぶ。


 少女と思わしき影法師は同じようにたこ焼きを爪楊枝でつまむと、母と思わしき影法師の口へとたこ焼きを運んだ。


「あ……」


 それはあの時の光景だと思ったとき、影法師はあとかたもなく消えていた。何の前触れもなく、フッと。まるでそこに何も存在していなかったかのように。


 ガラガラ、と音がした。


 周囲を見ると、店が全てシャッターを閉め始める。空は茜色から夜へと変わり、アーケードの照明が灯り始める。


 がらんとなったアーケード。


 そこは今まで自分の思い出の場所だったのに。


 もうここは君には必要ないと言わんばかりに。


 静寂が涼子とナビ助をやさしく包み込んだ。


 視線を貶すと、そこには鍵が落ちていた。


 形作りが仰々しいいかにもといった鉄の黒鍵。手のひらほどに大きく、そして重かった。


「これは……?」


「鍵だ。凄いぞ涼子。支配者をあのように浄化したのは君が初めてだ」


「そうなんだ」


「どうした涼子。やけに沈んでいるじゃないか」


「ううん、なんでも……なくはないか」


 涼子が鍵をポンポンと宙に放り投げながらそういった。


「――現実でそう言えたなら、もっと変わってたかもしれないと思って。あんな言葉は綺麗事よ」


「元の世界ではそうならなかったのか――いや、知っていると言えば知っている」


「意地悪。そう。私はお母さんを半ば捨てるようにして――男に夢中になった」


「それが次の章になる。だが涼子、さっきの君は嘘はついていなかったぞ?」


 いつの間にか涼子の脛まで来たナビ助が、彼女を慰めるように体を擦り付ける。


 この世界にポッカリと空いた猫型の穴は、何故か毛皮のような感触がして――気のせいだろうか、涼子が今まで感じたよりも暖かかった。


「留置所の中で考えてた言葉だったんだよ。ごめんなさいって言おうと思った」


「いいじゃないか。ここを出たら言うといい」


「言えるかなあ。そもそも減刑してくれるってのも案外嘘かもしれないし」


「そうしたら、檻の中でも希望を持って待つのだ。小生の好きだった『巌窟王』にもそう書いてあった」


「何それ?」


「当時流行った小説だ。復讐劇のな」


「ふうん。私、小説読んだこと無いんだけど。こんど読んでみようかな」


「本は良いぞ。といっても、小生の時代はそれくらいしか空想の冒険ができなかった。涼子の時代にはそれに代わるものが多く有るのだろう」


「それでも本は私の時代には残ってる。だから読みたい」


「いいと思うぞ。本は知識になる。涼子は……その、聡いのだが語彙力が無いからな」


「うっせ。そっちの言い回しも大概なんだけど?」


「時代が違うからな。仕方がない」




(羈絆――了――)

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