羈絆ノ六:普通

『ギィィィィエエエエエエエエ!』



 その水圧は成人男性の体をふっ飛ばすほどの威力がある。人の三倍もある支配者にとっては横っ腹に強かにボディーブローを食らったような衝撃が走るはずだ。


「今だ涼子! 走れ!」


「おまけよ!」


 涼子が天井に弾丸を打ち込み、そして走り出す。弾丸はアーケードの天井を撃ち抜くと、割れた硬質ガラスは刃となって支配者に降り注いだ。


 イメージは力と教えたが、瞬時にこんな芸当を実現するとは。やはり今回の主人公は何かが違うとナビ助は唸った。


「ざまぁ!」


「これ以上は構うなよ! そこだ! 何屋か解らんが開いている!」


 涼子はかけこむとすぐにその店の扉を締めた。そして店の奥へと進み、バックヤードのような部屋へと転がり込む。


 そこは六畳ほどの和室。商店街の店にありがちな休憩室のようなものだろう。中にいた影法師がびっくりしたようにこちらをみたが、涼子が「ゴメン!」と手を合わせると、新聞紙を読んでいるような仕草をしていた影法師は「構わん」と手をフリフリしていた。


 バックヤードの襖から顔を出して店の外を伺う。しばらく支配者の怒りの咆哮が聞こえてきた。


 破壊音。


 炸裂音。


 破砕音――そして、咆哮。


 やたらめったら腕を振り回して、周囲を破壊している。それは子供の癇癪のように。どんどんと近づいてくるそれに加え、どこかの店の室内に入ったであろうガラスの砕ける音を聞いた時、流石の涼子も肝をつぶした。


 だが、十分もするとそれは止んだ。さらに見張っていると再び腐肉をまな板に打ち付けたような不快音を上げて歩き出している。


 そうして息を殺して外を見ると、やがてあのシルエットがガラス越しから見えて――涼子がいる店を素通りしていった。


「……行ったな。どうやら大丈夫のようだ」


「死ぬかと思った」


 涼子は部屋の隅の柱に背を預けてずるずると腰を下ろす。今更になって普通の恐怖を覚えたのか、彼女も意としないのに震えていた。


「涼子。やはり焦っていたな? 何故小生の静止を聞かなかった」


 目のない影とも穴とも言えない黒い猫型は、涼子を責める目でジトッと見ている――ように涼子は見えた。


 最初はプイと頬を膨らませてそっぽを向いていたのだが、ナビ助がまっすぐこっちを見ているような気がしていたたまれなくなる。


 そして数分の間、畳の部屋は静寂に包まれるが――彼女は観念したかのようにハァ、とため息をついた。


「……ごめんなさい。早く出たくて」


「気持ちは解る。蛮勇も許そう。そも、小生が閉じ込めたのだから小生が責める資格もないが――あえて言おう。らしくなかったぞ」


「まだ会ってちょっとしか経ってないのにらしくないって何よ」


「見くびるなよ。小生は本だ。君を取り込んだ時点で君をまず文字として構築している。思考とまではいかないが、君は強く動じない心の持ち主だという事だけは情報として知っているのだ」


「こわ。でも強いんだ私」


「強いとも」


「そっか……確かにムカついたかも」


「皆そう言う。支配者は抗うことができなかったものの集合体だ。故に、誰の精神も逆撫でしてしまう。それが存在しているだけでな」


「なんてもの作るのよ。ホント、この本の作家って嫌なヤツなのね」


「悪かったな。小生はどうせ嫌なやつだ」


 ナビ助は気を悪くしたのか、頬をムスっと膨らませてそのまま床に伏せてしまった。


 暫く無言が続いた。涼子は涼子で今までの疲労が遅れてやってきたようで、半ば放心状態のようになっていた。ナビ助は伏せたまましっぽを揺らめかせている。


 やがて涼子がしっぽをつついたり触ったりすると、ナビ助はまんざらでもなさそうにしっぽを指に絡めてきたりする。


「ナビ助」


 涼子がそう言うと、ナビ助はトコトコと歩み寄り、そして涼子のあぐらの中に入り込んで寝転んだ。


「アンタほんとに猫じゃない」


「そうか。小生は君にそう認識されたら、自然とそう動いてしまうようだ」


「他の人には別の形をとってたの?」


「ああ。犬だったこともある。肩に乗る鳥であったこともある。時には女児だったことも」


「何がそうさせているの?」


「さぁ。だが経験から言えば、主人公の潜在的に求めているものになるようだ。本人の意にしない、心の底から癒やされる対象として」


「私の場合は猫なんだ」


「なのだろうな」


「……ね。なんでこんなの書こうと思ったの?」


「さぁ」


「アンタそればっかじゃない」


「小生は作者の意識の映し身みたいなものだからなあ。ただ、他人事のように流れてくる景色を見るに――普通の人生こそ、最高の物語と悟ったのだろう」


「普通の人生?」


 涼子が不意にこしょこしょと頭をかくと、ナビ助は僅かに身を捩って涼子の指を舐めた。完全に猫だなーと思いつつ、涼子はナビ助を撫でくりまわす。


「小生も不幸な家に生まれたのだ」


 涼子の手が止まった。


「家は言葉にするのも嫌になるくらい厳格で、そして冷たかった。そんな中で遊びは禁じられていたようだ。隠れて読む本くらいしか楽しみがなくて――いつしかのめり込み、若い時に家を出て書生の真似事をしていた」


「へえ。ナビ助も大変だったんだね」


「だが小生はろくでなしでな。書生を囲う富豪の家に転がり込んでは、仲間とともに仕事もせずに弁を振るい執筆に明け暮れていた」


「そんなのを援助してくれる人いるんだ」


「当時はいたのだ。涼子の世界の言葉を借りるなら――そうだな、成り上がった商家の殆どは学歴にコンプレックスを持っていてな。余った金でそういう連中の衣食住を保証する傍ら、誰か一人でも大作家が生まれたら、その家の名誉になると考えていた」


「なんかお仕事だけの関係って感じ」


「言葉にすれば冷たいが、どちらかと言えば合宿場や寮に近かった。口糊をしのげるようになるまでという制限付きではあるがな」


「楽しかった?」


 そう言うとナビ助はくああ、とあくびをして頭を涼子の内腿へと預ける。


「楽しかった。人と笑うなどあれが初めてだった。ちょうど――そう、涼子と同じ歳だった」


「そっか」


「その時から小生は普通の暮らしというものに憧れた。人のたどる物語、人生こそ描ききる題材なのだと。没頭した。日を追うのも忘れるほどに没頭した」


「うらやましい」


「小生も自分のことながらそう思う。そうして業を磨いて、そこそこ銭を入れられるようになって――だが小生は終ぞ普通の人生を体験すること無く、この世を去った」


「書きすぎ?」


「小生の人生、ざっくりすぎるだろう」


 ナビ助はフフ、と笑う。


 涼子もまた、それにつられて笑ってしまう。


 さすがに追われている立場なので、蒴果のように弾けて笑うということはできないのだが。


 ナビ助は思わずその顔を覗き込んでしまう。涼子の笑顔はとても美しいものだった。


 人の身であったならば。どこかがもっと熱くなるだろうということを抑えつつ。誤魔化すようにしてふああとあくびをする。


 はじめて、猫のように意識的に振る舞うとは。


 そう、黒猫は自嘲しながらも言葉を続ける。


「だが帰着としてはそうだ。最高の出来だった。古今東西あらゆる技法とも違う、至高の作品だったはずだ。だが小生はそれを読み返し、本を閉じた時点で激しい後悔に襲われて――心の臓が止まったのだ」


「え、それじゃあ!?」


「いや、小生の魂は空高く舞い上がって消えたよ。確かに消えた。だが慚愧だけがこうやって、今は猫の形になっている」


 ナビ助が疲れたように頭を涼子の内ももに預けた。


「涼子。この物語は君の物語であり、小生の慚愧が彩るちぐはぐな世界だ。誰にでも読むことが出来て、誰も読み終えることが敵わない魂の迷宮だ。小生はそんなことを望んでいなかった」


「それが激しい後悔ってやつ?」


「そうだ。小生はただただ、自分の人生を主人公に見立てる冒険活劇を人々に読ませたかった。それだけなのだ」


「だから冒険の書なのね」


「そうだ。しかしこの本はもう魔導書と成り果てている。頼む。読み切ってくれ涼子。君だけが頼りなのだ」


 ナビ助はそう言うと、顔を上げて目のない顔でじっと涼子を見た。涼子はそのまま何も考えるでもなく、そっとナビ助の顔を優しく撫でた。



「いいよ」



 まるで日直か何かを変わるようなそんな気軽さで涼子は答えた。


「本当か。でも……今更だが、何故だ? 何故小生をそう信用する? 最初のように撃たれたとてこちらは文句が言えないくらいに……その、残酷な事をしている」


「さぁ。でも多分、似た者同士だと思ったからかな」


「哀れに思ったか」


「悪い? それで百年くらいずっとここにいたんでしょ? それ、私より辛いじゃん」


 涼子はナビ助を持ち上げて、そして抱きしめた。


「どうせやること無いし。だからってあのボロいホームでべそかいてるなんてまっぴらなの」




「嘘だな」




「は?」


「最初はそうだったのだろうけれど。君は――小生を自分にそのまま重ねたのだろう。涙が出てるぞ」


 そう言うとナビ助はぺろり、と涼子の頬を舐めた。確かにそれは彼女の大きな瞳からこぼれたもの。とめどなく溢れて、涼子の意図せずに止まらないものだった。


「クソ猫。泣かせんな」


「すまない」


「簡単にあやまんな。ホント嫌い」


「すまない」


 一部始終を見ていた影法師が、そっとその場を離れる。


 やがて涼子の嗚咽が、外に漏れないように六畳の部屋に小さく響いた。

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