羈絆ノ伍:鎮火

「そうはいっても……!」


 涼子は辺りを見回すが、目ぼしいものは何もなかった。


 強いて言えばラーメン屋やカフェの電球がついた立て看板がポツポツと置いてあるぐらいだ。


 ただあれを横倒しにしても跳ね飛ばされるだけだろう。それどころかこちらに破片が飛んできて足をやられる可能性だってある。


 ならばさっきの魚屋の看板のようなものを、銃撃して落としてみてはどうか。


 いやだめだ、そんな芸当ができるはずもない。涼子は舌打ちをして速度を上げた。


「無いよ! なんにもない!」


「視界を遮るものでも何でも良い、見つけるんだ涼子! ヤツの目から逃れたらどこかの店に隠れろ!」


 なにか遮るもの。


 なんでもいい、と涼子は空を仰ぎ見る。


 そこには永遠と続く天井と天窓があるだけ。時々支離滅裂の言葉が書かれた垂れ幕がかかっているが、あんなものを降らせたところで足止めにもならないだろう。


 ふと、涼子の目に天窓がフォーカスされる。天窓は強化アクリルともガラスとも言えない透明な板が敷き詰められている。そなりに年月が経っているのか、雨風の汚れで塩が拭いているようにも見えた。


「ねえ、あれ撃ってガラス落とすのは!?」


「良い案だがあれが上手に振ってこようともたかだかガラスだ。効果は弾丸とさほど変わらない。目くらましになるかどうか」


「も、もう! 嘘でもいいから『頭がいいぞ涼子!』とか言ってよ!」


「悪いな。小生は嘘でごまかせないタチなんでな!」



『アアアアンタナンンンンンテエエエエエエエエエエエ!!!』




 地響きがさらに強くなる。思わず転びそうになるが踏ん張る。足を叩いて気付けをして、「走れ! 捕まったらせっかくの美脚が台無しなんだから!」と自分に言い聞かせる。


「や、やばいどんどん近づいてくる!」


 涼子が振り向くと、もう背後十メートルほどまでに支配者が近づいていた。


 伸びる手が背中を掠める。分厚い風圧が耳を掠める度に、涼子の心臓が鷲掴みにされるようだ。


 息遣いが聞こえてくる。ハァハァと、獣のような息遣い。垂れた肉が見を打つ不快な音が。下水道のような口臭が。腐肉を放置したような酸味のある臭いを纏わせて涼子の背後に迫りくる。


 加えて、地鳴りを伴う振動が涼子の足をさらに捉える。


 最早、限界だ。


 涼子はなかなかに運動神経のある方ではある。だが、人類の誰でもがそうであるように、永遠とトップスピードで走る事などできないのだ。


 ここは涼子の世界。もしかしたら、体力という概念はないのかもしれない。現に涼子は、先の世界であんなにも走り続けていたのに、まだこうやって逃げ続けられるのだから。


 返して言えば、この世界は彼女の精神性がダイレクトに影響する世界でもあるかもしれない。


 徐々に。


 徐々にだが、スピードが落ちている。


 それは彼女の顔が恐怖に塗れるにつれてそうなる。


 彼女の心が折れかけている。


 それは今まで、何人も何十人も同じものを見続けていたナビ助には手に取るように解ることだった。


「な、なんとかせねば。涼子が死んでしまう。涼子が折れてしまう! もうそんなのを見るのは沢山なのだ!」


 思わずナビ助が叫んだ。


 彼もまた、永遠のような時間を生きて、全てが無に帰してしまったのだ。なまじ人間ではないからか、狂うことも許されない。彼の言うとおりならば、彼は元人間、あるいはその精神をトレースした疑似精神体だ。


 人にあらずして人に在るもの。それがナビ助。


 本でありながら、本という檻に閉ざされたチェシャ猫。それが彼に課された宿業なのだ。


 ようやく見つけた希望が、今にも消えそうになっている。


 なんとかせねばと考えるが、焦りだけが募ってしまう。永遠を生きているのに、二〇にも満たない少女を救えないとは!




「しゃんとしろナビ助!」




 ドン!


 涼子が発砲した。弾丸はナビ助の底なしの体に吸い込まれて、反響音を響かせて消えてゆく。


 ナビ助は我に返り、走ったまま涼子を見た。


 涼子は眉間に皺を寄せながらも、無理を推してニカッと笑った。


「アンタが私の足りないとこ支えてくれないでどうすんの!」


「涼子!」


「もう少しだけ走れる……うひゃ!」


 ブン、と。涼子の頭の上を太い腕が通り過ぎた。もう射程圏内に入っているようだ。涼子は「こなくそおおお!」と叫んでスピードを上げる。


「走れるから! 走れるから考えて!」


「わ、解った。任せろ!」


「早く!」


 ナビ助は頭を振って思考を冷却する。同時に、心に久しく感じていなかった暖かさを感じた。


 ――この極まった状況の中、涼子はまさか自分を鼓舞するなどとは。


 ナビ助はその真っ黒な表情の中で思わず口角を上げてしまう。そして瞳なき瞳を巡らせて、なにか利用できるものはないかと探し始める。


 やがて。


 今まではそうでもなかったのに、急にそれが声なき声を上げるようにして注目することがあるように。ナビ助の目に不自然に飛び込んでくるものがあった。


 それはナビ助の時代――この本が生まれたのは一九〇〇年から一九一〇年の間なので、その辺りの時代になるのだが――ナビ助にはその形がそれだと理解するには少しだけ時間がかかった。


 そもそもの話、涼子の描かれた世界はナビ助にとっては未来そのものだ。この冒険の書は涼子の精神を言語に一度分解し、それを再構築して出来上がった世界だ。時代背景などは全て涼子に依存する。故に、ナビ助の古い時代で止まった思考でも、真新しいものが生じるというちぐはぐが存在するのだ。


 彼の年代の世界ならば機転の効いた作戦が浮かんでくるものだろうが、全てが真新しいものばかりのこの世界ではそうにもいかない。


 しかしナビ助が走っている中で見つけた『消火栓』の立て看板の文字。


 示されたそれ自体を彼が見つけることはできなかったが、ナビ助はこれだと天啓を受けたように叫んだ。


「今通り過ぎたのは消火栓! おい涼子! 君の時代にも消火栓はあるのか!?」


「消火栓っていっても色々あるよ! 箱に入ってるやつとか小さいマンホールっぽいのとか!」


「さっきのやつだ。地上消火栓。鉄でできたポールのようなヤツ!」


「最近見なくなったけど! ある! 赤いやつだね! あるよ! このアーケードにけっこうあったはず!」


「色はもとより、当時と形は変わっていないのだな。見つけたら撃つんだ! 家を焼く大火を消すほどの水圧だ、あの化物とて怯むだろう!」


 消火栓。


 ナビ助の言っているのは地上消火栓というものだ。


 実は消火栓というものは存外古い時代から存在している。二本で言うならば明治二十三年。西暦にして一八九〇年に、東京に設置されることが決まり、それ以降日本中に設置されることになった。


 ナビ助の言う通り、それは凄まじい水圧を生じさせるもの。放水ノズルに関して言えば、プロでなければ大人二人で制御することを推奨されるそれは、あの怪物と言えど押し止める力を持つだろう。


 もちろん、現実世界では地上式消火栓を銃で撃ったところで弾かれるだけだ。そもそも九四式自動拳銃の口径は十四年式拳銃実包、またの名を8ミリ南部弾。あんな鉄の塊を穿つことなど到底不可能だ。


 だがここは現実世界とは似ても似つかぬ本の中の世界。確かにあの支配者には効かなかったが、涼子の認識そのものを穿つというのならば話は変わってくる。


「強く念じるんだ。君の思い描くビジョンは世界に作用する。あの支配者は君の中にある独立したものだったが、小道具や有象無象のモブに対してならその銃は効果はてきめんのはずだ!」


「わ、わかった! 消火栓……消火栓! アレだ!」


 涼子が見つけたのは古いタイプの赤く塗装された消火栓だった。今どき珍しい形だが、逆にそのレトロ加減が涼子の記憶に残っていたからこうやって存在しているのだろう。


「撃て! 水圧が支配者を押し止めるイメージだ!」


「んにゃろう!」


 涼子は銃を向けると、タイミングを図って何度も何度も銃撃。


 九十四式拳銃の弾丸は確かに貧弱だ。だがそれに涼子の鬼気迫る思いが何十にもコーティングされ、撃発する頃にはマグナム弾相当の力を孕むに至る。


 そうやって何発も釣瓶撃ちのように撃ち続けると、流石の鉄蓋も甲高い音を立て、そしてもげた。


 瞬間、勢いのいい水圧がバッ! と飛び出す。赤茶けた錆びた水が支配者を横っ腹を捉えた。

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