ことのはの迷宮 ~而して彼女は黒猫と共に文字の淵を渡る~

三ツ葉亮佑

特禁〇三八号『冒険の書』

子宮――シキュウ――

子宮ノ壱:胎動

「貴方にはこの本を読んでもらいます」


 スーツの男に連れられて墨田涼子すみだりょうこがやってきたのは、窓のない薄暗い部屋だった。


 広さは三十畳ほどあるのにもかかわらず、そこにはたった一つの家具しか置かれていない。


 その家具というのは部屋の中央に置かれているトライポッドテーブル。涼子はその名を知らないが……アンティーク調の腰の高さほどある、丸い机――と認識した。


 上には辞書と見紛うほどのハードカバーの本が置かれていた。


 他にはなにもない。


 全くと行っていいほどに、何もない。


 壁や天井を見上げても、LED灯があるだけで無地の天井が広がっているだけだった。無地と言ってもどこかの撮影スタジオのように灰色一色。


 壁で囲まれていながらどこまでも無限に伸びているようで――それで狭苦しい部屋だった。


 既に全てに疲れていた涼子は内心安心していた。私にとってはだと。あとはそう、人形のようにしていればいいのか。


「これだけ?」


「そうです」


 そんなわけ無いだろうと涼子は嘲笑う。


 こんな見た目が素行の悪い不良の女を捕まえておいて。誰も助けに来ることができない地下室に放り込んでおいて。それはないだろうと。


 そういうプレイ?


 それなら、そうでいい。


 もう彼女の心は既に荒んでいる。


「ま、いいよもう。それで? 私は脱げばいいの?」


「――は?」


 眼の前のスーツの男は本当に驚いているようだった。


 涼子は他人の機微が何となく分かる。今までそしらぬふりをして、人の出方を常に伺っていたから。だから、スーツの男にそんな気は無いというのが分かった。


 それでも。そうだとしても。自分の体には


 その気になれば売りに出ればいいとも思っていた。僅かに残っている自己顕示欲を奮い立たせて、画面の外の男の精を貪りとる女優になろうとも思った事もある。


 だから。


 そういう目的だとばかり思っていた。


 おかしな話だ。


 おかしな話だったのだ。


 彼だと思っていた、私の裏寂れた人生の杖になると思った男を殺した女が……見知らぬ男に保釈されようとは。


 涼子は自分に価値がないと思っている。


 あるとすれば、慰みになるくらいしか無いと。


 それを法の枠の外に見出されていたのだと。


 そうとばかり思っていた。


 だが、目の前の男は手を降って否定する。よくよく見れば、よくよく観察すれば。確かにその男にはそんな欲が滲み出ていない。己を正し。他者を尊ぶその作法が、機微が見て取れる。


 私の知らない、真面目な、ひと。


 涼子はまるで宇宙人を見る目で男を見ていた。


「司法取引なんていうから連れてこられたけど。どうせ偉い人とかのオッサンに抱かれるんでしょ? 筋者は嫌だけど仕方ないとは思ってる」


 涼子がそう言うと、スーツの男はキョトンとした後――苦笑をして手を振った。


「被害妄想――と言うのは失礼ですか。確かにこんな所に素性も知らない人間に連れられたなら、そう思うのも無理は無いでしょうね」


 カマをかけた――いや、カマにもなっていなかったが。


 そういうロールプレイングなのだと思って。


 無知の娘がいきなり絶望の淵に立たされるその顔が趣味なのかなと思って。


 これから覆いかぶさる殿方が気に入りそうな、そういう切り出しを考えてみたのだが違うようだ。


「違うの?」


 再確認。

 

 目を見る。


 やはり、否。


 本当に――本当に?


 涼子は混乱していた。自身にそれ以外の価値があるとしたら――あるの?


「違いますよ。墨田さん、私達の話聞いていなかったでしょう?」


「……うん。正直意味がわからなかった」


「ではもう一度簡潔に。私達は文化庁の人間です」


 興味のない言葉だが、涼子にとってはそれはとても偉いところ、というところだけは理解できた。


「お役人さん?」


「ええ。ただ世にはあまり出ていない、特別禁出文化財を扱う部署の人間です」


「何それ。オカルトでも扱っているわけ?」


「遠からずも近からず、と言ったところです。――やはり墨田さん、貴方は頭がいい人だ。そんな身なりをしていてもね」


「そう? 頭が良ければもっとマシな人生送ってたよ」


 涼子はそう言って声のトーンを落とした。


 涼子は捕まった当時と服装が変わっていなかった。染め上げた金髪のミドルショートの髪に、やや焼けた素肌。ゆったりめのロゴTシャツを着て、ジーンズのホットパンツに黒タイツ。古い大人の言葉でいうならば、それはギャルと呼ばれるものに該当する格好だ。


 しかも彼女は十七歳らしからぬ荒んだ雰囲気を纏っている。加えて自他ともに認める程に艶めかしいその躰は、過敏な人がひと目見れば体を売っていると思われても仕方ないかもしれない。


 偏見ではある。しかし涼子もそれを甘んじて受け入れていることもあるし、それについて何を思うすらも疲れていた。


「で、元彼を刺したこんな女が何をすればいいの? というか何でお役人?」


「この本ですよ、墨田さん」


「涼子で結構。姓が嫌いなの」


「では涼子さん。この本ですが、貴方に読み解いてもらいたいのです」


 スーツの男が指し示したのは先ほどの本だった。涼子が近づいてみると、ハードカバーの上には金色で『冒険の書』と書かれている。


「冒険の書? ドラクエみたい」


「その本は特別禁出文化財の一つなのです。涼子さん、貴方には減刑と引き換えに、それを読み解いて欲しいのです」


「意味わからない。そんなに辛いってこと?」


 スーツの男はやはり、と目を細めた。


 普通、学がない年頃の子ならば「やだ」「意味わかんね」「ウザ」くらいしか出てこないはずだ。それは時代が移り変わっても言葉尻が変わろうと大体のニュアンスは変わらないでいる。


 だが、涼子は。


 スーツの男の言葉を反芻し、理解した上で、それがどういうものなのかという推論を背後に立たせて「辛いのか?」と問うている。


 それは紛れもなく頭が良い証拠。


 見た目に反して。


 そしてスーツの男の見立て通りに。


 涼子は聡明な子だった。


「やはりだ。貴方は聡い。過酷な環境にいながらも自分の芯を軸に生きていただけある。その証拠に体を売ったことも、犯罪に手を染めたことも無い」


「運が悪かったなんて慰めは止めて。どうせどうなったって私はこうなってた。いっその事、汚い金持ちのオヤジのオモチャにでもなろうとは思ったこともある」


「でもしなかった。貴方はそういう芯のある人なのです。だからこの本を読み解けるはずだ」


「さっきから話が見えてこないんですけど? 何? この本そんなに辛いわけ? 呪いでもかかってんの?」


「それは読んでから解ります――涼子さん、宜しいですか? 貴方は現在、殺人未遂で求刑されています」


 改めて言われると、なかなか心に来るものがある。涼子はそう思っていた。いつも平静ぶって――いや、殆ど何にも興味がなく虚空を見ていたり、視線を落としたりしているのだが。この時ばかりは視線を逸してしまった。


「少年犯罪だとしても、昨今は厳しく罰する時代。このまま判決が言い渡されて長い間刑務所暮らしは免れないでしょう」


「――青春が無くなるのは嫌だけど、もう仕方ないじゃない。私が刺したんだし」


「心中お察します。だからこそ、貴方にはチャンスを与えたいのですよ」


 その言葉は嫌いだった。


 本当の悪魔のような人間は、リスクなしに手を伸ばした後に「救う」と言う。そうして聞き心地の良い言葉を並べて目に見える敵を作り出して、人を傀儡にする。


 涼子のような美人であれば、絆して躰を貪ろうとする。その言葉は、汚い鼻毛が出たオヤジが金を出して「君、キレイだね」と言うのとどっこいだ。


 ただ、不思議とこのスーツの男からはそれを感じることはない。言葉が魔羅としっかり切り離されている。それだけで涼子にとっては称賛に値する人間だ。


 だが。彼女とて、簡単に信用する愚は見せたくない。


 見せたくないだけで本当は縋りたい自分がどこかにいるのだろうが。見た目の、自己を肯定している一抹のプライド。不良というレッテル通りの言葉を口にだそうと身構える。


「キレイ事言わないでよ。要するに都合のいいモルモットでしょ? 要点を言えってば」


「――この本は、数多の人間を殺した人食いの本。読み解くことができればこの世から葬り去ることができる。ですが、心半ばで折れれば、貴方は死にます」


 予想以上の言葉が出てきた。


 でも、だろうと思った。


 お似合いだと思った。


 そして、そんな人でなしの言葉が言えるこの異質な男に純粋な好意を持った。


「ハハッ! だと思ったよ!」


 涼子はそう言うと『冒険の書』を迷わず手にとった。


「どうせ社会的には死んでる。事情は知らないけど、この本があると困るんでしょ?」


「身の保障はできません。だからこそ、が選ばれた」


「おあつらえ向きってコトね。いいよ、読んであげるよ」


 そうして涼子がページを開く――と、次の瞬間。


 涼子が膝から崩れ落ち、予定通りに意識を失った。

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