22-3:黒い謎

 大神殿の奥、白亜の回廊をしばらく進むとアーチ状の入口が見えてきた。

 冥界は黒と青白い光しかない単調な世界だが、生誕の間はそれとは対照的に、煌々と輝く光の中に白や緑、薄桃色といった色彩が溢れた華やかな世界だった。


 ケルビムから受け取った差出人不明の伝言に従い、生誕の間の入口を通り抜けた俺は妙な感覚を味わう。体全体を一枚の膜に覆われたような感覚……。

 俺は振り向いて、歩いてきたばかりの白亜の回廊を見た。回廊のところどころにある明り取りの窓から日差しが射し込んでいる。さらに奥には、座天使だろうか、誰かが通り過ぎていく姿も見えた。先ほどと変わることのない景色。

 俺は首を傾げ、部屋の奥へと入って行った。


 生誕の間の中央に佇む大樹、生命セフィロトの樹。この部屋にある樹は、幹ではなく枝にあたる部分だった。枝とはいっても、直径は八十メートルを軽く超えている。

 生命セフィロトの樹本体といえる幹の部分は、俺たちが住む天界ヘブンの大地に寄り添うように立っていた。だが、その幹は半透明なうえにあまりにも巨大で、常に霞で覆われていた。そのため、目の前に見えているにもかかわらず、それが生命セフィロトの樹だとは認識できず、生誕の間にある枝の部分を生命セフィロトの樹本体だと思う天使がほとんどだった。


 俺は、その樹が立つ中心へと続く石畳を歩く。

 道の両側には、薄桃色の花のつぼみが俺を導くように揺れている。子供ガキの頃は背丈ほどあったその花の高さは、俺の胸元ほどになっていた。

 ほどなくして見えてきた石畳の終着点には、大樹に触れながら天井を見上げる天使がいた。声が届く距離まで近づいた俺は口を開く。


「ケルビムを使うなんて、回りくどいことをするんだな。メタトロン」


 俺に名を呼ばれた天使はクルリと振り向いた。

 身長195センチで金色の長髪の天使。何よりも目を引くのは、その顔の上半分を覆っている白の陶器の仮面だ。


 熾天使メタトロン。『神の代理人』と呼ばれ、神の代弁者として常に神のそばにいる彼は、実に謎の多い天使だった。

 メタトロンはその昔、サンダルフォンという名であった。俺やルシフェルが創られるよりも遥か昔、サタンと同じ時期に神の手により初めて創られた天使。そして、この天界ヘブンで初めて核を失い、復活を果たした天使でもあった。復活後、サンダルフォンは、なぜかメタトロンと名を改める。そして、その時から仮面を着けており、彼の素顔を見た者は誰もいない。

 おそらく、メタトロンは神と同じくらいに、この天界ヘブンのすべてを知り尽くしている。だが、神の住まう最上層の神殿とこの大神殿からは一歩も出ることなく、表の世界にはほとんど介入しない天使だった。



 ケルビムに伝言を預けた張本人のメタトロンは、口元だけを微笑ませた。


「事態は少々込み入っている。私と君がここで会うことも、ここで話す内容も、誰にも知られてはならない」


「ベルゼブブのことか」


「察しがよいな」



 ガブリエルといい、メタトロンといい……、俺の行動はどれだけ筒抜けなんだ?



 メタトロンに褒められてもまったく嬉しくない俺は、渋い顔をして彼を見る。


「だからご丁寧にも、誰も立ち入れないように結界まで張ったのか」


 俺は周囲を見回しながら言うが、メタトロンは何も答えなかった。

 無言のまま俺に背を向けたメタトロンは、生命セフィロトの樹に触れながらその周りをゆっくりと歩き始めた。俺は軽くため息をついて、彼のあとに従うように付いて行く。半周ほど来たところで、しびれを切らした俺が口を開いた。


「一体何だんだよ? ベルゼブブがサタンの居城へ侵入した方法でも教えてくれるんじゃないのか?」


 俺の質問には答えず、その場にピタリと足を止めたメタトロンが上を指差す。


「あそこだ」


「あそこ?」


 俺もメタトロンに釣られて生命セフィロトの樹を見上げた。しかし、灰褐色の樹皮には縦に裂かれた黒い筋がいくつも見えるだけで、彼がどこを示しているのかよく分からない。

 戸惑っている俺に対し、メタトロンがさらに言う。


「樹皮の裂け目に紛れて、古い傷がついている。分からぬか? 周りと比較すれば見えてくる」


 そう言われて目を凝らすと、黒い縦筋に紛れて、意図的に縦に切り抜かれた箇所が見えてきた。


「なぜあんなところに?」


 俺がメタトロンに視線を移すと、彼もまた俺を見ていた。


生命セフィロトの樹は、神と常に繋がっている。破片となっても、その力が衰えることはない」


「つまり、ベルゼブブが生命セフィロトの樹の破片を持ち出して、地獄ゲヘナへ向かったと?」


 俺の言葉にメタトロンがコクリと頷く。



 なるほど。そういうことだったのか。



 神と繋がっている生命セフィロトの樹の破片を身につけていれば、翼の力を解放せずとも神の加護が受けられる。しかも、魔力が使えないといわれているサタンの居城へベルゼブブが侵入した実績もある。それは、破片の力がサタンの居城でも有効だという証だった。


 周囲の樹皮の裂け目とほぼ同化しているベルゼブブがつけた大樹の古傷。再びそれを見た俺は、思わず笑みをこぼす。


「役に立ったかな?」


 メタトロンの言葉に俺は頷く。


「あぁ、大いに」


「それはよかった」


 そう言うと、メタトロンはクルリと向きを変え、来た道を戻ろうとした。俺はそれを引き留めるように尋ねる。


「なぁ……なぜ、このことに気がついた?」


 俺に背中を向けていたメタトロンは、少しだけこちらを向いた。


「この場所が気に入っているのは、君だけではないということだよ」


 気に入っているわけではないんだが……と思いつつ、俺はもうひとつメタトロンに尋ねる。


「お前さ、ベルゼブブがどうやって地獄ゲヘナへ行ったのかも知っているのか?」


「……」


 やや間があってから、メタトロンは体ごと俺のほうに向き直る。


「君が危惧しているようなことは起こってはいない。冥界のは常に閉じられたままだ」


 そう言い切ると、メタトロンは俺に背を向けて再び歩き出した。



 冥界の管理者である俺とこの世界を創った神だけが知っているはずの事実。やはり、こいつメタトロンも知っていたのか。


 冥界の主軸を成す螺旋階段の頂上は、ヒトが生まれ変わる場所、つまり人間界へと繋がっている。そして、螺旋階段の底部は、地獄ゲヘナへと繋がっているのだ。

 しかしそこは、闇深い漆黒に覆われ、夜目が利く天使ですら周囲が見えず、地獄ゲヘナと繋がる扉を見つけ出せない。

 だが、ベルゼブブは不可能だと思われていたことをやってのけた。だから俺は、奴が冥界を通って地獄ゲヘナへ行ったのではないかと考えたのだ。もし、そうだとすると、ベルゼブブは冥界の秘密を掴んでいることになる。それは、地獄ゲヘナから天界ヘブンの中枢へ一気に攻め入る鍵を手にしていることと同じだった。



 メタトロンの言葉は俺を安心させるには程遠いもので、むしろ、俺の不安を煽っていた。

 だんだんと遠くなっていく彼の背中を見ているうちに、俺は、もう一つの疑念を思わず口にしてしまう。


「メタトロン! 神は……父上はどこまで……」


 だが、最後まで言えなかった。

 父上がこの現状をどこまで知っているのかと口にするのは、天使にとって神を疑う禁句のように思えたからだ。

 中途半端な言葉を抱えたまま立ち尽くす俺に、メタトロンが再度振り向く。その表情は白の仮面に邪魔をされ、よく分からない。だが、俺との間に距離があるにもかかわらず、彼の声ははっきりと俺の耳に届いた。


「仕舞いまで言わないのは、賢明な判断だ」


 それだけ言うと、メタトロンは大樹の周りに茂る薄桃色の花の群れへと入って行く。

 屋内でありながらも、どこからか吹き込む風で揺らめく花のつぼみ。その中に消えたメタトロンの陰に囚われた俺は、そこからしばらく動けなかった……。

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