19-3:接見

 サロンに射し込む木漏れ日が、室内を柔和な明るさで満たしていた。

 ハルは、天界ヘブンへ来てから天候が一度も崩れていないことに気がついていた。

 二階にある室内テラスからいつも見ていた景色は、空模様も含めて隙がないほどに美しく完璧だった。

 しかし、雨が降ったり嵐になったりと、天候の変化がある人間界と比べ、天界ヘブンの空はひどく異質に感じる。『生』がまるで感じられないのだ。

 ルファがそんな世界にかつて住んでいたのかと思うと、ハルの中で切なさが不思議と込み上げる。


 熾天使だったルファがなぜ神の意に反したのか、ハルは理由を知らない。今までそのことを尋ねなかったのは、ルファが話したくないと分かっていたからだ。

 だが、ガブリエルはそれを知る必要があると言う。


 異を唱えるサキュバスを言い込めたガブリエルは、ハルへと視線を戻す。


「どうやら、あなたが知っている『ルファ』と、われわれが知っている『ルシファー』には大きな隔たりがあるようです。その認識の違いを埋めなければ、やはり、今後大きな誤解を生みかねない。あなたは、ルシファーがなぜ神の意に反し堕天してしまったのかをご存じですか?」


 ガブリエルは先ほどの質問を繰り返した。

 ハルは、サキュバスとつないでいた手を握り直す。


「いえ……知りません」


「そうですか……」


 ガブリエルは間を開けるように、ローテーブルに置かれたカップに手を伸ばした。ハルもそれに倣うように、自分の前に置かれたオレンジ色の紅茶を一口飲む。緊張でカラカラだった喉が潤い、少しだけ気持ちが落ち着く。

 ガブリエルのカップがカチャリと音を立てソーサーへと収まった。そして、彼は再びハルを見る。


「ルシファーは……いえ、その頃はまだ、ルシフェルと名乗っていましたが……その昔、神の寵愛ちょうあいを一身に受けていました。そして、天界ヘブンすべての天使を束ねており、われらも彼女を大変信頼しておりました」


 そこまで言うと、ガブリエルはソファーの背もたれに体を預けた。


「ある日、神は一対の生き物を創り出しました。それがヒトの始まりであり、あなた方の祖先でもあるアダムとイブです。彼らはわれわれと姿かたちは似ていますが、とてももろく、そして、とても……未熟でした」


 ガブリエルは昔を思い出すように、顔を斜め上に向ける。

 ハルは黙ったまま、彼の話に耳を傾けた。


「脆くて未熟なアダムとイブを、神は大変慈しみました。いままで神の寵愛を一身に受けていたルシフェルは、それを見て次第に不満を募らせていったのです。そして、決定的なことが起こりました。神がルシフェルに対し、アダムとイブに仕えよと命じたのです。神の命は、われら天使にとっては絶対です。ですが、彼女はそれに異を唱えました。そのため、神はルシフェルを遠ざけるようになったのです。怒りと嫉妬に狂った彼女は、同胞をたぶらかし、天界ヘブンをわが物にしようと謀反を起こしました。そして、あなたもよくご存じのミカエルの剣に貫かれ、地獄ゲヘナへと堕ちて行ったのです」


「……」


 ガブリエルの話す内容は、ハルが知っている『ルファ』ではなく、別の天使のものに聞こえて仕方がなかった。

 困惑したハルは、隣にいるサキュバスを見る。目が合った彼女は口角をキュッと上げて笑顔を作るが、その妖艶な顔は明らかに強張っていた。



 これ……ルファのこと……なんだ……。



 ガブリエルは話をさらに続ける。


「ルシフェルは、大きく三つの大罪を犯しました。一つ目は、神に対し反旗をひるがえしたこと。二つ目は、われら天使同士で戦うように仕向けたこと。三つ目は、彼女を信じて従った同胞たちを地獄ゲヘナへ道連れにしたこと」


「……」


「この意味が分かりますか? われらは彼女によって、兄弟同士で殺し合わなければならなかったのです。そして、たくさんの兄弟たちの核が砕かれました。一方は地獄ゲヘナへ堕ち、一方は天界ヘブンの生誕の間で眠りについています」


「生誕の間?」


 ハルの問いにガブリエルがコクリとうなずく。


「上層の大神殿にある神聖な場所の名です。われらが生まれる場所であり、砕かれた核が戻る場所、それが『生誕の間』です。あなたと親しくしているラジエルの妹も、そこで眠りについています」


「ラジエルさんの妹さん……」


「そうです。彼女はルシフェルの側近ベルゼブブの手により、ラジエルの目の前で核が砕かれました」


「……」


 ハルは思わず片手で口を覆い、サキュバスのほうへと顔を向けた。サキュバスも目を見開いて驚いている。



 ラジエルは、ルファにいつも紳士的に振る舞っていた。剣を交えた夢魔のサキュバスに対しても、今は悪い感情を持っているようには見えない。

 だが、彼の妹は『ルシフェル』のせいで、生誕の間と呼ばれる場所で眠りについていた。

 堕天しルシファーとなったルファを初めて見たとき、ラジエルはどう思ったのだろう? おそらく、相当の怒りや憎しみを持っていたはずだ。しかし、そんな素振そぶりを一切見せず、ラジエルはハルたちと接していた。


 このすぐ上の階にあるリビングルームのソファーで、ラジエルがハルの背中に優しく手を添えてくれた日のことを思い出す。



 私は……私たちは、知らない間にラジエルさんをひどく傷つけていたのかもしれない……。それだけじゃない。この石造りの別棟でお世話をしてくれている天使さんたちは、過去にルファが起こしたことで、大切な兄弟たちを失っている天使さんたちばかりなんだ……。



 突き付けられた現実に、ハルは愕然がくぜんとする。そして、自分がいかに何も知らなかったかを思い知らされた。


「われらがどのようにルシファーを思っているのか、少しは理解していただけましたか?」


 ガブリエルが静かに問いかけた。

 ハルは口を覆っていた片手を降ろし、力なく頷く。だが……。


「それでも……私が知っている『ルファ』のことだとは、どうしても思えないんです……」


 ハルは目の前に置かれているカップをにらみながら、絞り出すように言う。


 ガブリエルがうそをついているとは思えなかった。だが、ハルが知っている、弱者を助けていた薬師の『ルファ』と、ヒトに仕えることを拒んだ『ルシフェル』が同一だとは思えなかった。


 ガブリエルが深いため息をつく。


「そうですね。そう思われても仕方がありません。それこそが、ルシファーの犯した四つ目の大罪だと私は思っています」


「えっ?」


 ハルはガブリエルの言葉がすぐに理解できず、困惑して顔を上げた。彼はあわれむような目でハルを見る。


「ヒトをさげすんでいたはずのルシファーが、何を企みあなたを育てていたのかは分かりません。ですが、あなたがルシファーを実の母のように慕っていることは分かります。そして、そのルシファーの犯した罪を、こんな形で聞かねばならないあなたの苦しみも。このような状況を作りだした彼女の行いは、やはり罪ではありませんか?」


「……」


 何も言い返せないハルは、唇をみしめる。前のめりになっていた姿勢を崩し、力なくソファーの背にもたれた。

 打ちひしがれるハルの耳に、ガブリエルの妙に優しい声色が聞こえてくる。


「最初に申し上げた通り、私はあなたを責めに来たわけではありません。あなたはむしろ被害者なのです」



 被害者って……。



 ガブリエルに対する嫌悪が、ハルの中で湧き上がる。

 眉をひそめて反論しようとハルが口を開いたとき、横にいたサキュバスがスッと立ち上がった。

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