17-0:夢魔の光(本編外)

 ルファがまだルシファーとしか名乗っていなかった頃、ハルが生まれる前の話――



 地獄ゲヘナの第三層にあるルシファーの居住、クリンタ宮殿。

 そこは政治を行う外廷部と、ルシファーが住む内廷部に分かれていた。内廷部はごく限られた悪魔しか立ち入れない場所で、ルシファー付きの夢魔である僕はそこに住んでいた。



 ゴソゴソとベッドからい出たルシファーの気配に気づいた僕は、彼女の細い腕を掴み、再びベッドへと連れ戻す。シーツの海とともに抱きしめたルシファーの肩に、僕は顔を埋めるように口づけをした。


「インキュバス……行かないと……」


「もうちょっと……」


 僕がそう言うと、ため息と同時にルシファーの肩が軽く上下に動く。「仕方が無いわね」という合図。

 僕はルシファーとの間にあるシーツをはぎ取り、彼女の白い背中に唇を押し当てた。ルシファーから甘い吐息が漏れる。


「生身に触れるの、久しぶり」


 昨夜も言った言葉を繰り返し言う僕は、唇で愛撫あいぶしながら、ルシファーの背中から前に回り込む。彼女は少し体をよじらせて、僕を仰ぎ見た。


「夢ではいつも触れているでしょ?」


「最近は、夢でしか触れていなかったよ」


 近頃のルシファーは人間界のるヒトにご執心で、地獄ゲヘナへ戻るのは本当に久しぶりだった。

 一方の僕は『人間界へ降りてはならない』と、ルシファーからきつく命じられていたので、このクリンタ宮殿での留守居が常だ。



 目の前のあらわになった彼女の胸元を見て、僕はふとした疑問を口にする。


「そう言えば……背中はきれいになっているのに、胸の刺し傷は消えていないよね。どうして?」


「……」


 先ほどまでの甘い空気とは明らかに違うルシファーの氷のような気配に、僕はしまったと思った。それを打ち消すように、慌てて彼女を包み込むように抱きしめる。


「ごめん……」


 だけどルシファーは『仕舞いだ』というように僕の体を押し上げた。

 衣服を身に着けていない体を起こした彼女は、ベッドの脇へと座る。そして、サイドテーブルに置いてあるロケットペンダントを手に取ると、僕に向かってそれを差し出してきた。


「着けて」


 胸の傷を消さない理由も、このペンダントも、きっと『彼』に関係しているのだろう。

 横に流した漆黒の髪から現れた彼女の白いうなじ。僕はそこに軽く口づけをしながら、手渡された白銀のペンダントのフックをかける。と同時に、もう一度ルシファーを後ろから抱きしめた。


「ルシファー……」


「分かっているわ」


 僕の腕を取り、唇を押し当ててから、ルシファーは後ろを振り向いた。僕の頬に手を添えた彼女に導かれるまま、僕らは唇を重ね合わせる。



 僕は自分の出自を知らない。気がつけば、荒涼とした地獄ゲヘナの大地に置き去りにされていた。

 自分の出自を知らないわりに、ここが地獄ゲヘナという世界であることも、僕が雌雄同体の夢魔であることも、この世界で生きるためのさまざまな知識も、まるで最初から記憶に刻み込まれていたかのように知っていた。


 地獄ゲヘナは無の世界だった。暗闇の中に広がる荒れ果てた大地。そこに、悪魔という存在がただ閉じ込められていた。理由も分からず、生きる目的も見いだせず。



 誰がこんな世界を創った? なんのために?



 ルシファーは、ただそこにだけの僕ら悪魔に、存在する意義を与えてくれた。

 バラバラだった悪魔をひとつの組織として束ね、幾多のヒトを闇へ引きずり込み、天界ヘブンから座位を一気に奪う。こうして、殺伐とした不毛な大地の地獄ゲヘナは徐々に力を得て行った。



 ルシファーは、僕らの光だった。だけど、彼女自身は常に闇の中にいた。



 夢魔は相手の潜在意識に忍び込み、その人物の好みの容姿を探り当てる。これは意識して行うわけではなく、夢魔の本能みたいなものだ。

 ルシファーは当然そのことを認識している。だから、僕が彼女の夢に侵入しても、見せたくない部分を封印し僕からは隠してしまう。

 でも、僕はルシファー付きの夢魔。普通の奴とは違う。

 彼女の潜在意識に何度も触れているうちに、僕はついに秘密の小部屋の中をのぞき見た。



 青々とした空に輝く太陽。緑溢れる大地。白亜の神殿。見上げるほどの巨大な古木。そして、六枚の翼を持つ銀色の髪をした天使。



 それは天界ヘブン映像ビジョン。加えてルシファーの奥底には、怒りや嫉妬、増悪が渦巻く中に、悲哀と情愛が混ざるなんとも形容しがたい感情が隠されていた。



 ルシファーは、なぜ地獄ここにいるのだろう?



 きっと、彼女もそう思っているに違いなかった。


 その苦しみとつらさから逃れるように、ヒトを操り、大きな戦争を起こしては彼らの魂を闇へと引きずり込む。

 その寂しさと心細さから逃れるように、自分の血を使い、新たな悪魔を創り出しては地獄ゲヘナへと放り込む。

 それでも、ルシファーの心は壊れたままで何ひとつ満たされない……。



 気がつくと、ルシファーは鈍色にびいろのローブをまとい、人間界へ降りる支度を整えていた。

 それをベッドの脇に座ってぼんやりと眺めていた僕は、前から思っていたことを口にする。


「ねぇ、ルシファー。僕も一緒に行っていい?」


 フードを頭に被せたルシファーは、目を細めて僕を見た。


「ダメよ」


「どうして? ベルゼブブは行くんだよね?」


 青みを含んだ黒の長髪で、僕と同じくらいの背丈があるベルゼブブ。彼がルシファーの隣にいることを想像し、僕は渋い顔になる。


「仕方がないわ。今回は『約束』だから」



 誰と何の約束をしたというのだろう?



 ルシファーは被ったばかりのフードを外しながら、黙ったままの僕に近づいてくる。彼女は僕の首に腕を回したかと思うと、そのまま深紅の唇を僕に押し当てた。

 ルシファーの舌が僕の中に入ってくる。僕はそれに応えるように彼女の唇をむさぼった。


 ルシファーの口づけは、僕の頭をまひさせる。このつかの間の快楽に溺れて、何もかもがどうでもよくなってしまう。

 口づけの音だけが部屋に響く中、僕はそれだけじゃ満足できなくなり、ルシファーの首筋にキスをする。


「インキュバス……」


 ルシファーが甘い吐息とともに言う。


「なに?」


 僕はルシファーの首筋に唇を這わせながら答える。


「私のそばにいるのよね?」


「そうだよ。初めて会ったときに、そう誓った」


 地獄ゲヘナへ堕ちてくる堕天使たちの光芒こうぼうのなかにルシファーを見つけた『あの時』、僕は彼女のためだけに存在しようと決めたのだ。


「それなら……」


 そう言ったルシファーは僕から体を少し離し、僕の目を覗き込む。


「私を信じて待っていて」


 そばにいることと待っていることは、矛盾しているように聞こえる。でも「信じて」と言われてしまうと、従わないわけにはいかなかった。


「分かった……」


 僕が渋々答えると、ルシファーは満足したように立ち上がり、鈍色にびいろのローブについたフードを再び被った。


「今度もまた、たくさんの座位が地獄ゲヘナへ堕ちるわ」


 ルシファーの美しい口角が醜くゆがむ。そして、六枚の飛膜の翼を広げたかと思うと、あっという間に闇へとその姿を消してしまった。



 ルシファーは、地獄ゲヘナへ戻ってくる前に、或るヒトの一族を根絶やしにしていた。

 人間界へと再び降りたルシファーはべルゼブブの力を使い、一族が支配する領地を大干ばつにする。そしてそこに住む者を飢餓へと追いやり、暴動を起こさせた。

 不幸と不満をばらまいたルシファーの思惑通り、小さな領地の暴動は国内の武力紛争へと負の連鎖を拡大させていく。

 こうして地獄ゲヘナは、多くの座位を天界ヘブンから奪い取っていった。


 だけど、僕は知らなかった。

 ルシファー自らの手でほふった一族が、一体誰の一族だったのか。そして、彼女が何を思い、その一族を滅ぼしたのか……。

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