終宴〜改〜

ベニー・グッドマンのシング・シング・シングですよね

「やめろ! ボクから離れろ! やめろー!」

 ユイの声は虚しく館に響き渡った。ジャックは力任せにユイを引っ張り、床に散らばったガラスの欠片をパキパキと軽い音を立てて踏む。そして窓際に近付くとジャックは静かにスピーカーから音を出した。

「お疲れ。探偵さん」

「いや……いやー!」

 ユイの体は宙を舞い、館の外へふわりと飛び立つ。かと思われた。

「ユイちゃん!!」

 ユイの手はジャックとは別の誰かに強い力で掴まれた。あまりの強さに痛みを覚えたユイであったが、それは死に比べればなんてことがないと、そう、思えた。ユイの眼前でジャックが宙を舞い窓の外へ、落ちていく。落ちて。いく。静かな部屋の中に、無機物が壊れる音が微かに聞こえた。

「ヌユン……どうして、ここに?」

 ユイの腕を掴むユイの姿がそこにはあった。ヌユンはフジと共に神扉警察庁本部に向かったはずであったのに。それに自分の事を【ユイちゃん】と呼んだ事に対してユイは混乱した。

「ユイちゃんが心配で、戻ってきたんですよ。なんだか思い詰めた顔なんてしちゃってましたし。まるで、昔の、ユイちゃんみたいで、また自分の体を顧みないんじゃないかと……そう思ったので」

「昔の、ボク?」

 急にふっと一つの場面がユイの脳内に映像として浮かび上がった。

 それはユイとアキが喧嘩をしている場面。大学の入学試験の結果が発表されたあの日の事だった。しかしユイの記憶とはいくつか違うところがあった。ユイの記憶ではアキがユイに怒りをぶつけた後に屋上からアキが身を投げるというものであった。それなのに今ユイの頭に浮かんでいる映像は、

「うるさいうるさいうるさい!! アキにボクの気持ちなんて分かるわけない!!」

 ユイがアキに激昂しているものだった。そして、柵によじ登るのも自分自身。当然身を投げるのも、アキではなくユイ自身だった。

「どうして……」

 そう口にした途端、ユイの中に真実の奔流が轟々と流れ込んできた。ユイの記憶は、改竄かいざんされたものだったのだ。ユイは記憶の奥底にと押し込まれていた、真実の記憶を思い出していた。

 アキは屋上から身を乗りだしてユイを見て泣いていた。その瞬間すら、今なら鮮明に思い出せた。全身の痛みがもはや痛みとして認識出来なくなりながら、ユイは小声で言った。

『ボクなんかじゃ、アキには釣り合わないよ。でもボクの事を忘れないで、絶対に忘れないで』

 ユイはアキを愛するあまり、自分の惨めさに耐えられなくなり、それでありながら側にいたいと思う気持ちがぶつかって同時に二つを成せる手段を取った。それは死だった。

「そうか。ボクは……」

 しかし、ユイは一命を取り留めた。ユイの両親と祖父は自殺未遂の原因だとアキを非難し、面会だけではなく今後一切会う事を禁じた。ユイの記憶素子は、その時の治療の際に埋め込まれたものだった。この時、記憶素子内に改竄された記憶を植え付けて、アキの記憶は完全に抹消されたはずだった。それなのにユイは少しずつ真実の記憶を取り戻しつつあった。愛が、二人を繋ぐ愛がそうさせたのかもしれない。そうしてユイは気付いた。

「ヌユンが……アキ?」

 ヌユン・A・オーエという名前。ヌユンがユイの部署に配属された時、確かにヌユンは名前を名乗っていた。

「これからおせわになります。ぬゆん・あき・おーえです」

 そうヌユンは名乗っていたのだ。それに、ユイに何度も訪れたヌユンがヌユンではない誰かに見えたというあの感覚。あれはヌユンをアキだと一瞬だけではあるが脳が認識していた事に対する感覚に他ならない。そうだったのだ。ユイはいつも見守られていたのだヌユンに。いや、アキに。アキの愛に。




 <><><><>




 アキは学生時代からずっとヌユンを愛していた。しかし同性の恋愛は少子化問題に拍車をかけるという社会からの圧制もあって、それを自分の中で否定し続けていた。それでもアキはユイの側に居続けたいと思った。ユイの両親や祖父から会う事を拒否されても、諦めなかった。アキはこっそりとユイが好きな推理小説を読み始めて、少しでもユイと同じものを好きでいられるように努力をした。それを続けている内にアキは、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』に辿り着いた。

 そして、アキは衝撃を受けた。U・N・オーエンという名前に。

 U・N・オーエンは、『そして誰もいなくなった』の兵隊島の持ち主として出現する夫婦のどちらにも当てはまる名前だ。ユリック・ノーマン・オーエンとユナ・ナンシー・オーエン。この名前はどちらも略称がU・N・オーエンとなり、UNOWENと表記さる。これはUNKOWNに繋がり、誰でもないものを意味している。そう。これは偽名なのだ。そして、偶然にもアキが普段一般的に用いるヌユン・A・オーエという名前はU・N・オーエンのアナグラムで成り立つのだ。


【ユー・エヌ・オーエン】→【ヌユン・エー・オーエ】


 U・N・オーエンは、誰でもないものでありながら、二人の人物の名前となっていた事。そこからアキはもう一人の自分を作り出す事を考えた。当初は、アナグラムで別の名前を作り出してその人物に成り切ろうとしたが、元来アキは不器用な人間であったためにうまくいかなかった。そこで、本名であるヌユンという名前を使う事でヌユンは自らをニホン国民ではない人物に仕立て上げた。

 アキは、ヌユンという名前が嫌いで、普段からミドルネームを名乗っていた。理由はシングルマザーである母を捨てた男が付けた名前を嫌悪したからだった。しかしその名前のおかげでアキは自分を自分から切り離す事が出来た。嫌いな名前を使う事で、自らがアキではないと強く思い込む事が出来たのだ。

「自分はヌユン」

 そうしてヌユンという人格が、アキの中に出来上がった。

 人格とはいってもそれほどアキと変化があるわけではない。そうしてしまうと日常生活がままならなくなってしまう。あくまでもユイの前でアキとは違う人であると証明出来ればそれで良かった。しかし思いがけず、アキの中のヌユンという人格は、アキの手から少しの暴走を始めていく。

 アキはユイを愛する気持ちを恋愛ではなく親愛に落とし込んでいたのに、ヌユンは恋愛を求めていた。それ故にユイに過剰に接触を試みてしまっていた。その過程でユイには、過去のアキとの記憶が改竄されている事を知った。

 アキは考えた。どうにかして、自分を思い出して欲しいと。

 ヌユンは考えた。どうにかして、自分と愛を育んで欲しいと。

 そして、二人は一つのショーを考え出した。

【ユイの改竄された記憶を無理矢理に蘇らせる】ショーを。




 二人は職場でロボットについて多くの事を調べ上げた。その中でロボット三原則にある穴を見つけ出した。古典中の古典であるアイザック・アシモフの『われはロボット』にも書かれているような、とてもシンプルな方法でその穴を空ける事が出来ると結論付けた。

 ロボットを混乱させ思考回路をショートさせてしまえばいいのだ。

 ロボット三原則にあるように、【ロボットは人間に危害を加える事は出来ないが、危険を看過する事によって人間に危険を及ぼしてもいけない】。しかし【人間に危害を加えなければ、危険を看過する事になり人間に危害が及んでしまうと】となれば、どうなるだろう。その時ロボットの思考回路は混乱を生じさせる。

 外的要因での思考回路を破損させれば、ロボットの販売企業に自動的にデータが送信されるようになっているが、内的要因であればそのデータを送信する機構自体が破損してしまう可能性が大きい。そうすれば思考回路が破損したというデータが販売企業に行く事もない。うまくいけばではあるが、思考回路――ロボット三原則の穴を穿つ事が出来ると二人は踏んだのだ。

 一体目のロボットは、思考回路共々全ての機構が駄目になってしまった。しかしそれは企業の廃棄とされるだけであり、二人にはなんの関係もない事だった。その時すでに二人の心はユイに執心しており、二人は一人に混ざり合おうとしていた。

 二体目のロボットは、思考回路をうまくショートさせる事が出来た。しかしOS自体は再起動したもののロボットの体は動き出さなかった。ソフトとハードの連結を司る機構にまで異常が出てしまったのだ。ただしある種の成果はあった。OSを調べたところ、ロボット三原則のプログラムに異常が出ていた。二人の考えは間違っていなかった事が証明された。そこからの展開は早かった。

 二人はロボット三原則のプログラムだけをうまく破壊させる事に成功し、そのロボットのロットナンバーを控えた。そうして市場に出て行ったロボットの流通過程を検索し、そのロボットには異常が検知されたといって引き取った。当然会社の人間としてである。

 その頃、二人はユイの書いた推理小説『愛のパズル』を仮想塵芥集積場アンダーグラウンド・ネットで発見した。そうして二人はほくそ笑んだ。【ユイの改竄された記憶を無理矢理に蘇らせる】ショーに、色を添えるにはちょうどいいと考えたのだ。

 そうして、回収したロボットにジャック・コステロという名前を二人はつけ、遂に命令を下した。

「ユイ・ロクメイカンと、その他に何名か古典推理小説愛好者を数人見つけ出して。そうして館に招待して欲しいの。あと館の主人役の演者も必要になる。あとはデータ通り。うまく殺していってね、ジャック」二人は笑顔を作ると付け足した。

「それと、上手に死んでね、ジャック」

「分かってるって、お二人さん」

 ロボット三原則には自己を守るというものがあるが、いまやジャックにその概念は存在していなかった。




 <><><><>




 雨で濡れるカーペットの上に三人はしゃがみこんだ。

「ヌユン……助けてくれてありがとう。いや、ヌユンじゃなくて、アキ……なのかな」

「どういたしまして先輩。いや、もう先輩って呼ぶ必要はないんですかね?」

「いや、仕事ではボクの方が先輩なんだかろ、そこは先輩っていってもらわないとね」

「ふふふ」

「へへへ」

 三人は笑いあった。その場で、びしゃびしゃになりながら。雨でびしゃびしゃに濡れているから分からないとでも思ったのか、ユイはその瞳から大きな涙の粒をいくつもいくつも垂らした。ヌユンとアキは、それを見ながら見ていない振りをして、ユイからは見えない方の唇の端を吊り上げた。作戦が成功したとでもいう風に。


 そうして事件は一通りの幕をおろしたのだった。

 犯人はジャックという事になったが、ジャックは持ち主がいない機械であり販売企業であるはずのユイたちが勤める会社にもジャックのロットナンバーが存在しない事から現代におけるオカルト事件のような扱いを受け、メディアではある程度話題を攫った。しかし事件には憶測ばかりが飛び交い犯人の目星はついている上にそれ以降なんの進展もなく、すぐに人々の記憶から消えていくことになった。

 そんなかたわらでユイたちは、会社を辞めた。

 自主退職という形ではあったが、企業側から奇妙な事件に立ち会いながらなにもする事も出来ず企業の品位を欠いたという旨の圧力がかけられたからだ。しかしそれは表向きの理由だろうとユイは思った。その場にいた、社長の隠し子であるフジが関係しているのではないか。そう感じたからだ。フジは異常なまでに父親――ユイたちが務めていた企業の社長――に執心していた。それ故になにかしらの圧力をかけていたのかもしれない。企業を守る為に、父親を守る為に、事実――とはいえ、ユイが知らない真実が事件の裏には隠されている――を知っているから。

「ユイちゃん?」

「なあに、アキ?」

 ユイたちは二つ並んだアルネ・ヤコブセンのスワンチェアに座って手を繋ぎ、部屋の隅に置かれたプラスチックで出来たなんの温もりも感じない安価な黒いスピーカーから流れる音楽を聞いていた。流れる音楽はジャズのスタンダードナンバー。ビル・エバンスの……

「これ、なんて曲だったかなぁ……」

 首を傾げてアキの肩に頭を預けながら、ユイは尋ねる。その様子は恋人のように甘えているように見えなくもない。

「うーん、なんでしたっけ……聴いた事はありますけど、古い曲だしジャズはあんまり詳しくないから思い出せないですね。というか、記憶素子があるんですし、先輩は分かってるんじゃないですか?」

「もう!  こうやって会話を楽しみたいって気持ち、どうして分からないかな! ムードが良いのは音楽だけで、アキはムードの欠片も持ってないんだから!」

 ユイはぷりぷりと怒りながら、手元付近に投影された操作盤を模した映像に触れる素振りを見せた。音楽が次の曲に切り替わる。アキが直前に流れていた歌を知らなくても楽しくユイと会話が出来るように、世の中には知らないからこそ他の事を楽しめる事だってある。ユイの記憶を取り戻す為に、何人もの人間とロボットを殺す計画を立てたアキの性格を知らないように。

 スピーカーから、軽快なドラマの音が流れ出す。

「あっ、この曲は知ってますよ」そういうとヌユンは椅子から立ち上がってユイを振り返っていった。

「ベニー・グッドマンのシング・シング・シングですよね」

「せーかい!!」飛び跳ねるように、ユイは椅子から立ち上がると背の高いアキを下から見上げるようにした。

「この音楽を聴くと、体が自然と動き出さない?」

「まあ分からなくはないですね」

 ユイはアキの手を取る。

「それじゃあ、踊ってみる?」

「えっ? でも、自分は踊ったりってあんまりした事ないですし……」

「いいのいいの! 音楽に任せて体を動かせば、それで」

 ユイはあまり物がない部屋で、くるっとターンしてみせた。

 モノトーンでまとまった部屋の中、黒を基調としたモード系の服でまとめたユイは部屋に自然と馴染んでいた。上衣はシンプルなシャツに見えるが、よく見ると正面がコットンで背面はシルクになっている。ワントーンのコーディネーションにおける基本である生地の違いを楽しむように。同時に人間の表と裏の顔を表現しているかのようでもある。パンツは黒のワイドパンツ。股上が深めで足が長くなくても錯覚で長く見える。どちらかというといつもよりはカジュアルテイストだが、それはアキのテイストに近付いていっているからなのかもしれない。

 ユイたちは、小さな部屋を舞台にして踊り出す。妙なステップのアキとは違って、ユイは華麗に舞っている。

「へへへ、アキ、大好き」

「自分もユイちゃんが大好き。もう離さないからね」

 ユイたちは、ずっとずっと踊り続けた。少しずつユイの親愛が恋愛に変わっていっているのを、アキは実感していた。それはアキの仕組んだ【愛のパズル】のピースを少しずつ嵌めていく作業の、まだ初期段階に過ぎないが、ユイはそれを知らない。




古典推理小説愛好家アナログ・ヘビー・ミステリアス殺人事件】了

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