III
プロローグ
旧長野県・旧松本市郊外。
新紀元29年・十月二十九日。
通常時間軸・日本標@* < ――@ ・ ――^ *%
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新紀元十五年・五月二十日。
歪曲時間帯・独立時間16:00。
「ひひ、危なかったわ。危なかったわ」
透き通るように青い空の辺境まで広がるような草原を、初夏の涼しい風が優しく吹き抜いていく。そこにぽつんと背を伸ばし、枝や葉を広げる木の下に、一人の女の子がおかしそうに笑いとともに感想を漏らす。
「もうちょっと斬られたところだわ。大人って、みんな暴力的だね」
四季の中でも一二を争う快適な季節に、およそその快適さを楽しむために広がる草原。しかし、当たり前のようにそのど真ん中にいる女の子は、百歩譲ってもここにいていいものとは言えないぐらい異質なものだった。
柔らかい新緑の髪は綿菓子みたいにふわふわとしていて、前髪が優しく右目を隠している。あらわになっている左目は春を想起させるような緑。
幼い体を包むのはポンポンのついたポンチョコート。大きめなそれは女の子の体を膝まで包み、さらに下へ視線を向けると、ファー付きのスノーブーツが見える。
少々季節感のおかしいコーディネーションになっているが、これだけならまだギリギリ普通の枠に収められるだろう。
しかし、弾力のある体に、巨大な緑色の鱗が五枚もついていて、かつ肩のやや下に、巨大な白い羽が生えているとなると、話はまた別だ。
ポンチョコートに隠されたおかげで、辛うじて覗ける程度だが、せいぜい小学生の歳の女の子の体に、烙印を押されたような、刃物を何本も同じ場所に突き刺されたような感じで、大人の掌よりも大きい鱗がついているのだ。
「それにおもちゃも壊された。ひひ、やっぱり化け物だね。十三の人は」
またおかしそうに口元を歪め、女の子は羽を震わせるように動かし、前髪に隠されていない左目で少し離れた空間を眺める。
初夏の草原であるはずのそこは、立体映像が投影されているのだ。
女の子の目に映るのは、血色の霧に溶解された大地や、少し前までは災害として地球をうろつく黒い巨人の残骸。――それと、その中心に佇む一人の女性と、彼女を中心に回転する数千もある剣の繋いだ環。
剣陣という独自の戦法を編み出し、さらに系統化させた天才。現に調波官に配備された二十五式調波刀も、彼女が編み出した理論をベースにして作られたものだ。
そして、何重も展開され、半径数キロ全域を攻撃範囲に収めた複合剣陣「陣殺」に切り刻まれた黒屍が、今や醜い黒い肉塊と化し、溶解された大地に散乱している。
そんな雑魚の残骸には目もくれず、本命を逃した剣姫は小さくため息をこぼすと、踵を翻し、靴板を起動して颯爽にその場を立ち去った。
その様子を見て、本命である女の子がまた口元を歪な形に歪める。歪、といっても、なぜかこの女の子がすると、ごく自然で魅力的とさえ感じさせる笑顔だが。
「バケモンも何も、本気で戦うなってくだらねぇ命令がなきゃ、とっくに俺がぶっ殺した」
無邪気と不気味という相対した形容詞が同時に適用する女の子の笑い声を遮るように、女の子から少し離れたところから、低くて不機嫌そうな声が響いた。
緩めな天然パーマをロングにした中年男性だ。それなりの時を過ごしてきた証として、しかめられた顔に微かなしわが覗ける。けど、シャツを押し上げるほどの筋肉や、めくった袖であらわになった逞しい腕から見ると、歳とは関係なく力強い男性だと一目でわかる。
さらに言うと、掌全体から手首にかけてびっしりと描かれた模様――特定の空間座標を繋ぐための座標式――や、腰あたりにつけられた二丁の大型拳銃から見ると、圏外を生き抜ける人であることは一目瞭然だ。
「おめぇだってそうだろうが。危ねぇ危ねぇってほざいてるが、その気になりゃ、十三だろうが何だろうがぶっ殺せるだろう」
タバコを咥えたまま煙を吐きながら、中年男性が睨むように女の子を見下ろす。
その態度が気に食わないのか、女の子は不満そうに羽を小さく動かしてからため息をこぼす。
「だめだわ。そんなこと言っちゃって。
「チッ、今更子供面はやめろ。気色悪ぃ」
「ひひ、やっぱりひどい人ね」
不機嫌そうに目を逸らした七夜の顔を、女の子は面白そうな目でのぞき込む。
その視線をあえて無視して、七夜は立ち上がると吐き捨てるように女の子に言葉を投げる。
「やってらんねぇ。先に帰らせてもらうぞ」
そう言って前へ踏み出そうとして――パサッ、と後ろから羽を大きく広げた音が聞こえた。
「どこに行くつもりなの?」
「別にどこに行くつもりはねぇよ。言っただろうが、帰るって」
「そこは村の方向だわ。いけないわ。そこに行っちゃったら――」
女の子の小首は、糸の切れた操り人形みたいに、人体の構造を考えると不自然な動きで傾げた。
「壊すよ?」
温度が一気に氷点下まで下がった声に、振り返らずとも女の子が病的なまでに虚ろな目で睨んできたのが分かる。
それ自体はさしたる問題じゃないが、ここで女の子と衝突しても何にもならないから、七夜は「チッ」と面倒そうに舌打ちするだけで、さらに前に進むことはなかった。
「そうしてほしくなきゃ、早くこの場違いな夢から解放しろってことだな。こっちはおめぇと違って忙しいんだ」
「ひひ、大人はみーんなそんなことを言っちゃうね。でも、いいわ。もともと七夜を私の夢に招くつもりもないもの。ちゃんと解放してあげる」
涼しい初夏の風に声が溶け消えたのと同時に、ポンチョコートに隠された、女の子の胸あたりにある鱗が淡い光を放つ。攻性理論が発動され、この夢においては異物である七夜を外へと追放した。
それを見届けるように、女の子は羽根を風に揺らされながら、七夜がいた空間を眺める。
同じ風に前髪が軽く持ち上げられる。覗かせたのは、この世のすべてを見通すかのような神秘的な金色をした瞳だった。
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