第四章 凪いだ君の心の奥底 3
あれから、皆がオフィスに戻り、残った作業を協力して終わらせた。
透矢は朝から指導を受けただけあって書類作業をさっさとこなせるのと、晴斗がほかの人の遅れをカバーしたおかげで、予定時間より少しオバーしたけど、特に遅れることはなかった。
とはいえ、あれからオフィスの中は静かなものだった。仕事中の千紗はもともと静からしいけど、朝があんなに騒がしい照葉は、やはり仕事に手を付けていないが、口数がすっかり少なくなってしまった。晴斗に連れて帰られたときも、元気がないように見える。
晴斗が言うに、明日になったら復活するらしい。とはいえ、告別式に参加し帰るたびに仕事ができなくなるわけにもいかない。これなら、二週間に一回ぐらいある告別式に、毎回毎回参加できないのも納得できる。
そして、凪乃といえば、オフィスでの仕事が終わるとまとめた書類を提出しに行った。告別式の前とは何も変わらないようなその姿を見て、自分が見た凪乃の感情の一端が嘘だと思えてくる。
「先に帰っていいわ」
同じ部屋に暮らしているからだろう。オフィスを離れるとき、わざわざ透矢の席にきてそう言い残してから、ようやく書類を胸元に抱えて廊下へと消えていった。
なんとなくその儚い姿を見送ると、ふと、背中に別に視線を感じた。
顔をしかめて振り向くと、そこには仕事が終わってお茶を片手に、ポッキーをうまそうに齧っている千紗の姿がいた。
何か面白いのか、小さく微笑みを浮かべ金色に光る隻眼でこちらを見ている。
「なんか用か」
「凪乃のこと、気になってんの? 案外いい人じゃない」
「は? 俺が、あいつのことが?」
「だから凪乃のことって言ってんじゃん。アタシにはそう見えるね」
「見間違いだ」
「片目が潰れてるからってバカにするとか、よくそんなひどいこと言えるね。吹っ飛ばされたいわけ?」
「………誰もお前の目のこと言ってねぇだろう」
「冗談だって。それぐらい聞けば分かるだろう。何ムキになってんの? バッカみたい」
どこか楽しそうに小さく笑みを浮かべて、千紗がお茶ををくびくびと仰いだ。彼女なりの仕事後のリラックスタイムらしい。
「アンタも食べたら? どうせ、圏外じゃろくなもん食べられなかっただろう」
言いながら目にかかった赤い髪を無造作に払うと、まだ開封していないポッキーを投げてきた。
それを片手で受け止めると、透矢がすっと目を細め、鋭い眼光で千紗を睨みつけた。
「圏外は、皆が精いっぱい生きている場所だ。それをバカにするじゃねぇ。もう一度言ってみろ。ぶちのめすぞ」
「は? 地雷踏んだってこと? それは……ごめん。でも、ま、なんだ。それ、食べたら? 結構うまいよ」
一瞬申し訳なさそうに目を逸らしたが、すぐ元通りの顔に戻って言ってきた。
どうすればいいか少し逡巡すると、透矢はとりあえずポッキーを机に置いて、紺色の目で千紗を見据える。
同じ小隊になったものの、この人のことはほとんど知らない。彼女についての認識は嵐司と一緒に外周部に行ったときに見た、千紗が住民を冷やかす光景だけだった。
とはいえ、今の千紗といえば、あのときとはまた違う雰囲気を漂わせている。
「なんだよ。じろじろ見てて。凪乃がいるくせに」
「何言っているのかさっぱり分からないが」
「大丈夫じゃない? アタシもよく分からないしさ」
身につけた金属のアクセサリーを鳴らすように太ももを叩くと、新しく開封した干し肉を引きちぎって、頬杖を突きながら問いを投げてくる。
「けどさ、凪乃の何かが気になるかは知らないけど、はっきり言わないと、凪乃に伝わらないよ。あの子、そういうタイプなんだから」
口調も雰囲気も、オフィスの室温が下がるじゃないかと思わせるほど冷たいのに、言っていることは意外とお節介なところがある。そのギャップに戸惑っていると、千紗がどうでもよさそうな様子で言葉を続けてきた。
「それに、レポートは読んでないから知んないけど、アンタ、圏外じゃあそこそこ有名らしいじゃない。けど、もう管理省に入っちゃったわけだし、早く小隊に馴染んでくんない? 晴斗とさももがいるときに言ったら怒られるから言わなかったけどさ、正直、見苦しいよ」
「は? 俺は別に調波官と仲良くするために管理省に入ったわけじゃないが」
「知らないよんなこと。アンタ、小隊の馴染まないまま仕事始める気? 調波官の仕事って、いつ死んでもおかしくないもんだぞ。一度も口を聞いたことないやつに、背中を預けられるなんて、アンタができてもアタシには無理よ。だからさ、凪乃は小隊長だから、彼女から始まりなよ。ちょうど言いたいことがあれば、はっきり言ったら?」
「親戚のババァか、お前は」
「喧嘩売ってんなら買ってあげてもいいけど?」
ポッキーを咥えたまま頬杖をつき、そのまま頬を上で滑るようにして、あごがデスクに当てると、上目遣いで言ってきた。
その態度に苦手意識を覚え、透矢が無意識的に目を逸らした。
すると、視線の先が、水銀のプレートが挟んだラベンダー色の髪を捉えた。
「言いたいこと?」
二人の会話を聞いたようで、凪乃が透き通った目で見つめてきて、抑揚のない声で聞いてきた。
「お前、なんか提出に行ったじゃねぇの? なぜここにいる」
「佑弦、頭が悪いから」
「佑弦? ああ、お前の上司のことか」
「今日中に提出する書類のリスト、一つ足りないって」
「管理省は効率がすべてってクソ主義を信じる集団のはずだが」
「用事がないと会ってくれないから、わざとリストをいじったと言った」
もうこの庁は終わったかもしれない。
「透矢」
頭を抱えたい思いに駆られると、不意に凪乃の声が再度響いた。
「わたしに言いたいこと、何?」
「別に、言いたいことなんかねぇ」
「は? なにそれ。ないわけないじゃない、何言っちゃってんの? バカじゃないの? 実はシャイってわけ?」
「あるね」
「ない」
「でも、今は仕事が先」
「じゃあさっさと仕事に戻れ。俺は先に戻る」
「うん」
一つ頷くと、凪乃が何のこともなかったかのように、自分のデスクに戻ってはパソコンをいじり出した。
隣の席では、千紗が空になった缶をつまらなさそうに弄び、盛大にため息をつく。
「どいつもこいつも、なんでもうちょっと素直になれないわけ? 明日になったら、口を聞くこともできない肉塊になっててもおかしくないのにさ、言いたいことがあったら、さっさと言えばいいのに」
と、悪態をつきつつも、仕事後のリラックスタイムが終わったようで、制服を無造作に肩にかけて、扉のほうに足を向けた。
「アタシ、これから訓練場で自主練。うちの小隊に当てた訓練場は一〇七。来たいなら勝手に来な。練習に付き合ってあげるから」
去り際そう言い残して、千紗が廊下へと姿を消した。
これ以上ここに残っていもすることがないので、透矢も椅子から立ち上がり、帰りの支度を始める。
そんな透矢がオフィスを離れるまでの間、凪乃はただパソコンを見つめて、何やらやっているだけで、こちらを見ることも、声をかけることもなかった。
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