幕間一 愛しき地獄からきた君へ

「ああ、ようやく来てくれた」

 執務室で、佑弦が顔を上げ、待ちくたびれたような感じで声をこぼす。

 着任式で感じていたカリスマ性の気配がどこへやら、ただ普通に笑いかけてくるのだが、あの適当な一本結びとスーツを羽織るスタイル、間違いなく、探索庁長官、佑弦その人だ。

「左雨透矢、だね。まあ、そう固くなることはない。もともと、スカウトしておいて挨拶もなしってのは失礼だろう。ここ数日、着任式の準備で忙しくてね、ごめんね」

「別にいいが」

 そう言って、流し目で隣の凪乃を一瞥する。

 メンターなんかの話で連れ出したはずだが、ここにくる意味が分からない。

 とはいえ、そんな視線での語り掛けに気づくほど、凪乃は器用じゃない。彼女は透矢の視線にさえ気づけずその場で無表情で佇んでいるだけだった。

「あ、メンターのことだね」

 と、透矢の視線に込めた疑問に気づいたのは、意外にも大雑把に見える佑弦だった。

 事務デスクの前に回り込んで、デスクにもたれかかった佑弦は、淡々な紅茶の香りを漂わせ、目尻にしわを寄せるように微笑んだ。

「あんまり、凪乃を責めないでやってくれ。いかんせん、メンターは初めてでね。僕がサポートすることになったわけだ。メンターのメンター、パパだから、これぐらいしないと」

「父親か、こいつの」

「違う。佑弦は、ただの先生」

「心に刺さる言葉、どうもありがとう。相変わらずひどいことを平気な顔で言ってくれる。一体だれが教えたのやら……」

「お前じゃないか……? 先生って呼ばれただろう」

「ははは」

 少しだけ唖然とした透矢の問いに、佑弦が面白そうに朗らかな笑い声を漏らす。その明るい声が執務室の空気に溶けてから、そのワインレッドの目を透矢に向き直る。

「では、透矢くん」

 失態を完璧に流しきって、初夏の夜で野ばらを吹き抜くそよ風の雰囲気で言葉を続ける。

「まずは、君の考えてることを教えてくれないかね」

「………考えてること?」

「ええ、ほら、管理省に入ってくれる圏外のものは大体、三つのタイプしかないだろう。一つは楽に生きていきたいから、勧誘したら、『あ、行く行くっ!』って応じてくれるもの。一つはスパイとして潜り込んでくるもの。一つは仕方なく勧誘に応じたもの。透矢くんはレポートを読む限り、三つ目の人種だろう。さすがに、いきなり管理省のために尽くすことなんてありえない」

「だから、俺の考えを知って、それを変えて管理省に尽くすようにするのか」

「そうじゃないと言ったら嘘になるね。けど、最終的に、君がそうしないとお互い困ることになってしまう。あれだよあれ、ウィンウィンってやつさ」

 両手でピースサインを作って、カニの真似でもしているかのように指を動かして見せる。

 そのふざけている仕草と波紋一つない平静な水面のような目を見て、透矢がしばし黙り込むことにした。

 着任式の演説を聞く限り、佑弦について分かったことはいくつかある。

 彼は、新紀元二年で圏外で生まれて、そのあと、管理省の勧誘に応じ調波官になった。そして、今は管理庁の三つの庁の一つの長官になっている。

 また、あのシャープペンで空中に世界地図を描いたことから見ると、おそらく、彼も攻性理論の所持者だろう。

 おそらくレポートやらで、圏外都市H9で起こったことは把握しているから、前置きをしなくても、自分が管理省を許さない気持ちを言ってやることもできる。……なのだが、その前に、一つ、確認しておきたいことがある………

 ………と、そう思って口を開こうとすると、不意に佑弦に納得したような顔で頷かれた。

「なるほどなるほど、そういう考え方か」

「……は?」

「いや、目が言ってるんでね。僕が管理省に入る理由だろう? 昔の僕が今の君と同じ状況に置かれると、同じこと考えてるだろうし。ま、教えてあげても構わないが」

「お前の攻性理論か」

「まさか、ただの人間観察だよ」

 心が見透かされそう聞いてみたが、佑弦は言葉を受け流し顎に指を当て考えるポーズを取ると、意外と素直に口を開いた。

「圏外都市H3、旧札幌。聞いたことぐらいあると思う。昔、雪祭りとやらが毎年行われる町でね。そこで小さな組織を立てたことがあったんだよ、僕」

 昔を見るような目……じゃない。佑弦の目は、他人の昔話が書かれた紙を読み上げるような、どこか他人事のような感じがする。しかし、嘘をついているようにも見えない。何を考えているのか、読み取れても意味がまるきり分からない。

 もしこの場に加苗がいるなら、彼女に会話を任せたところだったろう。だがあいにく、ここには自分と佑弦を除いたら、何かを考えているのかすらも全く分からない人形みたいな凪乃しかいない。

「僕はそこで……一応君と似たような立場にいた。でも、いろいろあって、解散しかけたことになったよ、残念ながら」

 そんな不協和な雰囲気に戸惑いながら佑弦の言葉に耳を傾けると、佑弦が大きなため息とともに肩をすくめた。

「そのとき、ちょうど管理省から勧誘がきたから、表面上、組織を立て直すためにと、すんなりと応じたわけさ」

「つまり、お前は楽に生きていきたいタイプってことか」

「そうとも言える。けど、それは僕の考えじゃないし、目的でもない」

「は……? どういう意味だ」

「僕は、僕が幸せであることを祈る人の願いを答えるために、自分を幸せにしてるだけだ。そして、あの演説も、別に僕の考えじゃない」

 そう言うと、佑弦は少しだけ体を前に倒す。覗き込むように、ワインレッドの目から溢れる正体不明の何かを無遠慮に透矢の紺色の目に染み付かせる。

「透矢くん、僕はおそらく君と違って、理想なんてものを持ち合わせてないんだよ。ある意味では、凪乃と同じ無感動な人間でもある」

「着任式で、とんでもないことを抜かしたお前がか」

「ええ、着任式でとんでもないし心にもないことを抜かした僕だ。どう? 少しだけは感銘を受けただろう? あれ、結構すごいと思うよね」

「………」

 あっさりと認めた佑弦に、透矢が微かに眉を寄せた。

 想像していた人物像とかなりかけ離れているのだ。佑弦という人は、こうして一対一で話してみると、分かりやすいはずの彼の性格は、正体の知れない何かに変わっていく。

 まるで、底の見えない深海の水面を覗くかのように、近く寄れば寄ほど、その果てのない深さに戸惑うことしかできない。

「ま、でも、僕は人よりずっと働いているのも事実だ。過去の借りを返済している、と思ってもらって構わない。けどそれは、少なくとも君や皆が考えるようなものじゃない」

 これもまた他人事のように言うと、佑弦が微笑みを浮かべたまま少しだけ首を傾げ、柔和な眼差しを送ってきた。

「では、僕から腹を割ったことにはなったし、透矢くんの考えも、教えてくれないかね」

「腹を割るといっても、肝心なところは誤魔化したように聞こえたが」

「ははは、そりゃ、男は少しミステリアスなほうがいいからね」

 片目を瞑り人差し指を立て、透矢の問いを自然に流した。

 しかし、考えていることはともかく、確かにこの人に、自分が管理省という組織に対する感情を言う必要がある。不思議にも、会話を交わすとそう思うのだ。

「まあいい、お前に言ったところで、何かが変わるとは思えないがな」

「なに、何かが変わると期待して聞いたわけじゃないから、言ってくれて構わないよ」

 佑弦の声が、三人しかいない執務室の空気を震わせる。

 その穏やかな雰囲気が漂う空間で、透矢は静かにあの日のことを思い出す。

 鱗鬼クラーケン。墓守が街の論外次元を維持するために使った、論外次元の波長を固定する災変。

 その災変の暴走によって、大事な人が、大事なものが、皆が皆で守ってきた、皆の宝物が壊れてしまった。¥積み上げた希望が一瞬で崩れた、あの一生忘れられない夜を思い出す。

「俺は……」

 確かに、もともと暴走することは鱗鬼クラーケンを抑える役割を任されていた透矢が一番分かる。そう思わなかったのは、希望的観測だ。暴走やその結末は管理省の介入だからじゃない。

 しかし、暴走するという事実を知っていながらも教えてくれないというのは、被害者側からすればそれは加害者と同然だ。

「俺は、皆は管理省のせいで死んでしまったと思っている」

 理性的じゃない考えだ。論理的じゃない言い訳だ。それはただ感情的で、管理省が重んじるものとは全く異なっている。けど、感情というものは、抑えると言ったら抑えられるものじゃない。目を逸らしても、どこかで綻びが出てしまう。

 だから、透矢は目を逸らすこともやり過ごすこともしない。納得がいく前に、絶対にだ。

「お前らの言い分は分かる。加苗から言われてな。けど、俺はそれを分かった上で、どうしても管理省を許せない。街の論外次元を維持してくれるから仕事はちゃんとやるけど、それだけは変わらない。俺が考えていることはこれだけだ」

「なるほど」

 一つ深く頷くと、佑弦は満足げな笑顔を透矢に向け、それから凪乃に目を移り、また透矢のほうに返す。

「安心したよ。それなら、僕から言えることは何もないね。君が納得するまで待つよ」

 何やら意味深げな笑みを一瞬見せて、佑弦がそれだけ言い残すと、一人で納得したかのような顔で仕事に戻った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る